チェロのトラブル 適切な湿度の必要性

 今年に入ったころからだろうか、どうもチェロの鳴りが悪くなったような気がしていた。これは昨年夏あたりから、左手の痛みが出て、そのことによって、うまく楽器が扱えなくなっているのかと思っていた。
 チェロをやったことがある人はわかると思うが、チェロは弦が太いので、かなり力がいる。そして、練習をあまりしない状態から、久しぶりに弾くと、腕や手が痛くなるものだ。しかし、この時の痛さは、逆で、毎日練習しているのに、弾き始めると、それだけ痛くなるのだ。いよいよ歳なのかという思いと、ひょっとしたら、コロナワクチンの副作用だろうかという思いもよぎった。私はまったく副作用がなかったのだが、どうもワクチンを打った左手だけが痛い。そして、それが楽器の鳴りに影響しているのかなどと思っていたわけだ。昨年の7月に4回目、今年の1月初めに5回目のワクチン接種をしたので、ありうるとは思う。

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再論 学校教育から何を削るか18 教師の懲戒権

 学校教育法には、教師の懲戒権が規定されている。ただ、そのことによって、教師が具体的な仕事を押しつけられているわけではない。懲戒権を発動しない実践は可能であり、その場合、教師の労働が増大することはない。しかし、多かれ少なかれ、教師は法で規定されている懲戒権を行使しながら、授業をしている。そして、そのことによって、付随的な仕事が付加されてくるという仕組みになっている。
 こうした状況に対して、私は常々「懲戒権」は、学校の教職員としては校長のみに付与されるべきであり、一般教師にとっては、余計な規定だと思っている。教育は、あくまでも非権力的な営みであって、権力は不要である。もちろん、組織である以上、権力が必要となる場面はあるが、その権力は校長に一元化していること、逆にいえば、校長がしっかりと懲戒権を適切に行使すれば、教師は、懲戒などという教育的ではない要素を、実践のなかに持ち込まなくて済むようになり、より教育らしい実践が可能になるのではないだろうか。
 それは、結局、教師の過剰労働を軽減することにもなる。では、より詳しくみていこう。

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五十嵐顕研究1 はじめるにあたって

 ある事情から、五十嵐顕研究をする必要に迫られた。五十嵐顕といっても、最近の若い世代には、ほとんど知られていないと思われるが、私が学生だったときの研究室の教授であった。私自身は、もう一人の教授であった持田栄一教授を指導教官としていたが、五十嵐教授にも指導を受け、院生としては、五十嵐研のひとたちのほうが、ずっと親しかった。
 もっとも、指導を受けたといっても、持田教授にしても同様だが、当時はまだ大学紛争の余韻がさめない時期ということもあったのか、両教授は極めて多忙で、連日のように講演に走りまわり、雑誌に原稿を書き、更に研究もしていたから、授業などは、滅多に行なわれなかった。特に大学院の演習などは、院生が勝手に、あるいは自主的に運営しており、たまに教授が参加するという状況だった。最近のように、授業がきちんと行なわれ、指導も丁寧になされる、などということは、むしろ例外的だったのではなかろうか。特に、両教授のように有名人は、社会的活動のほうが中心だったのである。

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裁判記録、紙の保存が原則か

 神戸の連続児童殺傷事件の裁判記録が、廃棄されていたという報道を、記憶している人も多いだろう。そのときにもブログに書いたと思うが、「99.9%消える司法文書「保存場所と人の確保を」 青山学院大元教授の塚原英治さん、デジタル化は「閲覧の手段」に」(元青山学院大法科大学院教授の塚原英治弁護士 神戸新聞)という記事がでて、紙の原本を残すのが大事で、そのための場所と職員を確保することが必要だ、という主張をしている。多いに疑問である。
 
 塚原氏は、デジタルではなく、紙で残す理由を2点述べている。
・スキャンした文書では、原本と同一か確認できない。
・デジタル化は簡単ではない。

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森元首相、鈴木宗男氏のあきれたロシア応援発言

 ウクライナ戦線は膠着状態が続いているが、2月3月になると大きな戦闘が行なわれると予想されている。そうしたなか、森元首相が、「ロシアが負けることはない」と述べ、更に鈴木宗男氏が追随する発言を繰りかえしている。森氏の発言の紹介は、「森元首相「ロシアが負けることは考えられない」発言に大ブーイング「立ち位置が不適切」「さすがプーチンのお友達」…官房副長官も “反撃”」
であり、鈴木氏は、「鈴木宗男氏 森喜朗元首相に同調「私も国力から見てロシアが負けることはないと考える」」
である。
 ふたりは、ともに北方領土解決のために努力した事実はあり、プーチンともパイプをもっている。おそらく、今でもそうしたプーチンとの友好的関係を土台に発言しているのだろうが、状況の変化を認識できないのか、もともと、プーチンとの交渉自体か砂上の楼閣だったのか。おそらく、両方だろう。それはともかく、両氏が今回述べたことは、以下のように整理できる。
・ロシアは負けないし、もし負けたとしたら、大変なことになる。
・せっかく日露の改善に努力して積み立ててきたのに、ウクライナにこんなに肩入れしていいのか。(以上森)
・プーチンだけ批判するのは間違いで、ゼレンスキーも国民を苦しめている。
・ウクライナとロシアのどちらが日本にとって重要なのか。(ロシアだという含み)

