遊びと学習2

 人間の脳が、遊びのような活動をしているときに、最も活性化するということから考えて、学びの効果は、遊び的要素によって向上することは、容易に想像できる。かつて、優れた業績をあげた人は、その分野に取り組んでいるとき、かならず遊びの精神をもっていたに違いないのである。もちろん、そこには大きな壁を乗りこえるという苦難があっただろうが、それも楽しいこと、好きなことをやっているからこそ克服できたのであろう。
 以上のことを踏まえて、学校教育について考えてみる。各種調査によって、日本の子どもたちは、学校に楽しくて通っていることがわかっている。もちろん、いじめや不登校という問題もあるが、大多数の子どもたちにとって学校は楽しいところなのである。しかし、その楽しさは、友達と一緒に過ごせるからであり、勉強が楽しいという子どもは、極めて少数しかいないこともわかっている。本来学校は学ぶところなのだから、勉強が楽しくなければ、効果的な学習をしている子どもはわずかしかいないことは、疑う余地がない。そして、その傾向は、近年ますます高まっている。
 学習指導要領による内容規制だけではなく、スタンダードなる言葉によって、教え方、行動様式までが、ある一定のものに揃えることが志向されている。

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遊びと学習1

 子どもが遊ばなくなったといわれるが、コロナは遊びについて考えさせる契機ともなっているようだ。コロナで行動が不自由になり、遊びも制約され、家庭内でのゲームなどが増えたというようないい方がある一方、全国の学校が休校になり、学校という制約がなくなったので、子どもたちは自由に遊べるようになったという人もいる。(神代洋一「新たな子ども時代の遊びを」『教育』2022.1)そういえば、全国学校休校中、我が家の前の公園では、けっこうたくさんの子どもたちが遊んでいたように思う。ただ、それが一般的な現象だったかどうかはわからない。
 コロナとは無関係に、昔風の子どもの遊びが少なくなってきたことは、時代的趨勢として確実にいえることだろう。地域によってずいぶん異なると思うが、理由はいくつか考えられる。

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悠仁親王が筑波大付属に進学?

 文春オンライン2021.12.22に、「悠仁さまの進学先は『偏差値67』筑波大学付属校」という記事が配信された。題名だけで判断すると、筑波大付属に決定したかのようだが、記事を読むと、その可能性を示唆したような文章だ。お茶の水女子大のほうで、提携校進学への出願にゴーサインがだされたようだという、秋篠宮家関係者の談話が載せられ、筑波大学の学長を直撃したところ「可能性がある」という回答だったという。今このブログを書いている時点で、配信から50分程度経過しいてるが、コメントはまだついていない。(他のことをしていて、4時間経過したが、いまはコメントが5000近くついている。) 
 決定したのかどうかは、わからないが、その可能性があるという点で考えてみよう。
 ひとことでいえば、「合格おめでとう」と、本心から言ってくれる人など、ほとんどいないだろう。少なくとも、ずっと注目されているこの問題について考えてきた人であれば、肯定的に考えられる要素が、ほとんど思いつかないくらいである。

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安倍晋三氏の反中国発言 習近平国賓招待を決めたのは誰だったか?

 「台湾有事は日本の有事だ」などと、かなり大仰なことを発言している安倍元首相は、よほど自分の地位に危機感をいだいているのだろう。あれだけ岸田氏を後継にするといいながら、結局突き放し、9月の総裁選では高市氏当選のために全力をあげていた。決選投票では岸田氏を推薦したといっても、それまでの岸田排除からみれば、人事で安倍氏の要求を、岸田総裁が飲まないのは、ごく当たり前のような気がする。
 盟友の高市氏と一緒に、反中国キャンペーンに熱をあげている。そうやって、岸田氏に揺さぶりを掛けているのだろう。
 しかし、いくら忘れっぽい日本国民でも、習近平首席を日本に国賓として招待したのは、安倍首相(当時)だったことを忘れるわけにはいかない。国賓としての招待に関しても、自民党内でかなりの議論があった。現在でも、当時の招待に反対する記事や書き込みは、多数残っていて、簡単に見ることができる。そうした、自民党内部ですら強かった反対を押し切って、安倍首相(当時)は、招待を決定した。そして、その日程は2020年4月の予定だった。

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鬼平犯科帳 密偵との連絡方法

 鬼平犯科帳は、今の時代でいえば、「刑事もの」だから、捜査や連絡の手法がたくさん出てくる。当然、江戸時代だから、科学捜査などはないし、連絡方法も原始的だ。捜査の手法なども、ほとんど現行犯逮捕が主で、証拠を積み重ねて犯人を割り出すなどということが、かなり難しい時代だった。行方不明だった同心の源八が発見されたが、記憶喪失になっていて、行き詰まってしまう。が、発見されたとき身につけていた破れた菅笠の文字から、藤沢あたりの街道にある茶店が特定されるというような例はあるが、他はほとんどが現行犯である。盗賊と思われる人のあとをつけ、居場所と押し込み先(引き込みとの連絡から探る)を探りあてて、押し込む現場を抑えるというやり方である。これが、火付け盗賊改めの本当のやり方だったかどうかはわからないが、指紋や遺留品の科学的分析、防犯カメラなどが使えなかった時代としては、わかりやすい設定といえる。
 しかし、連絡方法については、当時でもいろいろあったに違いない。そこに活躍するのが、密偵たちである。現在でも、スパイはたくさん活躍しているわけだが、実はスパイの連絡方法やものの渡し方などは、古典的な手法もたくさん残っているらしい。だから、鬼平犯科帳の密偵たちの活動のスタイルは、考えさせることが多々ある。

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バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』

 バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』のブルーレイ・ディスクをやっと聴き終えた。前に書いたブルゴスのベートーヴェン交響曲全集と一緒に購入し、ブルゴスはすぐに聴いたのだが、こちらは、かなり間をおいて、一幕ずつ聴いてきた。なにしろワーグナーものは、時間がないと聴くのが難しいし、やはり決意がいる。ヴェルディなら気軽に聴けるが。
 もうひとつ躊躇の理由として、かなり以前になるが、最初にCDが発売されたときに、トリスタンのペーター・ホフマンが、この録音に対して、かなり悪口を述べているインタビュー記事があったのだ。この録音は、ほんとうに嫌だった、しかし、カラヤンとの『パルジファル』は、とても楽しかったし、充実していたというような内容だった。そのために、CDを買う意欲は起きなかったのだが、BLが発売され、しかも在庫整理ということで、かなり安かったので購入したわけだ。

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大阪放火事件から刑法39条を考える1

 大阪で悲惨で放火事件が起きてしまった。放火犯人と思われる人物は、このビル内の心療内科に通っていた可能性があるといわれ、精神疾患を患っていたと考えられている。既に、精神疾患と犯罪の認定に関する議論が、ネットでは起きている。つまり、刑法39条の問題である。
(心神喪失及び心神耗弱)
第39条
1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
 以前から大論争となっている条文であり、条文そのものだけではなく、個々の犯罪に関しても、精神的な疾患がからんでいる犯罪の場合には、大きな議論になっている。この39条自体が、人権を否定する違憲の条文であるという見解から、この条文をできるだけ広く適用すべきであるという肯定的な見解まで、非常に広い議論の幅がある。
 現代の刑罰の基本的な考えは、犯罪とは、意図してその行為を行い、その行為の善悪を判断できる状況で実行されたものであるというものである。従って、意図していない行為(本来注意をしなければならないが、注意を怠ったために犯罪行為になってしまった場合は、注意義務という点で意図の有無を考えるから、意図したものとされる)、そして、善悪を判断できない状態での行為は、罰しないということになっている。しかし、犯罪を罰することの目的のひとつとして、被害者救済、被害感情への対応があるとすると、被害を受けたのに、加害者がまったく罰せられないことは、被害者として納得できないという感情が強く残る。

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生活保護訴訟 コピペ問題を考える

 生活保護費の減額をめぐって起こされた全国29の訴訟の判決が、いくつかでているが、今年になってだされた福岡(5月)、金沢(11月)、京都(9月)の判決に、同じ文章があり、また、誤字(NHK受診料)が共通して使われていたということで、コピペをしているのではないかという騒ぎになっている。もちろん、正確なことはわからないし、判事たちが、コピペしましたなどと認めるはずもない。また、裁判官は同じワープロを使っているはずなので、似たミスをする可能性もあるし、報道されている文章については、決まり文句的な表現でもあるので、似たとしても不自然ではないともいえる。判決文というのは、原告と被告の主張を整理して、どちらかの論理を採用するわけだから、被告が同じである以上、裁判が異なっても、同じ被告が同じような陳述をしているはずで、コピペしなくても、似たような判決文になる可能性は、小さいとはいえないだろう。
 また、原告にしても、29の訴訟を起こす集団訴訟だから、原告団として共通の文書を用意しているだろうし、そこではコピペが多用されていると想像できる。
 従って、私はコピペがあるから問題だとは、必ずしもいえないと思うのである。

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読書ノート『象徴の設計』松本清張

 今、日本の歴史で気になっているのは、幕末の尊皇攘夷思想が、なぜ、あれほど実力行使をするほどの外国排斥の思想になったかということ、そこから、どのように中国・朝鮮に対する差別意識が形成されたか、そして、明治にどのようにして天皇制が形成されたのかということだ。前のふたつは、現在、特に中国や韓国に対するヘイト的行動となって継続していること、3つめは、小室問題ですっかり国民の信頼が揺らいだ皇室の今後を考える点で、欠かせない歴史的な視点である。
 松本清張の『象徴の設計』は、軍人勅諭をつくるに至る山形有朋を中心とする政治の裏側を描いた作品で、清張の歴史物のひとつである。表面的な歴史学習では、明治15年に明治天皇が発布した軍人のための文書であるという程度しか教わらないが、実際にこの文書を作成した山形有朋が、なぜ、どういう問題意識でつくったのか、手にとるように理解できる。考えてみると、明治政府にとって、本当に切実な問題であるが、実は、現在の日本でも、似たような課題があるのだ。

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国民の教育権論の再建9 親の教育の自由1(持田栄一論2)

 持田は、公教育は国家が共同化した制度だから、そこに加われば、当然体制内化してしまうという状況認識を前提にして、親の復権のためには「参加」が必要であるという。しかし、参加すれば「体制内化」するのだから、持田のいう復権にはならないはずであるという矛盾を含んでいることだった。
 持田によれば、国民の教育権論のようなPTA民主化論では、変わらないし、また、話し合うだけでは済まない。そういうことで変わるというのは幻想共同体である。他方、PTAの無用論や解体論の立場には立たないと明言している。解体しても、何も生まれないからだ。(p106)
 存在している制度に組み込まれれば、体制内化してしまうので、それは誤りであるという議論は、当時さかんになされた。しかし、本当に誤りであり、体制内化しないためには、その制度に組み込まれないこと以外にはない。国家が設置した学校に通わず、フリースクールやホームスクールをする以外にはないだろう。PTAへの参加も同様だ。PTAは任意参加だから、加入しないことは十分に可能であるが、持田は、そういう無用論や解体論には与しないという。そこからは何も生まれないという。

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