道徳教材「最後のおくり物」について

 久しぶりに「カテゴリー」にある内容にそった文章を書こうと思う。まずは「道徳教育」に関わり、「最後のおくり物」という5,6年の教材として、文科省のホームページに掲載されている話を扱う。
(1)礼儀正しく真心をもって、(2)相手の立場に立って親切に、というふたつのことを考える教材となっている。
 実践例がいくつかインターネットにあり、そのひとつが、概略をまとめているので、それを利用させてもらう。

ロベーヌは、ステージに立つ夢をもつ俳優志望だが、養 成所に通う余裕がないため、窓の外に聞こえてくる練習の 様子を盗み聞きながら、自分で練習を続けていた。守衛の ジョルジュじいさんは、そんなロベーヌを、温かく見守って くれていた。ある日、ロベーヌのもとに「おくりもの(養 成所の学費)」が届けられるようになる。しかし、ロベーヌ が、養成所での練習が始まり、周りからも実力を認められ ようになった頃、「おくりもの」が届かなくなり、通うこと ができなってしまう。そんなとき、ロベールは、「おくりもの」 は、ジョルジュじいさんからだったことに気付くが、じいさ んは病に倒れてしまう。ロベーヌは、身寄りのないじいさ んを自分が看病することに決めるが、じいさんは亡くなって しまう。ロベーヌは、ジョルジュじいさんが最後に書いた手 紙を読み返して、じいさんの「思いやり」の心に触れ、何 かを決意したかのように遠くに視線を移した。http://www.kyoto-be.ne.jp/ed-center/cms_files/kensyusien/dotoku/doc_dotoku_2018_16.pdf

 だいたいの内容はこの通りだが、いくつか私が読む限りでは、異なる点がある。
1 「通うことができなくなってしまう」と書かれているが、本文では、「払えない月謝がたまり始めた。」と書かれているだけで、「通えなくなった」とまでは書かれていない。
2 」そんなときおくりものは、ジョルジュじいさんからだったことに気づくが、じいさんは病に倒れてしまう」となっているが、正確には、以下のようである。
 ある夜更け、外に人の気配がするので、出てみると、ジョルジュじいさんがいて、立ち去ろうとしたのだが、雪の中に倒れてしまう。病院につれていくが、玄関脇に包みがあった。

 改めて簡単に内容を整理すると、劇団員になりたいロベーヌは、毎日練習所にきて、窓越しに練習をみている。それを知った守衛のジョルジュじいさんは、だまってロベーヌにお金の包みを玄関脇におき、それでロベーヌは、養成所に通うようになる。しかし、そのうちお金が届かなくなり、困っていたときに、病気をおして、ジョルジュじいさんがお金を届けにきてくれて、身寄りのないというので、ロベーヌが、自分が息子だと名乗って看病するが亡くなってしまう。
 さて、私のこのブログで道徳教育について論じるときには、このように教えればいいのではないか、ということを書くのではない。何を教えるかは、教師が考えることであり、また、子どもたちとのやりとりで変化していくだろう。私自身は、教科としての道徳については反対の立場であるが、実際に現場の教師は教えなければならない。とするならば、できるだけ、子どもたちの思考能力を高めるような教え方をしてほしい。そのためには、教師自身が、あらゆる点から教材を吟味することが必要である。私が意図しているのは、大人である教師が、教材をどこまで掘り下げておくかについて、示唆することができたらよいという点である。

 この教材を一読して、あまりに現実離れしていることに、少々驚いてしまう。今の子どもは、こうした物語に、率直に感動するのだろうか。感動するとしたら、何に。とにかく、道徳の教材としてではなくても、つっこみどころがたくさんある文章なのだ。
1、有名な劇団の養成所の練習を覗いているというのだが、しょっちゅう来てメモをとっている。そこの守衛のジョルジュが、「本当なら許されないが、他の守衛仲間にも私から話しておくよ。」と言ってくれる。
 ここで、いろいろと疑問が出てくる。「本当は許されない」のならば、最初のときに、ジョルジュはロベーヌを問いただしたり、追い出したりしなかったのだろうか。なんども来てメモまでとっていたのだから、許したとしたら、ジョルジュは何のための守衛だったのか。それに、守衛仲間で処理できることではないはずで、当然養成所の所長とか、劇団の責任者に話を通すはずである。
 最初の段階でのロベーヌとジョルジュのやりとりを想像させることは、必要な作業ではないだろうか。
2 何人も守衛がいるというのは、かなり大きな劇団であり、建物だということになる。いつの時代なのか、またどこの国かがわからないが、(そもそも道徳教科書に、著作者の記述がないのは、まったく不道徳である。)劇団のような「才能」が重要な領域では、単純に授業料をとって、払える者だけが授業を受けられるというシステムにはなっていないはずである。必ず奨学金のようなものがある。大きな劇団の養成所である以上。とするならば、これだけ熱心な若者がいるなら、守衛は、それを劇団のしかるべき人に伝えて、若者が直接、劇団の責任ある人に訴えることができる機会を作ってあげるのが、「思いやり」ではないかと思う。それをせずに、密かにお金を贈るというのは、いかにも不自然である。守衛が自分の生活を支えて、なおかつ、他人の授業料を贈ってあげる余裕があるものだろうか。そのために、勤め先を変えたのかも知れないが、それでも、ヨーロッパのような階級社会で、すぐに経済状態がよくなるとも思えない。
3 見知らぬ人から、お金の包みがアパートのドアのところに置かれていたとき、そこに「月謝代として使ってください」と書かれていたとしても、少なくとも、現代の日本社会における道徳教育の教材である以上、それをそのまま使ってしまうという筋が通るものだろうか。少なくとも、法的には、警察に届けなければ窃盗になってしまう。ロベーヌは、どうしたものか、ジョルジュに相談するのだが、ジュルジュは、「借りていると思えばいいではないか」といって、許容するのだが(自分が出しているのだから、それは自然だが)、相談するまでに、本文では、何カ月か経っている。その間、ロベーヌは、そのお金をそのまま抱えていたのだろうか。3カ月たって相談し、それから養成所に通うのだから、どうも行動には感心しないものがある。
4 ジョルジュの看病をしているときに、「お金が届かなくなったとき、恨みました」とロベーヌは告白するのだが、かなり不自然な言い方だ。誰が贈ってくるのかわからない時期であるし、それにそもそも贈られるものでもないのに、恨むのだろうか。
5 最後のお金の包みにいれてあった手紙を、再度読み始めたとなっているが、そこには、「もうすぐ、劇団の新人募集の試験がありますね。」と書かれている。これもずいぶんと不自然だ。新人募集が「劇団員」の募集であれば、養成所に通っていなくても受験できるはずではないだろうか。養成所の生徒だけに限定しているような劇団が、有名劇団にはなれないだろう。もちろん、養成所で学んだほうが有利だろうが、本当に才能があれば、自分で練習することは、充分に可能なのだから、まずは、そういう道があることを教えてあげるというのが、自然な親切だ。
 文科省の道徳教材は、いくつか読んだが、どれも決定に自然さが感じられない。道徳を教えるために作られた内容というのは、やはりどこかに無理があるのではないだろうか。もちろん、ディレンマ教材であれば、不自然さはないのだが、文科省の教材には、ディレンマ教材はほとんどない。だから、単純に「教科書」として教えようとすると、表面的になってしまう。この教材には、おかしな点がたくさんある。それをまったく意識せずに教えるとしたら、インドクトリネーションになってしまうだろう。
 正直、ロベーヌが大成するとも思えないのだが、そう感じるのはひねくれているだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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