ポリーニが亡くなった

 20世紀後半を代表するピアニストの一人であるマウリツィオ・ポリーニが亡くなった。ポリーニのことは、何度もブログで書いたし、たった一度だけだったが生の演奏を聴くことができたので、そのことも触れた。生涯で聴いた最高の演奏会だった。まだ30代でバリバリの、いく所敵なしという感じのときの演奏会だった。ただし、リサイタルのチケットはあきらめていたので、N響の定期会員になった。まだ未定のときだったが、来日すれば、かならずN響に出演するに違いないと考えてのことだった。 “ポリーニが亡くなった” の続きを読む

原作改変を考える1 オペラの場合

 「セクシー田中さん」の問題から、原作改変について、私のよく知る分野で考えてみたいと思った。というのは、私が最も好きな芸術であるオペラこそ、この改作が最も酷い状況にあると思われるからである。オペラになじみのない人がまだ多いと思うが、近年上演されるオペラのドラマの要素を、原作に忠実に演出されることのほうがめずらしいといえる。極端な例では、まったく時代も登場人物も粗筋も変わっている場合すらある。そして、どこまで許され、あるいは許されないのか、改作の結果どうなっているのか、といろいろと考えてみたい。

 まずオペラで改作が普通になっているのには、明確な理由があると思う。それは、オペラの新作があまりなく、あったとしても人気を獲得するオペラは、皆無といっていい状況だからである。いわゆる人気オペラと一般に認められる作品の最後は、リヒャルト・シュトラウス作曲の「ばらの騎士」だといわれている。これは、1911年に初演されているので、100年以上前のことになる。つまり、100年にわたって、人気オペラは登場していないのである。新作オペラが上演されても、だいたい新演出に到るものは極めてかぎられている。つまり数年経過しても、なお上演されており、新しい演出で再登場するということは、近年の新作オペラではきいたことがない。アルバン・ベルク、バルトーク、ストラビンスキー、ショスタコーヴッチ、その他わずかな作曲家のオペラが、継続して演じられているが、ポピュラーな人気オペラとはとうていいえない。 “原作改変を考える1 オペラの場合” の続きを読む

小沢征爾さんが亡くなった

.小沢征爾が亡くなった
 小沢征爾氏(以下むしろ敬意をこめて、敬称を略す)が亡くなったというニュースが流れた。大分前から癌を患い、演奏活動は激減していたから、いずれこういう日がくることは、大方予想されていたが、いざとなると、やはり、戦後日本の音楽の歴史が変わっていくだろうと思わせる。
 私自身は、指揮者としての小沢征爾のファンではなかったし、むしろ批判的な感情をもっていたが、ただ、実演に接したときには、いずれも非常に感心した。ただ、感動したというのではないのだ。そこが微妙なところだろう。

 小沢征爾の実演を聴いたのは、あまり多くない。
 最初は二期会の公演によるムソルグスキー「ボリスゴドノフ」だった。それから、近所の音楽ホールにきたときに、新日フィルでモーツァルトのディベルティメント、プロコフィエフのピアノ協奏曲3番、そして、ベートーヴェンの7番の交響曲というプロで聴いた。 “小沢征爾さんが亡くなった” の続きを読む

オペラの魅力は重唱と場面

 オペラといえば、まずは有名なアリアが思い浮かぶ。そして、アリアから全曲に入っていく人が多いに違いない。私の場合、オペラに接した最初は、NHKが招いたイタリアオペラのテレビ放映だったので、最初から全曲を見て聴いた。もちろん、最初に注目するのは、有名なアリアだったが、それでも、魅力的な場面には惹かれた。そして、オペラは、「歌劇」なのだということを実感させてくれるのが、やはりドラマが展開していく場面であり、そうしたところは、複数の歌手が絡み合いながら歌とドラマが展開していく。そして、オペラの魅力的な音楽が、そうした重唱にこそある。そこで、私がもっとも魅力的に感じるオペラの「場面」を紹介してみたい。

