トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に


 9月29日の毎日新聞に、「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪」という記事があった。昨日は毎日新聞のページで読んだので、ただ今日コメントを書こうと思っていたのだが、今日ヤフーニュースで読むと、6000件ものコメントがついていた。とうてい読みきれないので、それは読まずに、書くことにするが、かなり関心を引き起こしたことは間違いない。
 どのような記事かというと、今年の5月に、中学生2,3年と、小学生5,6年の合計331人に、スクールカウンセラーが行った授業だそうだ。内容は、以下のように紹介されている。

 「プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。」

 そして、授業の趣旨は、以下のように説明されていた。 “トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に” の続きを読む

道徳教育ノート・矢内原研究ノート 矢内原の道徳教育論

 矢内原忠雄は大学教授ではあったが、教育学が専門だったわけではないので、教育について論じた文章は少ない。戦後大学運営に携わった期間が長いので、大学論はけっこうある。特に矢内原が教養学部長、総長だったときには、歴史に残るような事件が大学内で起きている。その処理原則として、「矢内原三原則」などということが、私が大学に入学したときにも、伝わっていた。もっとも、私が大学に入学したときに起きた大学紛争の結果、この「矢内原三原則」は正式に無効となったのだが。この三原則は、廃止されたことでわかるように、学生たちには非常に評判の悪いものだったが、矢内原の信念が凝縮したような要素はあった。それは、学生の学ぶ権利は、集団的な決議で侵すことはできないのだ、という信念といえよう。学生がストライキをして、授業を受けさせないために、ピケを張ったとき、学生の授業を受ける権利を侵すことは誰にもできないといって、塀の一部を破って構内にいれさせたという逸話があり、その壊れた部分が後に小さな門となった。いわゆる矢内原門である。今でもあるのだろうか。私自身も、矢内原三原則は、学生の交渉権を事実上認めない要素が強いことから、支持しないが、しかし、そこにこめられた矢内原の信念は、否定できない。 “道徳教育ノート・矢内原研究ノート 矢内原の道徳教育論” の続きを読む

教育行政学ノート 道徳と入試2

 前回の結論は、つまり、「入試には使わない」という指導と「道徳の教科化」とは、基本的に矛盾しているということであった。
 では、広い意味で道徳的要素を、入試に一切使わないほうがいいのかというと、そう単純ではない。
 かつて「内申書裁判」というのがあった。現在は世田谷区長をしている保坂展人氏が、高校受験の際に、内申書での総合評価の欄の記述故に、ほとんどの高校で不合格になったことで、その記述の不当性を理由として訴えたものである。当時は大学紛争の時代で、高校や中学にも波及していたのである。彼は、政治集会などに参加し、学校の行事等への批判活動をしたということが記述されていたことが、訴訟で明らかになっている。この訴訟後に、入試に使うための調査書(いわゆる内申書)への記述に大きな変化があったとされる。単純にいえば、否定的なことは書かないようになった。以前からそうだったと思われるが、一層徹底されたわけである。 
 また、一時愛知県で行われていた人物評価の扱いも有名なものだった。当時、相対評価の人物評価欄があり、ABCでつけるのだが、C評価を付けられた生徒は、まず高校に合格しないと言われていたために、教師はCを誰につけるか、苦悩しなければならなかった。相対評価だから、かならずつけるべき人数が決まっていたからだ。これは、当時「愛知の管理教育」の象徴だった。もちろん、今では行われていない。 “教育行政学ノート 道徳と入試2” の続きを読む

教育行政学ノート 道徳評価と入試1

 教育課程や教育内容にかかわる行政を扱ったが、そこで、道徳の教科化に関連し、入試にはどのように扱われるかという問いがあったので、多少調べてみた。

 道徳が教科として動き出している。既に成績をつけた教師もたくさんいるだろう。成績がつけられると問題になるのは、入試でどう扱うのかということだ。これまで文科省は、道徳は入試に使わないようにという、かなり強力な行政指導をしてきた。しかし、長妻議員(民進党当時)が、自分のホームページで、入試に使われるようになるだろう、という批判的キャンペーンをしていたという報道もある。長妻議員は、国会で質問もしており、そのときには、林文部大臣は、明確に否定している。
 しかし、文科省が入試に使わないようにと指導しているからといって、実際に今後使われない保証はないし、また、使うべきだという意見だってあるだろう。そもそも戦前は、修身の成績が、中学入試には大きく影響したと言われているのだ。教育勅語を復活させるべきだというひとたちは、今でも多いのだから、道徳こそ人間評価の中心だと考えるひとたちがいても不思議ではない。更に、そもそも道徳を評価するということは、成績だけで行われているかという問題もある。面接は人物評価をしているわけだが、その中に道徳的観点がないとはいえないだろう。 “教育行政学ノート 道徳評価と入試1” の続きを読む

道徳教育ノート 五木寛之「日常に生かす作法のヒント」

 道徳の教科書に載っている五木寛之の「日常に生かす作法のヒント」は、普段考えていることが、現れている教材であると思い、取り上げてみたい。(光村6年)
 普段、道徳教育について感じている疑問をまずあげておきたい。
 これまで何度か書いたように、「道徳教育主義」への疑問である。道徳は、あくまでも人の様々な価値観、行動、規範などに関わることであり、道徳という閉鎖的な領域があるわけではない。ところが、国語教育とどう差別化するかなどという、道徳固有の課題を求める立場である。
 第二に、ジレンマ的な葛藤は、子どもの世界に関して扱うことがあるが、大人については、あまり扱わないことである。大人の世界にある悪、犯罪、反道徳的なことは、道徳の教材には、ほとんど現れない。
 第三に、多くの教材が、ひとつの徳目に向かっていることである。実際、世の中の規範的なことは、ひとつの立場が絶対的に正しいなどということは、ほとんどない。
 第四に、最初から道徳教材として作成された文章が、読んで、全くおもしろくないことである。日本の教科書は、読物としては、世界で最低のグループにはいるのではなかろうか。読書指導などいうことを学習指導要領で奨励しても、学習指導要領に基づき、検定で合格した教科書そのものが、まったく面白みのないものなのだから、読書好きな子どもを育てるのは、難しい。
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道徳教育ノート 二匹の蛙3

