皇室問題を考える

 昨今の皇室をめぐるメディア上での議論をみていると、時代の変遷を感じざるをえない。戦前は当然のこととして、戦後もずっと、「菊タブー」といわれ、皇室を批判的に議論することは、最大の言論のタブーであった。皇室批判を表面だって行えば、右翼の暴力的介入を覚悟する必要があったほどである。
 ウィキペディアによれば、2005年くらいまでは、菊タブー的現象があったようだが、2010年以降には、あまり起こっていない。最初のきっかけは、雅子皇太子妃へのメディア上での批判を宮内庁が放置したことだったようだ。当時の皇太子による「人格否定発言」があり、かなり激しい皇太子一家へのバッシングがあった。当時の皇太子の海外訪問などに関しても、酷い評価がインターネット上に今でも残っていて、海外王室からはあきれられているというような文があふれているのだ。
 その結果皇太子妃の病気が長く続き、公務等も皇太子一人で行うことが多く、バッシングは許容されたかの雰囲気があった。しかも、秋篠宮自身による皇太子批判的言質もあった。
 そして、そういう時期に皇室に関する重大な事態も進行していた。小泉首相による、女性天皇、女系天皇を容認する皇室典範の改正論議が進んでおり、ほぼ審議会や国民的合意が形成されつつあったときに、秋篠宮家での懐妊が発表され、悠仁親王が誕生、そしてそれ以前に小泉首相の皇室典範改正の断念という事態である。そして、これは今回、小室圭問題が国民的関心を呼ぶに及んで、天皇継承問題にまで発展している。
 現在「事実上」の天皇継承者は悠仁親王一人しかおらず、将来男子が生まれなければ天皇継承者がいなくなる事態を迎え、いろいろな議論が出ている。基本的には、女性天皇・女系天皇を認める立場と、男系天皇だけを認める立場、女性でも男系であれば認める立場などに分かれている。
 女性天皇・女系天皇を容認する立場は、国民によって広く支持されており、小泉元首相によって出された答申書が既に存在する。皇室典範改正が必要である。
 それに対して、男系天皇に固執する立場は、またいくつかの立場が存在する。
 現在の皇室典範による、直系男子に限る立場である。この立場は更にいくつかの立場に分かれる。
 ・敗戦によって消滅させられた旧宮家の復活。その復活宮家の男性には皇位継承を認めるものである。
 ・内親王を、旧宮家の元天皇の直系男子と結婚させ、生まれた男子に皇位継承権を認める。
 しかし、いずれの立場にも大きな弱点がある。
 女性天皇・女系天皇を認める立場は、悠仁親王の誕生で潰されたように、男系主義者の大きな抵抗があり、安部首相は完全に反対の立場であること。そして、小室問題が、暗雲をもたらしている。女性天皇あるいは女性宮家を認めると彼のような人物が天皇の夫あるいは義兄になる可能性があるのだと。
 旧宮家の復活については、旧宮家の多くが消極的であり、70年も経過しているのに、「継承」という言葉にふさわしいのかという疑問が強くある。
 旧宮家との結婚は、現在の自由意志による結婚という価値観に完全に反することになる。また、たまたま自由意志による旧宮家との結婚が実現したとしても、正式に宮家として認められなければ、「男系」ということはできないはずである。
 さて、もうひとつの皇室をめぐる議論に、これまでとは異なる局面がでている。
 小室問題では、皇室が税金で支えられていることが強調され、もし、真子内親王があくまで小室氏と結婚したいのであれば、皇室離脱して、支度金を辞退すべきであるという議論をする者が、インターネット上では圧倒的に多い。そして、この問題を解決することのできない秋篠宮家全体に対して、皇室離脱せよという書き込みも多数見られる。
 更に注目すべき現象として、トランプ大統領接待などで、新陛下と皇后の評価、人気が鰻登りに高くなっている。
 こうした複合的な論争状況が現在起きているわけである。
 これはどう考えるべきなのか。
 新陛下と皇后の新たな崇拝が、天皇崇拝的雰囲気を形成していくのか。あるいは、秋篠宮批判・非難が、国民の総意にもとづく天皇家のあり方の具体化として、つまり、自由な議論の上にたつ民主的なあり方として定着していくのか、あるいは、そうした非難が、天皇制というシステムへの批判につながっていくのか、あるいは、こうした膠着した議論が解決しないまま、皇室継承者が消えてしまうことになるのか。
こうした皇室のごたごたを見ると、オランダにいたころに、オランダ王室をみたときの感想が思い出される。
