自由の森学園とは
「子どもが決める」特集のひとつとして、自由の森学園の校長新井達也氏の「自由という難解と向き合う」という文章が掲載されている。「自由の森学園」は、埼玉県飯能市にある私立の中学・高校である。非常にユニークな教育をすることで、注目を浴びており、私のゼミの学生が卒業論文で取り上げたこともある。何度も、学園にいってインタビューをし、特に通常とは全くちがう卒業式も見に行って映像を撮ってきたのを見たが、興味深かった。細かい校則や指定の服などがないだけではなく、いろいろな行事を生徒が主体となって行うことで知られている。
しかし、そこにはなかなかたいへんな事情もあることが、新井氏の文章で紹介されている。
まず「生徒会」がなく、行事などは、その都度「実行委員会」によって運営する。「今年はこの行事をやるのかやらないのか」から始まって、コンセプトが決まると各係の活動が始まる。体育祭、学園祭、音楽祭の三大行事とともに、入学式、卒業式も生徒の実行委員会で行うという。 “『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索” の続きを読む
月別: 2019年6月
犯罪加害者の表現の自由2
では、犯罪者自身が、表現活動を行うことをどう考えるのか。
まず、事実として、インターネットが普及している現在では、それを完全に禁止することはできない。できないことをやろうとすることは無意味である。また、話題性をもつものであれば、営利的な公表手段を提供する企業が出てくることも避けられない。もちろん、それを野放しにしていいかは、別問題としてあるだろう。今でも話題になる女子高校生を40日間監禁して死に至らしめた事件は、単にニュース、ワイドショー、週刊誌で大々的に取り上げられただけではなく、映画にもなり、私は見ていないかが、報道によれば、興味本位的、醜悪な内容で、被害者の関係者を酷く不快にするものだったという。被害者側に精神的打撃をあたえるような内容の公表に対しては、不法行為を積極的に認定するという抑制手段もある。
犯罪加害者側が表現活動を行うとすると、それはどういう目的があるのだろうか。 “犯罪加害者の表現の自由2” の続きを読む
京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが
毎日新聞2019.6.27によると、京都工芸繊維大学の教授が、学内で無断の営利行為をしたということで、解雇されたという。
自分の専門にかかわる企業3社に学内の機器を使わせるなどして、設備使用料や技術指導料など、合計170万を受け取り、更に09-16年に学長の許可なく5社で兼業したという。ただし、受け取った金は研究費などにあて、私的流用はなかった。教授は事実を認め、「手続きや規則を認識していなかった」などと弁明したが、学長は「極めて遺憾。学生や社会に深くおわびします」とのコメントをだしたとされる。同趣旨の記事は多数あったが、どれもほぼ同じである。
あまりに簡単な記事なので詳細がわからず、材料不足でもあるが、可能性をいくつかあげつつ考えてみたい。 “京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが” の続きを読む
犯罪加害者の表現の自由1
松井茂樹氏の『犯罪加害者と表現の自由 「サムの息子法」を考える』(岩波書店)を読んだことと、ある放送局で、犯罪加害者のドキュメントを作成することに関連する相談を受けたことがきっかけで、犯罪加害者の表現問題を考え直してみた。かなり難しい問題で、日数がたってしまった。実は、まだまだ考えがまとまったとは言い難い。そこで、部分的に少しずつだしていくことにした。
松井氏の著作は、専門的な法律の書物で、法律的な論点を詳細に論じているが、それ以前の、単純な考え方として、この問題を考えてみたいと前から思っていた。これまでに、犯罪加害者の家族の問題を、考える機会がけっこうあったが、犯罪加害者、あるいはその家族、関係者の「表現問題」は、異なる側面からの考察が必要だろう。
犯罪加害者自身の著作として、松井氏は以下のものをあげている。
『絶歌』-神戸の少年A(当時14歳)による小学生2名を殺害した事件の当事者の著作
『無知の涙』『人民を忘れたカナリア』『木橋』- 連続射殺事件の永山則夫の著作
『霧の中』-殺害後人肉を食べた佐川一政の著作
『逮捕されるまで-空白の二年七カ月の記録』-英国人を殺害後逃亡していた市橋達也の著作
更に、安部穣二『堀の中の懲りない面々』や堀江貴文の『刑務所なう』も犯罪を犯して刑務所に入ったために書くことができた本としてあげている。
私自身は、『絶歌』『無知の涙』『木橋』は読んだが、『絶歌』だけは、あえて古本を購入した。著者に印税が入ることを拒否したかったからである。 “犯罪加害者の表現の自由1” の続きを読む
鬼平犯科帳 与力同心の転落