 新美南吉の「二匹の蛙」の実践記録は、当初思ったよりも少なかった。テキストは、「二匹の蛙1」を見ていただきたいが、(また青空文庫で読むことができる)国語教材として扱われ、道徳教材にはなっていないようだ。しかし、私は、話としては単純で、「ごんぎつね」ような複雑さはないために、むしろ、道徳教育の教材としては、かなり明確なポイントがあるために、やりがいがあるものだと考える。道徳の教科書に掲載されているかは、全部チェックするわけにはいかないが、採択してほしい作品だ。
 当初、黄色と緑色の蛙が、それぞれ互いに相手を汚いやつだと罵り合って喧嘩になる。冬眠したあとでてきて、すぐに喧嘩がはじまりそうになるが、土の中から出てきたばかりなので、体を洗ってからにしようということになり、体が洗われると、きれいな色に見え、仲直りしたという、極めて単純な筋である。
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道徳教育ノート 二匹の蛙2

 文部科学省の「二ひきのカエル」を考えてみたい。
 この文章が、文部科学省のホームページに掲載されている道徳教育の教材であることに、まず驚いた。これはいったい如何なる「徳目」なのか。どういう道徳的価値を教える教材なのか、いくら考えても、私にはピンと来ないのである。(テキストは二匹の蛙1にあります。)
 若い蛙のピョン太が井戸に落ちて、なんとか這い上がろうとするができない、助けを求めても、誰も助けてくれない。おじいさん蛙がいて、諦めろ、ここもけっこう楽しいし、安全だなどといっている。そのうち、人間がやってきて、井戸水を汲むためにおけを落として、引き上げるとそこに蛙もいて、外に出られるという話である。
 いくら道徳の教材でも、あまりにリアリティの欠如した話というのは、教材としてふさわしくないだろう。
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道徳教育ノート 二匹の蛙1

 文部科学省の道徳教材のページを見ていたら、「二匹のカエル」という教材があったので読んで、授業研究などがあるか検索したら、まったく別の「二匹のカエル」という新美南吉という童話があり、更に別の様々な「二匹の蛙」があるようだ。不覚ながら今まで知らなかった。分析は次回にし、今回は教材の紹介だけにする。

 どうやら、その元祖は、イソップ寓話らしい。非常に短い話だ。
 題は、「水を探す蛙」というもので、極めて短いので全文引用する。

 蛙が二匹、池の水が干上がったので、安住の地を求めてさまよい歩いた。とある井戸の辺りまで来た時、おっちょこちょいの一匹は、跳びこもう、と言ったが、相棒が言うには、
「もしここの水も干上がったなら、どうして上がるつもりかね」
 後先の考えもなく事に対処してはならぬと、この話は我々に教えている。(『イソップ寓話集』中務哲郎訳岩波文庫)
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道徳教育ノート「泣いた赤鬼」2

 ここでの道徳教育ノートは、授業案を考えることに目的があるのではなく、道徳教育を行う、あるいは、教育全体のなかで道徳教育を位置づけることを考えている教師に、まずは大人として、道徳教育の理解をぎりぎりまで、深く、かつ広く掘り下げてほしいという目的で書いている。私自身は、子ども相手に道徳教育をしたことはないので、正確には、わからないが、もちろん、起きることの予想はできる。そういう点も含めて今回は考えてみたい。
鬼って何?
 子どもが、「鬼って何」「なんで、人間は鬼とつきないたくないと思っているの?」「赤鬼と青鬼は人間に対して、違うような態度をとっているけど、鬼にもいろいろあるの?」とか、そういう疑問を出すことはあるだろうか。
 というより、そのような疑問が出てこないクラスがあったら、普段から興味や疑問をもって学習をしていないのではないかと、心配になってしまう。
 もちろん、節分などで、鬼は怖い存在だとという意識をもっているとしたら、じゃ、なぜ赤鬼は、自分はやさしくて怖くないのだから、人間につきあいまょしうなどといっているのか、という疑問が出てくるはずである。
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道徳教育ノート 泣いた赤鬼1

 道徳の教材としてよく用いられる文章の第二位が「泣いた赤鬼」だそうだ。もちろん、一位は「手品師」である。
「泣いた赤鬼」は、日本のアンデルセンといわれた浜田廣介の作品であり、発表は昭和8年である。最初の題は「鬼の涙」であり、「鬼同士の絆を描いたこの童話に出てくる犠牲という言葉からは、恩人さよへの負い目が廣介の心を離れなかったことが想像される」と、浜田廣介記念館の名誉館長をしている娘の留美は書いている。(小学館文庫『泣いた赤おに』の解説より。さよは、廣介の母の従姉妹で、廣介が経済的に困っていた時期に、ずっと援助し続けた恩人)
 留美氏によると、浜田は、常に人の善意を重視する物語をつくり続けたという。
 一貫して「童話」を書き続けたことからみて、それはごく自然なことだろう。
 しかし、世界の名作童話は、実は、ほとんどが、作者の意図を超えて、(あるいは、元々作者が意図していたのかもしれないが)大人が読んでも、様々な解釈が可能で、単なる善意とか、愛とか、友情などの枠におさまらない内容をもっているし、その多くは、実は大人でなければ充分には理解できないことさえある。
 アンデルセンの「裸の王さま」を考えてみよう。

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