 カルメン
 まずはオペラの王ともいうべき「カルメン」(ビゼー作曲)だが、「カルメン」は、そうした場面、複数の歌い手が歌う部分が非常に多く、むしろ、単独のアリアはほとんどない。ハバネラや闘牛士の歌は合唱が入るし、セギディリギアや花の歌はカルメンとホセの二重唱のなかにある。完全に単独で歌われるのは、ミカエラの3幕のアリアくらいだ。
 カルメンは、伍長だったホセが、密輸団のカルメンに恋をして、最終的にカルメンを殺害してしまうという話だ。喧嘩の首謀として罰せられることになるカルメンを護送中に、カルメンに説得されてカルメンを逃がしてしまい、営倉に容れられていたホセが、釈放されてカルメンのところにやってくる。(その前に闘牛士エスカミリオの歌や、密輸団の五重唱があり、ホセを誘い込めという提案がカルメンになされている。)カルメンはご機嫌でホセのために踊るのだが、帰宅のラッパがなるので、帰ろうとするホセをカルメンが激しく非難する。そこで、歌われるのが、オペラ上最も情熱的な愛の歌である「花の歌」だ。しかし、カルメンが納得しないまま、ホセが帰ろうとすると、そこにホセの上官がやってきて、ホセを叱責して、早く帰れというが、ホセが拒否して、結局密輸団に入ることになる。当初はホセとカルメンの二重唱だが、やがて上官や密輸団、そして合唱が入ってくる、「カルメン」のなかでも、最も盛り上がる場面である。
 私は、「カルメン」に関しては、カルロス・クライバーが断然すばらしいと思う。全曲がyoutubeにあるので、ぜひ視聴してほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=j6rpw8uRGOc
 上記の場面は、1時間8分あたりからになる。

 椿姫
 ベルディの「椿姫」は、彼のオペラの題材としてはめずらしく、古い時代ではなく、当時の現代の、しかも実話の小説を扱っている。オペラとしては、それは珍しいことだった。高級娼婦であるヴィオレッタと田舎紳士であるアルフレードが、パリ校外で生活を始める。そこにアルフレードの父ジェルモンが、ヴィオレッタに、アルフレードの妹が結婚するのだが、兄が娼婦と生活していると、結婚が壊れてしまうので、別れてくれと迫る場面である。生活費を出しているのはヴィオレッタだったのだが、ジェルモンはアルフレードが出していると誤解しており、そうした誤解を解く場面もあるが、とにかく、抵抗するヴィオレッタも、結局折れて、別れることを約束する場面である。
 このヴィオレッタとジェルモンの二重唱は、傑作オペラの「椿姫」のなかでも、とりわけ音楽的に優れた部分と、多くの人に認められている。
 多数の映像がyoutubeにもあるが、私が最もすばらしいと思うのは、ショルティ指揮、ゲオルギューが歌うイギリス・ロイヤルオペラのライブ映像だ。これには、少々思い出があり、脱線するが、私が大学につとめていたとき、学生のヨーロッパ福祉研修につきそったことがある。イギリス訪問時に、夕方自由時間があったので、ロイヤルオペラにいったのだが、当日雨にもかかわらず、切符売り場から外にかけて、長い行列ができているのだ。ほとんどないらしい当日券と、キャンセル待ちをしているらしい。行列の長さから、とうていはいれないと諦めて帰ったのだが、そのときの公演が、このショルティ指揮の椿姫だったことが、あとでわかった。幸いにもDVDがでたので、購入し、何度も視聴した。指揮、歌手すべてがすばらしい。アルフレードが弱いというのが、ほぼ定説になっているが、私はそうは思わない。弱い歌手をショルティが使うはずがないのだ。新しいプロダクションのプレミエ公演だったのだから。まだ30前だったゲオルギューは、歌だけではなく、視覚的にも満足させてくれる。
https://www.youtube.com/watch?v=u3pP-BwxMsI
 40分あたりから、この二重唱が始まる。
 日本語字幕がほしい人は、佐藤しのぶが歌う映像がある。このアルフレードは、アラーニャである。
https://www.youtube.com/watch?v=HmuLir2N-gE

