アメリカニューヨークのメトロポリタン・オペラ劇場で、観客がステージに突然あがって、抗議をしたという記事がある。どんな抗議をしていたのか、詳細はどうも不明だが、そういうこと自体がとんでもないことである。オペラというのは、とにかく、実に多くの分野の人びとが関係し、数時間の舞台の上演を行うのだから、いろいろと事故が起きることはよく言われている。つまり、ミスによるものだ。 “オペラ上演のトラブル・事故” の続きを読む
カテゴリー: 音楽
最近のショパンコンクール優勝者は伸び悩み?
クラシック・ジャーニーという方の「雑感: ショパン国際ピアノコンクール2025」(https://ameblo.jp/classic-journey/entry-12943037519.html)という文章が面白かったので、ショパンコンクールに関して、私も雑感を書いてみることにした。
シャーニー氏は、ショパン・コンクール優勝者で数万円払ってリサイタルを聴きたいひとは、ポリーニ、アルゲリッチ、そしてぎりぎりツィンマーマンなのだそうだ。そして、ポゴレリッチ事件以後の優勝者は、ほとんど評価に値しないように評価しているようだ。 “最近のショパンコンクール優勝者は伸び悩み?” の続きを読む
丸山真男のオペラ論2
丸山は、ヨーロッパの指揮者は、歌劇場のポストを歴任して、認められることでだんだん上級クラスの歌劇場に進み、一流の指揮者として認知されると指摘している。そして、その代表としてカラヤン、ベーム、フルトヴェングラーをあげているが、フルトヴェングラーはこうした経歴をたどった指揮者ではないし、また、オペラ指揮者とはいえない。ごく若い頃に歌劇場の指揮者であったが、30代にしてベルリンフィルの常任指揮者に選ばれたあとは、例外的な時期(つまりナチスとの関係でベルリンの歌劇場の指揮者を務めたことはあるが)を除いて、歌劇場の指揮者になることはなかった。フルトヴェングラーのオペラは、音楽祭やレコーディング、演奏会形式での上演にほぼ限られている。フルトヴェングラーは偉大な指揮者だから、オペラの録音も優れた演奏だということになっているが、私は、フルトヴェングラーのオペラ録音は、それほど優れたものではないと感じている。生粋のオペラ指揮者であったカラヤンと比べるとその差ははっきりしている。 “丸山真男のオペラ論2” の続きを読む
丸山真男のオペラ論1
丸山真男に「金龍館からバイロイトまでーーオペラとわたくし」という文章がある。もちろん、丸山のアカデミックな論文ではなく、丸山のオペラ歴を語ったエッセイである。これがとても面白いし、賛成できるところもあるし、また、違うなというところもあるが、丸山真男は有名なクラシック音楽、とくにドイツ音楽、そしてオペラ好きだったから、その類の文章はいろいろあるのだが、これがとくに私には興味深かった。
1985年の文章だが、まだまだこの時期は、日本のオペラ普及はそれほどではなかったのかも知れないが、それでも、次第にオペラ好きは増えていたと思うし、有力なオペラ公演は客もたくさん入っていたはずである。 “丸山真男のオペラ論1” の続きを読む
マタイ受難曲の古楽奏法と現代オケの演奏
東京交響楽団のマタイ受難曲を聴いて、このブログに感想を書いたのだが、その後いくつかのマタイのCDを聴いた。そして、磯山雅氏の厖大なマタイの分析書も読んでみた。マタイ受難曲が、まだ好きになったわけではないが、これまであまり気付かなかった魅力を感じるようにはなった。しかし、最近の主流ということになっている古楽奏法については、私はあまり好きになれない状態である。磯山氏の著書には、当時発売されていた(廃盤のものを含まれているが)マタイの全曲CDについて、率直な評価が書かれている。その評価に、私はあまり納得できないというか、やはり感覚が違うのだと思ってしまう。 “マタイ受難曲の古楽奏法と現代オケの演奏” の続きを読む
ドホナーニを聴く2
ドホナーニのボックスを購入して、モーツァルトを聴いたところで、感想を書いたのだが、その後は時間がなくてあまり聴けなかった。やっと、シューマン全曲と、幻想交響曲、そしてマーラーの5番を聴き、いまブルックナーの4番を聴いている。
シューマン、幻想、マーラー5番はいずれも、どちらかというとがっかりした。とくに幻想とマーラーは、ドホナーニという指揮者には向いていないのか、あるいは、クリーブランドとの組み合わせが悪いのか。何が不満かといえば、あまりに真面目な演奏に過ぎる感じがするのだ。 “ドホナーニを聴く2” の続きを読む
ショパン・コンクールの感想
ショパン・コンクールが終わった。まだ、少数のyoutube演奏しか聞いていないが、結果について、いろいろな異論がでているようだ。ポーランド人の審査員が、一位の選出に異論を表明していた。また、日本人として牛田氏がファイナルに進めなかったことについて、疑問というよりは残念論が多かったようだ。牛田氏については、おそらくタイムオーバーだったようで、それがどのように響いたのかはわからないが、コンクールという性格上、時間制限を破れば、それは致命的だと考えられる。100メートル競走でのフライングのようなものだからだ。10分間の制限内での演奏で、プログラムは自分で構成するのだから、当然余裕のあるように、つまり、だいたい真ん中あたりですむようにプログラミングすると思うのだが、牛田氏のyoutubeは1時間を超えていたから、やはり、タイムオーバーだったのだろう。しかし、演奏家としては、それはまったく欠陥とはいえないことも確実だ。リサイタルの際、予定時間をオーバーしたところで、問題にはならないだろう。会館の利用時間をオーバーすれば、割増金をとられるかも知れないが、演奏家としての評価にはまったく関係ない。 “ショパン・コンクールの感想” の続きを読む
初心者向けのオペラ?