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再論 学校教育から何を削るか17 入学試験制度3

 最期に、入試を廃止することなどできるのだろうかという、誰もが感じる疑問について考えてみよう。
 私が学生時代、「教育法」の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、できる限り早く廃止したいですね。」と講義で述べたことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。しかし、大学に勤めるようになり、研究の関心がオランダに向くようになって、オランダの教育を研究するようになると、そこには、入学試験制度そのものが存在しないことがわかった。別にオランダだけではない。ドイツにもフランスにもないのだ。(フランスはグランゼコールという超エリートの高等専門学校には入試がある。)中でも、オランダは、学校を当人が選べるという点で、際立っていた。もちろん、ハードルはある。尤も、オランダに限らず、入学試験制度が一般的に存在しない国でも、ある種の学校には、入学試験があることもわかった。それは、芸術系の学校である。芸術家を養成する学校では、もちろん、芸術的才能がないと話にならないから、当然、芸術的才能の程度を調べる試験を課す。ただ、それは入学試験とは呼ばれず、オーディションと呼ばれていた。実態は、入学試験であるが。

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読書ノート『シン日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』松竹伸幸(文春新書)2

 今回は、民主主義における基本的人権と組織の権利について考察してみたい。藤田氏が、著作や記者会見で公表する前に、何故党内で意見を述べなかったのかと批判していることは、前回紹介した。実際に松竹氏が、党内で意見を述べていたかどうかについては、よくわからない。松竹氏の本書において、その点は触れられていない。実際には、身近なひとたちに言っていただろうと思うが、少なくとも党本部に対して意見具申はしていなかったという前提で、考えてみたい。
 お断りしておくと、私は共産党の人間ではなく、内部や規約のことは知らない。こうした本や記事に引用されている限りで知っているだけである。だから、現実の党への提言などをするつもりで書いているわけではなく、あくまでも現在の日本における組織のあるべき姿を、考えようとしているだけである。
 
 前回引用した規約3条の「民主的な議論をつくし」と「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」のふたつをどのように、この事例で考えるか。

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読書ノート『シン日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』松竹伸幸(文春新書)1

 ここ数日、共産党員の松竹伸幸氏が、『シン・日本共産党宣言』という著書を出版し、それにあわせて記者会見をしたことが話題になっている。その動きを知ったのは、実は昨日なのだが、記者会見は19日であり、この本の奥付の出版日は20日である。記者会見では、党首公選を主張し、実現したら自分も立候補すると表明したようだ。各種新聞に出ている。そして、21日に、共産党の赤旗が、「規約と綱領からの逸脱は明らか――松竹伸幸氏の一連の言動について」と題する赤旗編集局次長藤田健氏の反論を掲載した。
 そして、23日に、志井委員長の記者会見があって、藤田見解につきていると述べたという経緯である。
 党内事情はまったく知らないので、裏事情はわからないし、また興味はないが、以前から関心をもっていた党首公選制については、やはり、考察しておきたいと思って、本書を早速購入し、読んでみた。

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再論 学校教育から何を削るか16 入学試験2

 前回は、受験体制の弊害をみたが、今回は日本の受験制度の特徴と問題を整理しておこう。
 日本で行なわれている入学試験のありかたは、日本人にとってはあまりに見慣れた風景であるし、また生徒たちの日常を支配してきたので、これが普通なのだと思っている人が多い。しかし、世界を見渡せば、日本の入学試験制度は、かなり特異な部類に属する。尤も、日本の受験システムが、最も苛烈な競争試験だというわけではなく、世界には、日本よりもずっと受験生にとって過酷なものがある。シンガポールの選抜制度は、小学校の平常の授業から大学入試まで、敗者復活戦のほとんどない選抜システムであり、日本の比ではないといえる。しかし、戦前からの受験システムは、日本の教育の質そのものを規定するほど浸透している点で、やはり、独特であり、なくす必要があるのである。
 

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再論 学校教育から何を削るか15 入学試験1

 日本の教育が受験制度によって支配されてきたことは、改めて指摘するまでもないが、この受験制度こそが、日本の教育を歪めているだけではなく、日本社会にも大きなマイナス要素をもたらしていることに、改めて注目する必要がある。もちろん、教師の過重労働の大きな原因ともなっている。だから、入試制度を廃止することは、教師の過重労働の改善だけではなく、日本の教育全体、そして社会の改善に役に立つことなのである。
 尤も、現在の日本の学校においては、かつての受験地獄と言われた高校入試や大学入試の時代とは異なっている。高校も大学も数値的には全入の時代で、学校を選ばなければ必ず入学できる学校がある。現在でも苛烈な受験勉強が必要なのは、有名私立・国立中学を受験する小学生と、高偏差値の大学を受験する高校生という、一部の者になっている。そして、「浪人」は死語になったとも言われているほどだ。しかし、それにもかかわらず、受験戦争時代の感覚が教育行政や教育界に浸透しており、なんとか競争を維持、拡大しようという政策も相変わらず存在している。従って、入試制度そのものの廃止という主張は、ますます意味をもってきている。というのは、入試制度がある以上、教育の質を変えることは難しいからである。

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