トランプの教育省閉鎖政策

 トランプ大統領が、教育省廃止にむけた大統領令に署名したということが、大きな話題になっている。あまり知られていないことだが、アメリカでは、1979年に連邦政府の教育省が設置されるまで、日本の文部科学省にあたる省庁は存在しなかった。しかし、州政府の中には、文部科学省にあたる部局が存在している。つまり、アメリカでは、憲法によって、教育は州の権限であることが、銘記されているのである。だから、連邦政府には、文部行政をおこなう必要がなかったといえる。これは、アメリカのような広大な面積をもつ国では、教育に対する要求も多様であるだろうし、学校教育は地域が主体となって運営することが適切である、という考えに基づいていたのであろう。

 しかし、教育にはお金がかかる。教師を養成・雇用し、学校建築をたて、さまざまな教具を用意し、子どもを就学させるためには、莫大な費用がかかる。地域によっては、そうした財政的負担に堪えられないところがある。それは、教育の機会均等という民主主義の原則に反することになるから、上部機関が、財政的補助をしなければならない。そうして、最終的には、連邦政府が財政的な補助をもするようになっていた。
 また、別の国家的養成として、農業が主体であった時期でも、農業の知識の充分でない農民もいたであろうし、また、工業が発達してくると、技術教育も必要となる。そうした産業にかかわる教育施設を設置し、産業教育を実施させるために、連邦政府が積極的に活動することもあった。補助金を梃子として、産業教育を活性化させるという方法をとったわけである。
 このようにみれば、アメリカの教育の展開にとって、連邦政府は、教育省がない時期にあっても、州に対して教育費の補助をおこなっていたのである。そして、その多くが、独自の教育政策を基礎にしていた。そうした展開の延長上に、連邦政府にも、常置の教育行政機関があったほうがいいではないか、という議論がでてくるのはごく自然な流れだろう。そうして、民主党の大統領だったカーターが教育省を設置することになったのである。ただし、教育が州の権限であることは、憲法上明確であるから、教育省の役割は、教育財政を主体とした「補助」的役割であることは、変わりがなかった。
 トランプのような「余計なお金をつかいたくない」大統領にとっては、財政補助が主要な任務であるような官庁は、まず最初に廃止したいのであろう。教育省に教育政策上のより強力で具体的な権限があるならば、そして、その権限を使ってトランプがやりたいことがあるのならば、おそらく、廃止という方向性はとらないに違いない。そういう意味で、今回の教育省廃止案は、いかにもトランプ的であるともいえる。ただ、教育の機会均等をより高いレベルで実施していくためには、中央政府による補助が必要であるということは、歴史が示してきたところである。結局は、この原則を大切なものと考えるかどうかではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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