 コジ・ファン・トゥッテ
 モーツァルトは、どのような場面でも、それにふさわしい音楽をつけることができた人だから、オペラのドラマが進行する、印象的な場面が多数があるが、私がとりわけ魅力を感じるのは、「コジ・ファン・トゥッテ」のほぼ最終場面で、フィオルディリージが落ちるところだ。
 「コジ・ファン・トゥッテ」というオペラは、初演時政治的事情で、わずかな上演で打ち切られ、その後、ほとんど上演されないまま戦後に到ったようだ。そして、傑作と広範に認められるようになったのは、1970年くらいからではないだろうか。それまでは、ベームの孤軍奮闘だったような気もする。認められなかった理由は、女性蔑視だからということだ。フェランドとグリエルモが自分たちの恋人を礼賛しているのを、哲学者のアルフォンソが女の恋心などあてにならないと揶揄し、怒った二人と賭をする。2人が違う恋人に迫って、24時間以内に愛を勝ち取れるかというのだ。それで、最初はふざけていた二人だが、だんだん真剣になって、最終的に、フィオルディリージとドラベラが違う人の愛を受け入れてしまうという話だ。最終的には、これはアルフォンソの仕組んだ芝居であることがわかり、大団円になるのだが、男性も女性も、少しずつ微妙に感情の変化がおこり、それをモーツァルトは非常に巧みに音楽で表現している。女性蔑視というよりは、女性が自立する姿が描かれているとも解釈されるようになり、現在では、あらゆるオペラのなかの最高傑作と評価する人も少なくない。
 本来はフィオリディリージとグリエルモ、ドラベラとフェランドのペアだったのだが、まずグリエルモがドラベラを落とし、フェランドはがっくり来てしまう。フィオリディリージはあくまで、グリエルモへの貞節をまもろうとするが、揺れている。それを払拭するために、グリエルモの軍服をきて、戦場にいくことを決意するのだが、そこにフェランドがやってきて、フィオリディリージのもっている刀を自分につきつけて、最後の説得を試み、結局、彼女も受け入れる。それを外でみていたグリエルモが失意のどん底に落とされるというわけだ。そして、アルフォンソが「コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)」というモチーフを歌う。
 このオペラの演出はさまざまな変更があり、一番極端なのは、女性二人が、相手がとりかえて自分たちを口説いていることを知っていて、それを受け入れるというものだろう。ポネルの映画版が最初のようだ。
 また、オペラとして、めずらしいと思うが、主役6人が、ほぼ同等の重みをもっており、そのため、多くの音楽が重唱になっていることだ。アンランブル・オペラといわれることが多い。
 人気のない時代にも積極的にとりあげていたベームには、多数の録音があり、映像もあるが、私は、ムーティの演奏が好きだ。ムーティには3つの映像があり、最初のザルツブルグ音楽祭と、最後のウィーン国立歌劇場(実際の上演は違う劇場のようだ)がよい。いずれもウィーンフィルの演奏だ。youtubeには、後者があるので、そちらを紹介しておく。

 映像は、ムーティのウィーン版だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Egi7fxTEUCQ&t=9640s
 2時間半くらいから二重唱になるが、その前からみたほうがわかりやすい。

 ボリス・ゴドゥノフ
 「ボリス・ゴドゥノフ」は、ロシアオペラの最高傑作といわれてり、ムソルグスキーが作曲し、完成させた唯一のオペラである。そして、他のムソルグスキーの曲と同様、他人が手をいれたバージョンで広まった。「ボリス・ゴドゥノフ」は、リムスキー・コルサコフ版、そして、ショスタコービッチ版で演奏されていたが、最近ではオリジナル版で演奏されることがほとんどになっている。オリジナル版を広めたアバドの功績といえるだろう。
 皇帝となったボリスは、先帝の息子を殺害したという疑いをもたれて苦悩している。僧侶のグリゴーリーが、自分はその王子だったと名乗り、追われるが、ポーランドに逃れ、そこで、貴族の娘マリーナの援助を受けることになり、モスクワに進軍するが敗れてしまう。ボリスも死ぬ。
 私が紹介したい場面は、グリゴーリーが、王子ディミトリーだと名乗って、当初冷たかったマリーナを説得する場面である。
 オリジナル版の復興者であったアバドの映像がないのは残念だが、ゲルギエフが指揮した優れた映像があり、youtubeでみることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=CwBKZkPflKY
 この映像は後半部分のみなので、最初からみてもよいが、30分くらいから、この場面のマリーナが登場する。
 