現代でも警察官の犯罪や不祥事が起きて、ニュースとなるが、江戸時代もおそらく同じだったろう。鬼平犯科帳でも、警察官に当たる与力・同心の犯罪がいくつか題材となっている。旗本の転落については、前に書いたが、旗本は身分の高い将軍の家臣だから、自分の強欲が原因となるような話が多かった。しかし、与力同心は、御家人なので禄も低いし、裕福ではない。町奉行の与力同心となると、町民たちからの付け届けという役得があって、経済的には余裕があったという記述も多数あるが、火付盗賊改め方の与力・同心については、あまりそういうことはなかったのかも知れない。鬼平犯科帳に、そういう場面はないし、また、研究書などでもそうした記述は読んだことがない。町奉行は、単なる警察機構ではなく、一般行政や司法機関でもあったので、町民にとっては、生活の便宜のために、付け届けをするうまみがあったのだろうが、火付盗賊改め方は純然たる刑事警察だから、町人にとっても付け届けをする動機がなかったのかも知れない。だから、経済的欲得で転落する話ではない。「殺しの波紋」と「あばたの新助(ドラマでは「おとし穴」)のふたつである。原作には、「狐雨」という話があるが、ドラマにはない。これはさすがにドラマにしにくかったのかも知れない。
最初に、「狐雨」を紹介しておく。 “鬼平犯科帳 与力同心の転落” の続きを読む
皇室問題を考える
昨今の皇室をめぐるメディア上での議論をみていると、時代の変遷を感じざるをえない。戦前は当然のこととして、戦後もずっと、「菊タブー」といわれ、皇室を批判的に議論することは、最大の言論のタブーであった。皇室批判を表面だって行えば、右翼の暴力的介入を覚悟する必要があったほどである。
ウィキペディアによれば、2005年くらいまでは、菊タブー的現象があったようだが、2010年以降には、あまり起こっていない。最初のきっかけは、雅子皇太子妃へのメディア上での批判を宮内庁が放置したことだったようだ。当時の皇太子による「人格否定発言」があり、かなり激しい皇太子一家へのバッシングがあった。当時の皇太子の海外訪問などに関しても、酷い評価がインターネット上に今でも残っていて、海外王室からはあきれられているというような文があふれているのだ。 “皇室問題を考える” の続きを読む
学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権
あらゆる組織は、組織的な秩序を維持するために規則を設け、規則に違反したものを罰する。そうしないと、組織が維持できないからである。このことは、罰は組織の性質によって、その内容や与える方法が規定されることを意味する。国家という組織を維持するためには、法律で規定した「刑罰」を実行するが、それは国家社会の安全と秩序を乱す者を排除することが、当初のやり方であった。その後、追放や死刑という排除が難しくなると、刑務所に閉じ込めることで社会から排除するか、あるいは更生させることで危険性を排除する方法が付加されるようになった。刑罰の目的は国家・社会の安全と秩序の回復にあるから、排除と更生という手段がとられることになる。
会社や役所のような仕事を行う組織では、排除は免職や停職、また重大な違反でなければ訓告や戒告などの懲戒処分がなされる。
懲戒が規定されていることは学校も変わらない。では、学校ではどのような懲戒が行われるのか。学校は教師と生徒という全く異なる立場の人間が存在するので、それぞれの懲戒は異なる内容、異なる原則が適用される。教師は会社や役所と同じように、仕事を行っているので、懲戒の内容は免職・停職・訓告等で同じである。しかし、生徒は教育の対象であり、仕事をしているわけではないので、まったく異なった内容であるが、しかし、法的な規定としては、実はすべてが明確ではない。 “学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権” の続きを読む
学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討
近年の働き方改革の「教育版」として、中教審が今年1月に「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」という提言を公表した。2019.1.25
多方面に関する検討をしたことがわかるが、しかし、私が見るかぎり、これで教師の過酷な労働、中教審も使っている「ブラック学校」が改善するとは到底思えなかった。尤も、問題に対する認識は示しているのであるが、結局、文科省の審議会であるという点での限界、明確に提言できない領域があるという感じがするというべきなのかも知れない。
まず答申は、日本の教師は情熱と知識等の教育水準において、世界に抜き出たものがあると理解を示す一方で、現在の教師の労働の状況は「差し迫った状況にある」と改善の必要性を訴えている。特に、文科省と教育委員会は本気で取り組む必要があると主張する。これまで本気で取り組んでいなかったということなのだろうか。私はむしろ、教職の魅力を無くすように、文科省は執拗に追求してきたように思えてならない。 “学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討” の続きを読む
