昨日の文章に、なんとなく不十分な感じが残ったので、続けて考えていた。そして、「自然災害」に関する感じ方の相違があるのではないかと思い至った。日本人の一般的な感性のなかに、日常生活のなかではあまり争わない傾向があるとか、諦めの感情が強いなどという性質があるように思うのだが、それは、自然災害の多さに由来していると思う。日本ほど、多数の種類の自然災害に見舞われる国はあまりないといえるだろう。台風、地震、津波、大雨、大雪、冷害、火山爆発、干ばつ等々。これらのいくつかをもつ国はいくらでもあるが、全部に見舞われる国は、あまりないだろう。日本人の歴史は、自然災害との闘いの歴史でもある。中国や朝鮮半島のような「戦闘」の時代が少ないのは、主な闘いの対象が人ではなく、自然だったからといえる。 “感染は自己責任と考える割合が日本人は高いという(続き)” の続きを読む
月別: 2020年6月
感染は自己責任と考える割合が日本人は高いというが
7月29日の読売新聞に、興味深い記事が掲載されている。「新型コロナウイルスに感染するのは本人が悪い」という記事で、三浦麻子大阪大教授の調査によるという。3月から4月にかけて、日本、米国、英国、イタリア、中国で、インターネットによる調査で、「感染する人は自業自得だと思うか」との質問に、「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常そうに思う」のいずれかを選んだのが、米国1%、英国1.49%、イタリア2.51%、中国4.83%に対して、日本は11.5%だったという。それに対して、「全く思わない」というのが、日本以外は、60%から70%台だったが、日本は29.25%だったという。
この数字を受けて、被害者なのに過剰に責められる傾向が強いと指摘し、国内で感染者が非難されたり、差別されたりする可能性を指摘している。 “感染は自己責任と考える割合が日本人は高いというが” の続きを読む
『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3
いよいよ、ナショナリズムと能力主義を超える方法を探る部分になった。ナショナリズムは、国民に一定の居場所を提供するが、余裕がなくなると、容易に排外主義に転化してしまう。そうならないために、どのような原則が必要か。
佐藤氏は、まず、能力主義を乗り越える原理を探る。氏は次のように述べる。
「学校教育がその子ども一人ひとりの得意なことを見つけさせ、その能力を活かし発揮させるように導きその子たちに生きる自身をもたせることこそが、教育の原点ではないのか。そうした能力形成を軽視し、受験競争のための知識獲得だけに駆り立てることが、どれほど重要だというのであろう。」
そうした具体例として、電気製品の修理の技術をもっている、歌や踊りにみんなが驚嘆する、料理や大工がとてもてきぱきとできる、そういう生活能力が、学校教育をきっかけに発揮されるようになることを期待する。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3” の続きを読む
教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2
斉藤喜博とクライアント中心主義のロジャースとを比較する研究がある。非常に説得力がある議論なので、参考にしつつ、斉藤喜博の授業論を進めたい。(若原直樹「斎藤喜博『わたしの授業』の一つの読み方--斎藤喜博のカウンセリング・マインド」『北海道教育大学紀要(第一部C第46巻2号』)
ロジャース理論の根幹は、クライアントとの信頼関係を作ることと、クライアント自身のなかにある回復力を信頼して、それを引き出すことによって、問題を解決することである。ロジャースは、そのプロセスを7段階にわけているが、それは省略し、ポイントだけ確認して、斉藤喜博の検討に行こう。まず信頼関係を築くために最も重要なのは、「一致」とされる。つまり、セラピストが、本当の「自分」をクライアントに対して示すということだ。私自身は、カウンセリングをしたことがないので、正確なところはわからないが、カウンセリングに訪れる人は、当然心に問題をもっている。セラピストはそれを解決してあげるという、一段高いところに自身をおきがちである。だから、信頼関係を築くために、「あなたを信頼している」という態度を示しても、どこかで、「この人は、こんな弱点があるから、今の問題が発生しているのだ」というような、ある意味探るような視線を投げつけかねない。そうすると、心で思っている本当の自分と、クライアントに示す姿にずれが生じる。つまり「一致」が崩れるわけである。こうならないように、「一致」させる必要がある。そうでないと、信頼関係は築けないというのが、ロジャースの考えである。 “教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2” の続きを読む
『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2
前回は、津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に関する佐藤氏の分析に、多少の疑問を呈した。今回は、そこを引き継ぎつつ、次の部分に進みたい。