 フィデリオ
 5つ目に何を選ぶか大分迷ったのだが、劇的なという意味では、やはり、「フィデリオ」かと思って選んだ。「フィデリオ」は、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」や「コジ・ファン・トゥッテ」は、あまりに不道徳だ、本当の夫婦愛を描きたいというので選んだ題材だと言われている。ピッツァロに政敵として逮捕され、地下牢にいれられて、殺されることになっている夫を救うために、男性に変装してフィデリオと名乗っている妻レオノーラが、この牢番に雇われており、死骸を埋める穴掘りを手伝わされている。そして、そこにピッツァロが現われ、いよいよ殺されかかるときに、レオノーラが妻であることを明かしつつ、ピストルをピッツァロにつきつける。そのとき、トランペットが鳴り響き、大臣フェナンドが到着し、夫フロレスタンとレオノーラは救われ、ピッツァロは逮捕される。
 ベートーヴェンは、本質的にオペラ向きの作曲家ではなかったが、なんとかオペラで成功したいと、非常な努力を重ね、フィデリオを何度も改定している。そのために、序曲が4曲も遺されていることは、よく知られている。
 この場面は、さすがに劇的表現に優れていたベートーヴェンらしく、緊迫した状況がよく表現されており、ピストルをつきつけて、トランペットがなる場面の雰囲気の展開は見事だ。
 映像は、ギネス・ジョーンズ、ジェイムズ・キング、ナイトリンガーがでている、全曲の映画バージョンだ。1時間20分くらいから、この場面が始まる。
https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o

 5つのオペラの劇的場面を紹介したが、まだ他にたくさんあると思われる。こうしたドラマティックな場面の音楽を味わうことで、オペラの深い魅力を理解するようになると、楽しみ方もちがってくるのではないだろうか。

美しいメロディー10選

 
 普段車田和寿氏のyoutubeを愛聴している。そして、最近、「美しいメロディー5選」というテーマのものがあったのだが、それが私の思っている「美しいメロディー」とはほとんど違っていたので、自分なりの10選をしてみた。ちなみに、車田氏のものは
・バッハ カンタータ82番の3
・シューベルト 「美しき水車小屋の娘」から「小川の子守歌」
・ベルリーニ ノルマから「清らかな女神」
・グリーク 春
・ラフマニノフ ヴォカリーズ 
だった。このなかで、私も美しいメロディーの5本にあげたいと思うのは、「清らかな女神」だけだった。もちろん、美しい曲とはいえない、というつもりはないが、最初にあがってくるようなものかなあ、と思ったわけだ。もちろん、メロディーに対する好みは、人によって違うので、この選択を否定するつもりはない。そして、車田氏はバス歌手であるということで、男性用の歌を中心に考えているのかもしれない。(バッハ、シュウーベルト)

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オーソドックスな舞台のフィガロ

 久しぶりにオペラの全曲を聴いた。といっても、3日がかりだったが。「フィガロの結婚」だが、映像としては非常に古く1973年のグラインドボーンのライブである。特に女性の主な役が、豪華で、この当時はまだ新人の域を少し出た程度だったが、のちには、同じ役で大指揮者と何度も共演しているメンバーである。スザンナのイレアナ・コトルバス、ロジーナのキリテ・カナワ、ケルビーノのフレデリカ・フォン・シュターデというキャストだ。他の女性役マルチェリーナやバルバリーナもすばらしい。男性陣は、少なくとも私は知らないのだが、女性陣たちに負けているわけではなく、いずれもすばらしいできだ。舞台が小さいので、余裕をもって歌えることもいい影響となっていたかも知れない。HMVでは残念ながら、購入不可になっているが、希望者はかなり登録されていた。フィガロ演奏のひとつの模範ではないかと思う。プリッチャードの指揮も、特別個性的なわけではないが、非常に自然なテンポで気持ちがよい。

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土屋邦雄氏のドキュメント

 youtubeで土屋邦雄氏のドキュメントをみた。テレビで放映されたものらしいが、制作は1999年ということなので、四半世紀前のもので、さすがにふるめかしい映像が多かったが、非常に興味深い内容だった。
 土屋邦雄といっても、知らない人が多いかも知れないが、日本人として初めてベルリンフィルの団員になった人で、40年間勤めたという。おそらく、定年になった時点で、テレビ局がドキュメントを制作したのだろう。単にベルリンフィルで活躍したというだけではなく、入団が1957年で、その後ベルリンの壁ができ、そして、やがて壁が崩壊した、というその歴史をベルリンに住んで体験してきたという意味でも、たくさんの情報をもっている人だろう。ただ、さらに3年ほど前に入団したのであれば、フルトヴェングラーの時代だったので、フルトヴェングラー、カラヤン、アバドという3人の常任を経験したことになるので、もっと興味深い事実を聞けたのではないかと思うが、それは仕方ないことだろう。