1992年のいったとき、非常に驚いたのは、オランダ人の王室を見る目が、極めて経済合理性に基づいている感じがあったことだ。王室は、オランダ国民の税金で生活しているのだから、オランダのために有益な活動をしているか、オランダ人はしっかりとみているというのである。オランダは一般的にSPがものものしく就くことはあまりない。女王でも数名である。400年ぶりの政治的暗殺といわれたポピュリストのが暗殺されるまでは、政治家にはまったく就かなかったそうだ。女王もわずかなSPと一緒に買い物にいくという光景が、テレビで放映されていた。
 2002年にいったときには、ふたつあった。ウィレム・アレクサンダー皇太子の結婚に関する話題をそうとう聞かされた。行く少し前に結婚したのだが、かなり大変だったようだ。というのは、マキスム皇太子妃となった人は、アルゼンチン人で、父親がアルゼンチンの独裁者ビデラ政府の農業大臣であったことが問題となったのである。虐殺を行った政権の大臣の娘が、オランダの皇太子妃になっていいのかという、世論の反対が沸騰したのだ。マキシマが、父は確かにビデラ内閣の大臣だったが、虐殺には関与していないと訴え、調査もそれを認めた。そして、婚約に至ったのだが、テレビ会見で、極めて流暢なオランダ語で、会見を行い、すっかりオランダ人の心を掴んだのだと、友人はいっていた。
 もうひとつは、ベアトリクス女王の夫クラウス殿下が亡くなった。大規模な葬儀が行われたわけだが、そのクラウス殿下はずっと精神的な病を患っていたことは、オランダ人なら誰でも知っているようだ。殿下はドイツ人で、オランダ人にとっては、ドイツ人は、占領され、苦しめられた恨みがある。それがよりによって、ドイツの貴族が、オランダの王女と結婚したものだから、とにかく風当たりが強かったわけである。それで精神が病んだということだが、人はいいんだけど、と多くの人がいっていた。
 雅子皇太子妃が療養するためにオランダに滞在したのは、父親の赴任先であることもあるが、この皇室の状況が、自分のためになにか役に立つものをもっているのではないかと思ったからだろう。
 この三つの事例は、いずれも、現在の日本の皇室と似た事情であるともいえる。
 秋篠宮家に対する批判は、国民の税金で支えられていることに、充分応えていないという意識が感じられる。以前の日本人には、あまりなかった感覚だ。
 以前の雅子皇太子妃の状況は、クラウス殿下と重なるし、小室圭氏との結婚問題は、マキシム王妃と重なる。最も、マキシム皇太子妃は、みごとな会見で国民の心を掴んだが、小室氏は難しそうだ。むしろめざしているものが違うのかも知れない。

 今進行している皇室をめぐる論議は、最初のきっかけは生前退位だった。
 第一に、譲位あるいは生前退位によって生じた、皇室に対するお祭騒ぎ的な現象のもつ意味である。生前退位については、戦後にも何度か議論があった。最初の、最も大きな議論は、昭和天皇の戦争責任を果たすために退位すべきであるという議論である。
 第二に、その後、象徴天皇制とは何かが議論され、皇室が基本的人権が認められていないことをどう考えるかという筋のものである。かつて三笠宮が、もし、政府が戦争を決定して、天皇がどうしてもその戦争を否定したいときには、天皇は、自分で見解を表明することもできないのだから、譲位するか自殺するしかないのか、という問題提起をしたことがあるのだそうだ。同様の提起として、奥平康弘氏の議論がある。
 『法律時報』1990.9に、「天皇退位論のためのひとつの覚書」という奥平康弘氏の論文がある。30年前の文章だから、今回の生前退位の問題とはまったく違い、韓国大統領来日に際して、韓国政府から、日本の植民地政策での圧政に対する、天皇からの謝罪がほしいという要請を巡って起きた議論を念頭に置いたものである。当時、天皇は自らの意思で政治行為をすることを禁じられている理由で、日本政府は天皇の謝罪を断っている。奥平氏は、それは逆に、天皇の政治利用ではないかという批判をしており、「天皇・明仁の個人的責任において処理してしかるべきであった」という見解を示している。問題になっているのは、当然、昭和天皇の戦争責任に関連するのだが、奥平氏は、当時天皇だったわけではない明仁天皇は、個人としての感情を表明する権利はあるという。興味深いことに、女性天皇を認めるべきであるとする、当時強く主張する者があった議論に対しては、女性天皇を認めるかどうかは、極めて狭い、つまり数人にしか関係な領域のことで、憲法の定める「男女平等」とは次元の違う問題であると退けている。ただし、「天皇は、天皇でなくなる自由を行使し、普通の人間になりえたなら、こちらの人権は普通のひとと同様に共有できることになる」と述べ、つまり、個人の見解表明と、人権を得るための天皇の退位する権利を主張している。退位を認めれば、「誰もいなくなった」ら困るという点については、奥平氏は共和主義であると断りつつ、天皇制というシステムが歴史的使命を果たして終焉するのであるとする。結論として、退位を封じる皇室典範は違憲であるという。
