「砂の器」のBDが来たので早速見た。
小説については、かなり疑問を呈したが、小説で不自然なところ、がっかりしたところは、映画版ではほとんどが変えられていて、自然な進行になっていた。ただ、そのためともいえるが、逆にかえって不自然になっている面もあった。原作小説と映画化、ドラマ化の比較は興味ある作業だが、多くの場合、名作をドラマ化すると、不満が残る。しかし、この「砂の器」の映画化は、完全に原作を上回っているとおもう。
主な殺人事件とその捜索の進行は、ほぼ原作と映画は同一だが、原作では3つの殺人と1つの自殺があるが、映画では、主要な殺人と自殺が事故死のように扱われて、その他は出てこない。したがって、推理小説的な複雑さは映画では単純化され、逆に不自然な殺人が行われないので、すっきりしている。ここが大きな違いだ。 “映画「砂の器」、前作よりずっと感動的” の続きを読む
月別: 2026年1月
五十嵐顕の人間類型的考察2
たしかに五十嵐は、当時の有力な理論であった「国民の教育権論」について、基本的には支持しながらも、批判的な見地を遠慮なく提起していた。また政府批判などもきびしいものがあった。こうした姿勢は、「環境適応型」とは違うのではないかという疑問も当然ある。
しかし、「国民の教育権」への批判的な見解についても、「国民の教育権論」の骨格そのものを批判、つまり、否定しているわけではなく、部分的な疑問を述べているに過ぎない。政府や権力への批判も、批判的陣営にいたわけだから、それは、むしろ陣営的に適応していたといったほうが、実態に近いだろう。
逆に、もし、環境適応型ではなく、真に主体的自律的人間であったなら、違うように振る舞ったのではないかと考えられることがいくつかある。 “五十嵐顕の人間類型的考察2” の続きを読む
五十嵐顕の人間類型的考察1
ここ数年間五十嵐顕の可能な限りたくさんの、つまり、全集に収録される文章のすべてを読んで、それまでの大学時代に受け、全集編集に参加するまで抱き続けてきた五十嵐顕像は、かなり根本的に変化することになった。それまでは、常識的に、戦闘的なマルクス主義教育学者だと思っていたが、そのこと自体は間違いないが、その前後にさまざまな変遷をしていること、そして、ずっと継続していた基本的人間型があることに気付いたのである。それは、端的に「環境適応型人間」と「宗教的人間・人格」である。その考えを共有する編集委員はなく、私の独自の規定であるが、私としては、かなりの確信をもってそう考えている。ただし、これは、非難とか批判ではなく、人間類型に属する人間であったとのリアルな認識である。
まず「環境適応型人間」について、そう考える理由をあげよう。 “五十嵐顕の人間類型的考察1” の続きを読む
「砂の器」は清張の最高傑作か?
松本清張の最高傑作ともされる「砂の器」を読み返した。何十年も前に読んで、細かいところはすっかり忘れていたから、初めて読んだも同然である。確かに、物語の壮大さ、筋構成の巧みさなど、さすがだと思うし、また、とにかく読んでいて飽きない、どんどん先に進んでいく感覚はすばらしい。
有名な映画をDVDなどを借りて見たいと思っていたところ、NHKで放映されたらしいのだが、テレビをほとんどみないために、逃してしまった。ぜひ近日中に見たいと思っている。当然、公開された当時みたのだが、映画と小説とでは、かなり違う部分がある。映画では強調されている、ハンセン病の父親と子どもが全国を遍歴すること、そして、差別問題は、小説ではほとんど扱われていない。親子が島根県にたどり着いたときに、親切な警官(三木)が父を施設にいれ、子どもを引き取ったが、やがて行方不明になったと簡略に書いているだけである。だから、小説を読み返したときに、ずいぶん意外に思った。だから、原作は、比較的オーソドックスな犯罪・推理小説といえる。 “「砂の器」は清張の最高傑作か?” の続きを読む
モーツァルトP協23番聴き比べ
