鬼平犯科帳 与力同心の転落

 現代でも警察官の犯罪や不祥事が起きて、ニュースとなるが、江戸時代もおそらく同じだったろう。鬼平犯科帳でも、警察官に当たる与力・同心の犯罪がいくつか題材となっている。旗本の転落については、前に書いたが、旗本は身分の高い将軍の家臣だから、自分の強欲が原因となるような話が多かった。しかし、与力同心は、御家人なので禄も低いし、裕福ではない。町奉行の与力同心となると、町民たちからの付け届けという役得があって、経済的には余裕があったという記述も多数あるが、火付盗賊改め方の与力・同心については、あまりそういうことはなかったのかも知れない。鬼平犯科帳に、そういう場面はないし、また、研究書などでもそうした記述は読んだことがない。町奉行は、単なる警察機構ではなく、一般行政や司法機関でもあったので、町民にとっては、生活の便宜のために、付け届けをするうまみがあったのだろうが、火付盗賊改め方は純然たる刑事警察だから、町人にとっても付け届けをする動機がなかったのかも知れない。だから、経済的欲得で転落する話ではない。「殺しの波紋」と「あばたの新助(ドラマでは「おとし穴」)のふたつである。原作には、「狐雨」という話があるが、ドラマにはない。これはさすがにドラマにしにくかったのかも知れない。
 最初に、「狐雨」を紹介しておく。狐雨
 同心の青木助五郎が、火付盗賊改め方の同心であることをかさに着て、いろいろな店でたかっているという噂がでている。青木は小者の盗賊を多数とらえるということで、手柄をあげている。しかし、悪い人間とつきあっていて、その大物を見逃すかわりに小者の情報をもらっているのではないかという疑心も乗じさせている。平蔵はとりあわないが、息子の辰蔵が、岡場所で見たという報告をしたので、平蔵も気をつけるようになる。町奉行も探索しており、若年寄から、平蔵が呼び出される。青木を呼び出して、若年寄から受けた注意を率直に告げ、どう思うか質問するのだが、青木は、冷静に対応して、迷惑をかけないようにやっていると断言する。
 いろいろと青木に関する話題がでるが、その中に、父親が狐の首を切り落として、家に持ち帰ったことがあるという話が出てくる。そして、間もなくある事件が起きる。それは、気が狂った感の青木が、役宅に現われ、食事を所望し、平蔵を呼びつける。油揚げをもってこいといって、食べ、その後、自分が稲荷山の天日狐であるという。そして、16年前に、青木の父親に首を切り落とされたのだが、成仏できず、さまよっているうちに、やっと息子の青木助五郎をみつけたので、そこに乗り移ったのだといって、そのあと青木助五郎がやっている犯罪の手伝いの事実を暴露してしまう。そのあと狂ったように踊りだし、気絶する。
 後日談はなく、青木の体が弱っていったというだけで、回復したとも、死んだとも書いていない。ドラマにする困難はよくわかる。これを演じられる俳優がいて、リアルに演じたならば、非常に印象的なドラマになったと思うのだが。
 また、狐になったのは、芝居で、結局、盗賊の手伝いをしているわけだから、どうやって罪を軽くするかを考えた結果、狂人の体を装って白状したということか、本当に心労で気が狂ってしまったのか、実際にそういうことがあるのか、私にはわからない。冷静に考えれば、前者だろうが、長谷川平蔵の実録を材料、あるいは参考にした物語が多いなかで、このような非現実的な話は、私の記憶では、この一話だけである。青木は養子だったので、それ以前からの関係で、裏の世界の人間と知り合いで、養子になったために火付盗賊改の同心になったわけで、以前からの関係を利用して手柄をあげていたことと、それなりの援助を受けていたために、噂となったことが躓きとなった。
殺しの波紋
 「殺しの波紋」は、与力富田達五郎が、酔った旗本に体をぶつけられ、謝ったにもかかわらず難癖をつけられ、切り合いになって殺害してしまう。届ければ小さな罪ですんだかも知れない。富田はそれを隠してしまうが、表は商人だが、実は盗賊という橋本屋にみられており、脅迫されて盗みの手伝いをさせられる。要求が大きくなってきたので、橋本屋も殺害するが、それもまた、盗賊の犬神の竹松にみられており、後日100両を要求する脅迫状を受け取る。竹松は弟を富田に切られているので、その復讐を目論んでいる。