 そして、今回の実際に行われた生前退位=譲位である。これは、当時平成天皇が、安部政権にかなり強い抵抗を示して強行したものと受け取られるものだ。実際に、皇室典範は譲位を認めていないわけだし、そもそも、天皇は政治的意思表示を認められていないのだから、譲位するなどという政治的行為を主張してはならない、という見解は、右派論客から強くだされていた。そもそも、何故、平成天皇は譲位を決意したのか。自己表明したところでは、天皇は国民の総意に基づくものであり、そのためには、国民に寄り添う公務を実践できることが条件であり、高齢になって、身体的に困難になったら、国民に寄り添うことができなくなる、その場合には、新しい天皇にバトンタッチするのが正しいあり方だ、というものであると理解されている。
 平成天皇自身の表明はこのようなものだったが、本当の意図は、皇室の存続を確固たるものにするための行動だったという解釈もある。昭和天皇からの代替わりと今回は明らかに、社会的ムードが違っていた。当然天皇の崩御に続く代替わりと、親から子どもへの生前代替わりとは、明らかに後者のほうが明るいムードに包まれる。上のほうに書いた令和天皇が皇太子であった時期の酷評に近いものは、ほんの2、3年前までのものだったのである。なんとか、そうした評価を変化させ、順調な滑り出しを演出する必要があると考えて、周到な準備をして、新天皇・皇后が国民に受け入れられるような条件を整える。そうすることによって、天皇制の維持発展を図ったという見方である。この見方は、第一のお祭騒ぎの意味を明らかにする。確かに摂政というシステムがあるのだから、公務ができなくなれば、摂政を置けばよいという議論は、現行制度のものであった。
 では、徳仁皇太子が摂政になった場合と、今回のように天皇になったときとでは、どのような違いが生じたのだろうか。おそらく、トランプ大統領歓迎という行事は組まれなかったろうし、そこでの即位早々の高い評価を確立することもなかったと考えられる。これまでの経緯からすれば、逆転満塁サラナラホームランとでも例えられるような、評価の逆転を実現した。
 しかし、これは本当に憲法の趣旨と合致する動向なのだろうか。
 平成天皇・皇后は、確かに、国民に寄り添うという姿勢で、災害を受けた現地に赴き、被災者との対話を重視してきた。平成30年間は本当に自然災害の多い時期だったから、そうした天皇の姿勢は、国民の共感をえた。そして、被災者に寄り添うというあり方は、別の面から見ると、政府の政治とは無関係の、あるいはそれを超越したところでの活動だった。だから、内閣の助言とは考えられない行動も、天皇の政治的行為とは見なされなかった。これが、災害復興に熱心とは言い難い安部内閣と、あわないように写ってきた。ただし、もうひとつの側面があった。昭和天皇までは、外国からの使節を接待するという意味での皇室外交はしてきたが、自ら外国にでかけていく皇室外交はしてこなかったはずである。昭和天皇が外国訪問したのは2度だけで、いずれも親善訪問である。
 それに対して、平成天皇は、毎年に近いほど外国訪問をしている。
 令和天皇・皇后の主な関心は、皇室外交にあると言われてきた。トランプ歓迎式典は、そういう意味で、目指すものそのものだったわけだ。だが、外交は、政治そのものである。内閣の助言と承認を超越した皇室外交はありえない。もし、安部内閣が集団的自衛権を発動して、戦争を始めた場合、ないことを祈るが、アメリカがイランと戦争を始めたとして、ホルムズ海峡防衛は日本にとっても死活的重要性があるとして、アメリカと共に戦争を始め、内閣の助言と承認によって、アメリカの戦争支持をえるための皇室外交を積極的に行うように決められたら、それに従うのだろうか。これは荒唐無稽な想像に過ぎないのだろうか。
 まだまだ思考迷路は広がっていくのだが、今回はこれまで。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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