保釈の拡大は間違いではない
実刑が確定したために、保釈中だった容疑者を収監のために赴いた検察官と警官を振り切って逃げたという事件で、保釈問題が議論されている。収容のために、横浜地検担当者5名と、神奈川県警厚木署員2名を一人の男が刃物を振りかざしたとはいえ、逃げてしまい、その後緊急配備までに4時間もかかり、2日たった現在(22日14時半)捕まっていないという失態である。最近は、ニュースにあまり驚かなくなってしまったが、これには驚いた。
そして、こういう容疑者を保釈したのは、適切なのかという疑問が出されているわけである。この背景には、近年裁判所が保釈を認める事例が多くなっていることもあるとされる。
逆にカルロス・ゴーン氏の事例では、なかなか保釈を認めないことが、国際的に批判されていた。まだ容疑者が捕まっていない段階であるが、小林容疑者を保釈したことについては、私は間違っているとは思えない。むしろ、これまであまりに厳格に拘置していたことのほうが問題だったと思うので、保釈拡大は適切な方向ではないだろうか。アメリカのように、殺人容疑でも保釈されるというのは、さすがに疑問だが。
ただし、アメリカと日本で異なるのは、日本の刑事犯は、起訴された事件では、圧倒的に有罪となっている、確実に有罪にできる事件だけ起訴しているという背景を考えなければならない。つまり、起訴された容疑者は、犯人なのだという感覚がある。近代刑事政策における「推定無罪」という感覚は、日本人にはかなり弱いのである。もちろん、アメリカのように、有罪ではないかも知れない、あるいは有罪にできないかも知れない段階で、容疑者を起訴するのがいいとは思わない。「推定無罪」というのは、そうした疑わしい者は起訴するという訴訟文化と結びついているような気もする。
しかし、だからといって、日本では起訴=有罪としても、有罪が確定するまでは、推定無罪の原則を適用すべきである。そして、証拠隠滅や逃亡の恐れがない場合には、保釈すべきである。拘置していれば、その間の生活も保障するわけだし、それはそれとして不合理である。
ただし、やはり、保釈金などは、逃亡する気持ちを起こさせない額に設定すべきであるし、また、逃亡した場合には、かならず刑をかなりの程度引き上げるようにする必要がある。
では、今回の事件についてどう思うか。
もちろん、保釈していなければ起きなかった事件であるが、しかし、実刑が確定して、4カ月も放置していたことが最も大きな問題であって、報道によれば、実刑確定後、友人たちが送別会などをしてくれたというが、そういうなかで、逃亡を考えだした可能性が高いのではないだろうか。仮定の話は意味がないにしても、実刑確定後、最初の呼び出しに応じなかった時点で直ぐに収容にいけば、逃亡意思が固まっていなかった可能性は強いと想像できる。逃亡には友人の援助があるようなので、4カ月の間にそうした雰囲気が形成されていたと考えるのは自然だろう。
もうひとつ不可解なのは、男が7人、しかもそのうちの2人は警察官であるのに、一人の男に逃げられたということだ。しかも、逃げられたあと、緊急配備までに4時間もかかるというのは、警察の完全な失態だろう。なぜ、神奈川県刑は、これほどまでに大きな失策をするのだろうか。保釈論議も大事だが、こちらのほうが重大だ。
『教育』2019.7を読む 子どもが決める
『教育』7月号は、教師と子どもの主体的に関わるシステムについて特集されている。今回は、山本敏郎「アソシエーション過程としての自治」を取り上げる。
山本氏の主張をまとめると以下のようになるだろう。
「現在の児童会・生徒会は、学校の管理-運営に対する「協力参加」であり、しかも、集団つくりにとって貴重な学級会活動は、1989年の学習指導要領から学級指導と統合され、学級活動になっており、学級の子ども組織は公式に存在しないことになっている。子ども自身にかかわることがらについては、子どもの権利条約などで認められているが。(意見表明権)
組織は、主体的・能動的・意識的に結びつくアソシエーションと、他人によって結びつけられたコンバインドというふたつがあり、コンバインドとしての児童会・生徒会をアソシエーションに転換していく実践が望まれる。子どもの権利条約では、「子どもの見解が、その年齢及び成熟に従い、正当に重視される」としており、管理者と交渉する権利が認められるべきである。権力過程としての教師の主導権を、子どもに奪い取らせる過程として自治的集団づくりが実践されてきた。それこそアソシエーション過程である。特定の問題関心や共通の趣味などの有志の自発的な組織づくりをすすめてきた。問題解決のための当事者グループ、クラブ・サークル的なグループ、援助のためのボランティアグループ、社会的な問題に関心のある社会運動グループなどである。」 “『教育』2019.7を読む 子どもが決める” の続きを読む