youtubeを見ていたら、たまたま「初心者のための5つのオペラ」という番組があったのでみてみた。早口の英語だったので、詳細は聞き取れなかったのだが、もちろん曲目とその主要な魅力の説明はわかった。その選択は、非常に納得がいくものだったが、「初心者」とは何かというのが気になったので、それを考えてみたいと思った。
まず紹介されていたオペラは、順に
1 ラ・ボエーム(プッチーニ)「私の名はミミ」の場面が流れた。
2 カルメン(ビゼー)「ハバネラ)
3 魔笛(モーツァルト)「夜の女王のアリア」
4 椿姫(ヴェルディ)「乾杯の歌」
5 セビリアの理髪師(ロッシーニ)「なんでも屋の歌」
というものだった。作曲家一人につき一曲という配慮かも知れないが、あえていえば、5番目にモーツァルトの「フィガロの結婚」をいれてもいいとは思うが、だいたい妥当な選曲だろう。 “初心者向けのオペラ?” の続きを読む
オザワキネン音楽祭の継続は
サイトウキネン音楽祭には、以前何度か聴きにいった時期がある。ロ短調ミサ、ファウストの拷罰、オペラ夕鶴、ベートーヴェンの5番などだった。ロ短調ミサとファウストの拷罰は、リハーサルと本番両方を聴いたので、とても印象に残っている。ファウストの拷罰では、出だしのビオラの音の美しさにびっくりしたものだ。
ところが、小沢征爾が亡くなったことで、俄かに音楽祭自体が危機に瀕しているようだ。現在では、オザワキネン音楽祭ということになっているようだが、サイトウキネンを小沢が担ったような指揮者、指導者がいないということが、最大かつ唯一の理由といえるだろう。サイトウキネン音楽祭は、世界的な音楽祭ではあるが、他の世界的な代表的な音楽祭と比較すると、いかにも特殊な、ぜい弱な音楽祭であるといわざるをえない。 “オザワキネン音楽祭の継続は” の続きを読む
ショルティ・シカゴのマーラー5番
ちょっと風邪気味で寝ていたのだが、youtubeを見ていると、偶然ショルティ指揮のシカゴ交響楽団によるマーラー5番の映像が出てきたので、全部聴いてしまった。寝ながらのイヤホンなので、音はまったくよくなかったが、いろいろと興味深いものだった。
半月ほど前に、私が所属する市民オケでもこの曲を演奏したのだが、練習の合間に話題になったのは、第3楽章でソロのホルンが目立つにような位置取りをして演奏するのが多いが、いつからそうなったのだろうか、ということだった。私がライブのこの曲を4、5回聴いていたのだが、80年代以前で、ずいぶん前のことで、ホルンを立たせたり、前にだしたりはまったくしなかった。私が知っているかぎりでは、ラトルがベルリン・フィルの音楽監督になった最初の演奏会で、マーラーの5番を演奏したのだが、そのとき3楽章でホルンの首席を協奏曲のソロの位置、つまり指揮者の横に立たせて演奏させていたのが、最初であった。その映像をみてびっくりした記憶がある。その後、前に立たせることはあまりないとしても、特別な位置にたって演奏するのは、なんども映像でみた。私たちの演奏会では、座って演奏したが、それでも、時間をとって、木管のフルートの位置あたりまで出てきて、特別感をだしていた。 “ショルティ・シカゴのマーラー5番” の続きを読む