 その脅迫状を役宅の部屋で一人読んでいるときに、平蔵が声をかけるが、それまで全く気づかなかったことに平蔵は不信を抱き、伊三次に手紙を届けた人物を、門番に聞き出すように命じる。すると、翌日その門番が殺されている。そこで富田への疑いを強めた平蔵は、元盗賊だった平野屋源助(ドラマでは相模の彦十。これは不自然な設定である。彦十は役宅に出入りしており、富田には顔を知られているから、平蔵が依頼するはずがない。)に富田の尾行を依頼する。富田は100両を作るために、辻斬りをし、それを見られてしまう。そして、紀国屋という商家に押し入ろうとしているという情報をえて、平蔵は待ち伏せをして、富田を切ってしまう。最後に、同心たちに、人は始めから悪を知っているのではなく、何かの拍子で小さな悪事をしてしまん、それを隠そうとして更に大きな悪事に踏み込んでいくものだという教訓をきかせる。
 ドラマは、大筋は同じだが、細かいところで、微妙な違いがあり、全体的な印象がかなり異なる。橋本屋への協力は、ほとんど省かれていて、竹松の復讐への仕方ない対応という筋になっており、富田には婚礼間近な娘がいて、なんとか娘の婚礼は無事終えさせたいと願って、悩み抜いている。そして、平蔵は、それを考慮して、富田の抜群の働きを考慮して、婚約が済むように配慮しているのである。原作では、脅迫を切り抜けるために、どんどん大きな悪事をしてしまうような人物であるが、ドラマでは、もっと善良な人物である。
あばたの新助
 「あばたの新助(おとし穴)」は、平蔵に復讐を誓って、実にたくさんの攻撃をしてくる網切の甚五郎(ドラマ間では夜烏の勘兵衛になっている)が、女賊(甚五郎の女房となっているが、実際は不明)お才を佐々木新助に近づかせ、肉体関係に持ち込む。何度目かの合いびきの際に、平蔵がみかけて後をつけるのだが、特に気にしないまま放置する。平蔵は、盗賊を見抜くのは神業的にすごいとされているが、このように女賊に関しては、あまり見抜けないようだ。あるときお才は、新助を別の場所につれていき、そこでの行為の最中、突然、文鋏の友吉という甚五郎の片腕が現われ、お才が甚五郎の女房であることを告げ、協力するように強要する。主に、夜の見回りの情報を知らせる協力から入り、やがて見張りなどもさせられる。見回りのないところが狙われているところから、平蔵は内部に密告者がいると悩み、そのための対策をいろいろととる。この場面が小説では緻密に進んでいくが、ドラマではあっさりしている。あるとき役宅にいた新助に、平蔵が「浮気はやんだか」と声をかけると、すべて知られていると錯覚した新助が、狂人のごとくかけだしていくので、平蔵は新助を追わせ、またお才の逮捕を命じる。
 新助はまっすぐお才のいる盗人宿にいき、お才を役宅に連行しようとするが、お才は振り切って逃げ、気づかれて友吉や浪人に殺害されてしまう。新助の妻が、筆頭与力の佐嶋忠助の姪であったからでもあろうが、お才との浮気は伏せて、網切の甚五郎の探索をしていたということにして、殉職扱いにしてしまう。
 ドラマは、ここでも大筋は同じなのだが、やはりお才との関係が違っている。原作ではお才は、女賊そのもので、自分の役割を果たしているだけだが、ドラマでは、本気で新助が好きになってしまい、甚五郎への疑念も生じている。最後にやってきた新助が、お前は助命してもらうようにするから、役宅にいって自首しようというと、それに従ってでかけるのだが、途中で甚五郎一味に捕まってしまい、新助とお才は殺害されてしまう。
 富田の場合は、現在では暴力団と関係をもってしまった警官が陥ることがあるような事例だが、新助は、美人局だから、今でも多数あるだろう。
 ふたつの事件で共通していることは、明らかに通常の平蔵であれば、疑いをかけて行動するのに、富田の場合には、変だと思いながら、最後の最後まで直接行動にはでない。逮捕して白状させればという思いもあるが、踏み切らないのである。
 新助の場合には、自分が仲人をしたのに、浮気の現場をみかけながら、そのまま放置している。そして、結局は最後まで、新助が密告者であることに気づかない。「浮気は・・」と声をかけて、新助が逃げ出して初めて確信しているのである。
 これは、平蔵には、部下に対してどんなに小さくても疑いをもったら、自分は長官としてやっていけない、絶対的に部下を信じなければならないのだ、という強い信念があるからである。ここらが、「理想の上司」と言われる所以だろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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