まだ大学に勤めていた頃、同僚と音楽の話をしていたところ、(彼は学生時代大学オケでバイオリンを弾いていた)モーツァルトのピアノ協奏曲23番の話になり、彼は一番好きな曲でバレンボイムの演奏が気に入っていると話していた。私も23番は、モーツァルトのピアノ協奏曲のなかで、最高傑作だと思っていたのだが、私が普段聴いているのはポリーニとベームの共演のCDとDVDであり、バレンボイムはもっていなかったので、あまり深く掘りさげた話にはならなかった。 “モーツァルトP協23番聴き比べ” の続きを読む
都響定期演奏会、ベルディ・ワーグナー序曲バレエ集
昨日(1月23日)、東京都交響楽団の定期演奏会を聴いてきた。指揮者は、4月から首席客演指揮者になるというダニエーレ・ルスティオーニという人で、私はもちろん初めて聴いた指揮者で、名前も初めて知った。曲目は、このようなプロオーケストラでは、滅多にないようなものだった。前半はベルディの序曲(運命の力・シチリア島の夕べの祈り)とバレー音楽(マクベスとオテロ)、そして後半はすべて序曲・前奏曲(リエンツィ、タンホイザー、ローエングリン、ニュルンベルクのマイスタージンガー)だった。こういう曲目は、通常名曲コンサートのようなところで演奏されると思うから、率直に驚いた。 “都響定期演奏会、ベルディ・ワーグナー序曲バレエ集” の続きを読む
素晴らしかったウィーンフィル・ニューイヤーコンサート
今年のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートは、カナダ出身のセガンが指揮をした。少々事情があり、リアルタイムでは後半のみテレビで、全曲は2日に録画で視聴した。
一言でいえば、とてもよかった。近年のなかでは、ウェルザー・メストとともに出色のできだったといえる。しかも、ウェルザー・メストは、ウィンナワルツをすばらしく聴かせるという指揮だが、セガンはさらにエンターテイナー的に楽しませる。「青きドナウ」が終わったあとは、スタンディング・オベーションとなり、このコンサートでは、私は初めてみた。そしてそのあと、ラデツキー行進曲では、セガンは客席を歩き回り、ほとんど拍手の指揮をして、聴衆を喜ばせていた。この間オーケストラの指揮はほったらかしという感じだったのだが、オーケストラとしては、それこそ自分たちがやりたいようにやれるとご機嫌で演奏していたようだ。 “素晴らしかったウィーンフィル・ニューイヤーコンサート” の続きを読む
読書ノート「経済発展にともなう制度的環境変化と心理的段階推移の日越比較」5
ベトナムはどうか。
1 戦後の全国的社会主義経済建設1975から1986年
戦後の経済の混乱、1978年のカンボジア侵攻後の経済制裁
生理的欲求すら満たされない状況
2 市場経済への以降準備から開始 1985~1990
当初は市場経済がうまく機能せず。
生理的欲求と安全欲求のあいだで一進一退
3 社会主義志向型市場経済の実施1987から2000
市場経済が次第に機能。国民総生産も増大。国際社会への復帰。
安全欲求が満たされるように。次第に愛と所属欲求も。 “読書ノート「経済発展にともなう制度的環境変化と心理的段階推移の日越比較」5” の続きを読む
読書ノート「経済発展にともなう制度的環境変化と心理的段階推移の日越比較」4
では、具体的にどのようにマズロー理論を日越の経済発展にあてはめているのかをみよう。
日本は次のようになっている。
1 占領の時代 1945~1952
前半は、戦災からの復興 生理的欲求の時代
後半は、企業が社内食堂設置など不安が払拭される措置 安全の欲求の時代
2 55年体制と高度成長 1953~1973
農村から都市への移動の時代 愛と所属の欲求時代
高度成長後 承認の欲求が生じる
3 安定成長期1973~1980年代前半
承認欲求が満たされつつも、円高不況で承認欲求がおぼつかなくなる。
4 バブル経済とその崩壊1985以後
自己実現の欲求はおろか、承認の欲求まで失ってしまった。 “読書ノート「経済発展にともなう制度的環境変化と心理的段階推移の日越比較」4” の続きを読む