私が所属する松戸シティフィルと年末の市民コンサートのために毎年新しく結成される合唱団との合同演奏会「松戸市民コンサート」が昨日行われた。曲目は、ブラームスの「大学祝典序曲」、芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」、そして、メインがモーツァルトのレクイエムだった。松戸の市民オケの魅力は、この年一回の合唱曲の演奏にある。多くの市民オケには、こうした演奏会はないと思う。ただ、毎年だいたい宗教曲かベートーヴェンの第九なので、ほんとうはオペラがやりたいのだが、オペラの上演は演奏会形式であっても、とにかくソリストの数が多いので、なかなかとりあげるのが、財政上難しいようだ。それから、合唱団としても、宗教曲は、歌詞はそれほど複雑ではなく、だいたい決まった文言の繰り返しが多い。そして、曲が違っても、歌詞はそれほど大きくことなることはない。しかし、オペラはなんといっても、その筋にあった言葉で作曲されているわけだから、宗教曲のほとんどがラテン語であるのにたいして、言語もドイツ語、フランス語、イタリア語と多彩だ。そういう意味で、オペラの演奏は難しいのだが、なんとか、このオーケストラ在団中に一度はやりたいものだ。なんといっても、西洋クラシック音楽の最大の魅力はオペラにあるわけだから。
私たちのオケは、コロナ前までは比較的中堅ともいう年齢の、つまり40代・50代の指揮者が中心だったが、コロナ後は、ずっと若い指揮者を迎えるようになった。今回は、西口 彰浩さんという、31歳の、指揮者としては極めて若い人で、初めての登場だった。これまではオペラの合唱指導などを中心にやってきたらしく、それはヨーロッパの指揮者の典型的な歩みと同じだ。最近は日本でもオペラ上演がさかんだから、このような合唱指導の指揮者はとても必要であり、かつ彼らの成長の場も実現してきたというところだろう。とてもユニークな練習をする人で、こういうやり方をする人もいるのだと新鮮な思いだった。
オーケストラの練習というのは、公演の曲目を演奏をするのだが、まずいところがあると指揮者がとめて、注意をして、そこをやり直し、よくなれば次に進んでいく、という形で曲を仕上げていくのが普通だ。しかし、この人は、ある程度演奏すると、注意を、第一、第二、第三と、だいたい三点くらいまとめて注意をする。システィマティックといえばいいかも知れない。そして、一通り注文をつけると、では第一の点をやってみましょうと、まずい部分を訂正していくのだが、あげた点すべてをやるわけでもなく、口頭注意ですますことも少なくない。市民オケのメンバーは、楽器によって、普段家で練習することが難しい場合がある。多くの金管楽器や打楽器を、日常的に家で練習できる環境があるひとは、アマチュアでは稀ではないだろうか。だから、こうした練習日にできるたけたくさん音をだしたいと思っているのだが、注意だけして、あとは自分で練習しておいてください、というのは、少々不満に思う人もいるだろう。弦楽器の人は、ほとんど家で練習できると思うが、ティンパニーなどは、自分の楽器としてもっていない人が、アマチュアでは多いのではなかろうか。
ただ、この西口さんは、本番での指揮は集中力があり、強力にリードしていた。だから、実力はとてもあると感じる。来年の市民コンサートも指揮することになっているので、楽しみである。
さて、演奏だが、私が一番うまくいったのは、芥川の曲だった。この曲を演奏するというアナウンスがあったときに、まったく知らない曲だったし、youtubeで聴いてもそれほどいい曲とは思わなかったのだが、練習しているうちに、だんだん、この曲のエネルギーを感じるようになって、とても素敵な曲だと思うようになった。メインの曲がモーツァルトのレクイエムで、管楽器が非常に少ないので、降り番の人が多くなる。だから、彼らが活躍できる曲を前半に配置するわけだが、芥川の曲は、とにかく金管楽器が後半大活躍して、吹きまくる感じだ。若干25歳の芥川の作曲だが、新進気鋭というのは、こういう曲をいうのだろう、とにかく推進力があり、演奏していてものってしまう感じだった。
モーツァルトのレクイエムはいままでに2回くらい演奏したことがあるが、何度演奏しても、同じ感覚になる。つまり、モーツァルトがかなりの部分作曲している部分と、ほとんどジェスマイヤーがつくった部分とで、あまりに差があるということだ。モーツァルトの手が入っている部分は前半におおく、後半は次第にモーツァルトの指示は少ないものになっているとされる。まだ厳密にモーツァルトの手にある部分とジェスマイヤーが補筆したり、あるいは自分のオリジナルをもちいた部分との区分はついていないようだが、とにかく、前半と後半では、演奏していて、曲に入っていける度合いがまるで違うのだ。演奏の技術的な面では、前半がけっこう難しく、後半は難しい部分はごくわずかだ。そして、とくにチェロは単調な音列が多くなってしまう。モーツァルトが作曲していれば絶対にこうはならなかったという典型は、二度あらわれるフーガだ。フーガなのだが、フーガとしての体裁がなく、さっさと終ってしまう。フーガとして長くすることができないのだろう。アバドが使用しているバージョンは、ジェスマイヤー版ではなく、他のひとが補筆したものだが、このフーガがもっと長くなっている。そういう補筆がいいかは疑問だが、このフーガ部分を演奏していると、いつも不満を感じてしまう。モーツァルトがあと一月生きていたら、かなり違う曲になっていただろうが。