昨日、東京都交響楽団の定期演奏会Aにいってきた。プログラムはすべて、いわゆる現代音楽に属するもので、好きな人にとってはたまらない演目だが、すきではない者にとっては、二度と聴きたくないようなものだった。残念ながら私は後者のほうだ。曲目は
トリスタン・ミュライユの「ゴンドワナ」
夏田昌和の「オーケストラのための<重力波>
黛敏郎の「涅槃交響曲」
私はすべて初めて聴く曲だった。何故、感想がはじめからわかっている演奏会に行ったかというと、2025年度の定期会員になったからである。前回は、アルバン・ベルクとブラームスだったし、今後もいろいろあるのだが、定期会員だから、仕方なくというほどでもないが、たまにはいい経験かもしれないと思っていたことも間違いない。 “東京都交響楽団での「現代音楽」感想” の続きを読む
カテゴリー: 音楽
カラヤンのニューイヤー・コンサート
久しぶりにカラヤン指揮のウィーン・フィル、ニューイヤー・コンサートのDVDをみた。実は、これまで最初から最期まで一時に見たことはなかったので、全部見たことによる思わぬ発見がいくつかあった。そして、部分的に違和感も感じたが、やはりカラヤンはウィンナワルツでも超一流であり、さすがオーストリア人である。 “カラヤンのニューイヤー・コンサート” の続きを読む
2025ニューイヤー・コンサート がっかりした
松戸市民コンサート2024
ブロムシュテット・N響の演奏会
ファミリー・コンサート
オペラの筋を転換させる重唱
ポリーニが亡くなった(つづき)
向かうところ敵なし状態だったポリーニに、重大な問題が発生する。手の故障である。事情をよく知る人の話では、腱鞘炎になったということだ。そして、実際の症状よりも、精神的な焦りのようなことのほうが、大きな問題だったようだ。不運だったことは、誰にも訪れる高齢化による技巧的な衰えが始まる時期と重なったことだろう。40代後半に腱鞘炎になったとすると、それ以後、腱鞘炎を克服したとしても、やはり、再発の恐れなどに囚われるはずである。
そうした影響が出始めたころ、ネットでは、ポリーニは練習不足だとか、怠けているなどという書き込みがけっこうあった。しかし、私からみると、練習不足などではなく、練習のやりすぎで腱鞘炎になってしまったわけだ。 “ポリーニが亡くなった(つづき)” の続きを読む
ポリーニが亡くなった
20世紀後半を代表するピアニストの一人であるマウリツィオ・ポリーニが亡くなった。ポリーニのことは、何度もブログで書いたし、たった一度だけだったが生の演奏を聴くことができたので、そのことも触れた。生涯で聴いた最高の演奏会だった。まだ30代でバリバリの、いく所敵なしという感じのときの演奏会だった。ただし、リサイタルのチケットはあきらめていたので、N響の定期会員になった。まだ未定のときだったが、来日すれば、かならずN響に出演するに違いないと考えてのことだった。 “ポリーニが亡くなった” の続きを読む
原作改変を考える1 オペラの場合
「セクシー田中さん」の問題から、原作改変について、私のよく知る分野で考えてみたいと思った。というのは、私が最も好きな芸術であるオペラこそ、この改作が最も酷い状況にあると思われるからである。オペラになじみのない人がまだ多いと思うが、近年上演されるオペラのドラマの要素を、原作に忠実に演出されることのほうがめずらしいといえる。極端な例では、まったく時代も登場人物も粗筋も変わっている場合すらある。そして、どこまで許され、あるいは許されないのか、改作の結果どうなっているのか、といろいろと考えてみたい。
まずオペラで改作が普通になっているのには、明確な理由があると思う。それは、オペラの新作があまりなく、あったとしても人気を獲得するオペラは、皆無といっていい状況だからである。いわゆる人気オペラと一般に認められる作品の最後は、リヒャルト・シュトラウス作曲の「ばらの騎士」だといわれている。これは、1911年に初演されているので、100年以上前のことになる。つまり、100年にわたって、人気オペラは登場していないのである。新作オペラが上演されても、だいたい新演出に到るものは極めてかぎられている。つまり数年経過しても、なお上演されており、新しい演出で再登場するということは、近年の新作オペラではきいたことがない。アルバン・ベルク、バルトーク、ストラビンスキー、ショスタコーヴッチ、その他わずかな作曲家のオペラが、継続して演じられているが、ポピュラーな人気オペラとはとうていいえない。 “原作改変を考える1 オペラの場合” の続きを読む