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アシュケナージのこと

 今年はこれまでまったくCDを購入しなかったのだが、アシュケナージの室内楽総集編がでることを知って、今年最初のCDの買い物として、アシュケナージのボックスを注文した。ソロと室内楽だ。以前協奏曲がでていて、これは購入していて、けっこう聴いていたのだが、まだ注文の品がこないので、いくつか協奏曲を聴いてみた。ラフマニノフの4曲とパガニーニ狂詩曲がはいっている2枚を聴いた。バックはハイティンクとコンセルト・ヘボーだが、これまで聴いていた他の演奏とはちょっと違う感じがした。ゆったりと穏やかで、余裕がある感じというところか。
 アシュケナージとハイティンクは、他にも共演していて、ベートーヴェンの協奏曲の全曲映像版もはいっている。アシュケナージがかなり若いころのものだが、すでに大家の風格がある。

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思い出深い演奏会 マイナスイメージで2

 前にも書いたことがあるのだが、やはり非常に記憶に残っている演奏会だ。都響の定期演奏会で、指揮が常任の渡辺暁生、バイオリンのソロが石川静でブラームスの協奏曲をやった。このときの印象が強烈なので、ほかのメインプロに何をやったか、まったく覚えていない。
 出たしはごく普通に、安心して聴ける感じで進行していた。ところが、石川のソロが入ってきたところから、まったく違う音楽をやっているのかと思うほど、雰囲気が変ってしまった。渡辺は普通かあるいはちょっと速めのテンポをとっていたのだが、石川は、かなり遅めのテンポをずっと維持している。チャイコフスキーのコンチェルトは、ソロが入ってくるとき、思いっきり遅く演奏し、序奏的な部分がおわると、テンポを通常に戻すような演奏が多いが、ブラームスは、そういうやり方をあまりしない。むしろ、前に書いたヌヴーなどは、勢いよく入ってきて、そのままエネルギーを保持するような弾き方をする。しかし、石川は、とにかく遅めのテンポではいってきて、主題を奏する部分になっても、そのままの、かなりの遅めのままだ。ところが、ソロバイオリンがなく、オーケストラだけの部分になると、また渡辺テンポにもどって、そんな遅く、まだるっこしいのは嫌だ、というような雰囲気で、さっと済まして、再びソロが入ると、遅いテンポにもどる。石川が弾いている部分は、ゆっくり目というよりは、かなり遅いので、普通の演奏よりは、かなり長い時間をかけて、第一楽章が終わり、その最後の音が消えた瞬間に、一切にため息が漏れたのである。どうなるのことか、みな音楽を聴くより、ふたりの意地の張り合いがどうなるのか、破綻しないのか、はらはらしていたという雰囲気が、そのため息ではっきりと感じられた。

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思い出深い演奏会 マイナスイメージで

 思い出深いといっても、とてもすばらしくて感動的だった、というものばかりではなく、逆の場合も多々ある。だれかが重大なミスをして、それが否応なく目立ってしまったとか、演奏の解釈があまりに強く違和感を感じるものだったとか、その他さまざまな要因がある。今回は、そうした演奏会をとりあげたい。
 
 最初にとりあげるのは、自分たちの演奏会で恐縮だが、エルガーの「威風堂々」をアンコールで演奏したときだった。正規のプログラムは、とくにそうではなかったのだが、アンコールは、練習段階から、団員たちの不満が募っていた。こんな風にやるのは絶対に嫌だという雰囲気に包まれた、と私は思う。アンコールの練習は、そんなにたくさんやるわけではないが、最初からみんな驚いてしまった。「威風堂々」というのは、よく知られていることだが、一種の軍隊行進曲だ。軍隊が威風堂々と行進するさまを描いている。そして、いかにも威風堂々という雰囲気の活発な部分と、非常に叙情的なやわらかい部分とに別れている。一般の前を堂々と歩くのに対して、王の前で粛然とあるく部分からなるというイメージだろうか。だが、行進曲だから、通常一定のテンポで通して演奏される必要がある。

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