植松は、「経済発展に寄与しない人間は存在理由がない」ということで、殺傷事件を起こしたとされるが、それに対して、佐藤氏は、それが本当なら21世紀は恐ろしい世紀であるとして、そうした観念を生みだした「能力主義とナショナリズム」の批判に進むのだが、私は、そこで一歩留まりたい。もちろん、「経済発展に寄与しない人間」も完全に存在理由があるし、生存権が保障されるべきである。しかし、そのような確認で済ますことができない問題であるとも感じるのである。それは、私がオランダにいたときの経験から考えることだ。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2” の続きを読む
マイナンバーを弄ぶな
マイナンバーの紐つけ議論が出ている。きっかけは、10万円の給付金支給で、マインバーカードを使用したところ、大混乱に陥ったことだった。それで、ひとつの銀行口座を紐つけしようという議論がでて、そのうち、金融機関の口座全部を紐つけしようという案もでている。普通であれば、10万円給付で、書類よりもマイナンバーカードを使うほうが手間がかかり、遅れてしまい、そしてとりやめざるをえなくなったという事態が生じれば、どこに問題があるのかを徹底的に究明して、そこを改善しようということになるのではないか。ところが、そんなことはあまりやった雰囲気がなく、直ぐに口座紐つけという案が出てくる。こういうのを「場当たり的対応」というのではないか。あるいは、ナオミ・クライン流に、「ショック療法」で、都合のいい悪巧みを、混乱を利用して実行しようということなのか。 “マイナンバーを弄ぶな” の続きを読む
教育学を考える11 授業 斉藤喜博1
一斉授業そのものは決して避けることができないものではないが、とりあえず、多人数の子どもが同一教室に存在するというのは、国民教育制度では避けることができない。寺子屋のような個別指導方式も可能だから、一斉授業以外の教授方式もありうるが、私は優れた一斉授業こそが、最も効果的な授業であると確信している。しかし、それには教師の側に高度な技術、知識、情熱が必要である。また、高度な技術には達していなくても、高度な一斉授業を可能にするという目的で活動しているのが、TOSSである。TOSSはあとで考察するとして、今回は、最も優れた一斉授業の実践者であったと、私が考える斉藤喜博、次に安井俊夫の実践を考える。 “教育学を考える11 授業 斉藤喜博1” の続きを読む
教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ
これからは、教育の内容的なことを少しずつ考えていきたい。まず初めに「授業」について何回か。
授業について考えるとき、必ずやり玉にあがるのが、「一斉授業」だ。教師による一方通行の授業で、学習者の関心や理解度にかまわず、ただ知識を伝達するだけの授業。これを変えることが、授業改革の第一歩だというように非難される。もちろん、無味乾燥で、成果のあがらない一斉授業がたくさんあることは事実である。しかし、だから個別授業やグループ授業に変えれば、問題が解決するというわけではない。一斉授業は、必然的に生まれる方法だからだ。
昔でも今でも「王」やその子どもの教育は、個別教育である。もっとも優れた専門家であると思われる人から、家庭教師のように教わる。アレキサンダー大王の教師がアリストテレスであったことは、有名な歴史的事実である。今の日本でも、天皇への教育は、個人教授である。一緒に付き従って聞く者がいたとしても、正式に教わる者は天皇だけである。しかし、それは王や天皇だから可能なのであって、それが最も良い教育方法であるとしても、「国民教育制度」で実施できないことは疑いない。王の個人教授は、莫大な税金を使っているから可能なのである。一般の教育では、対費用効果を考えれば、教師一人に対して多数の生徒がいて、多数の生徒の親がその費用を負担する以外は、実現不可能である。費用が税金で賄われるシステムであったとしても、それは変わらない。だから、「学校」という場では、教師の数よりも、学生・生徒の数が断然多いのは、古今東西同じなのである。 “教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ” の続きを読む
教育学を考える9 多様性の保障とはどういう形なのか
「教育の自由」の概念は、到達点ではなく、出発点であると前回書いた。その問題を今回は扱う。『教育』の7月号に、森岡次郎氏の「『多様な学び』の『多様性』をめぐって」という論文が掲載されている。とても啓発される文章で、今回考えたい問題にフィットしている。
森岡氏は、若いころ専門学校で、教職のための授業をしていたとき、学生たちの意識を講義に集中させることは、ほとんどできなかったという経験を書いている。毎回プリントを作成し、具体的な内容を盛り込みつつ、彼らに関心をもってもらうよう努力したが、ほとんどの学生は興味を示さなかったのだが、ごくわずか、2,3名は毎回授業を熱心に聴き、レポートも優れていたという。結局「ほんの数人でも、この授業から何かを学んでくれる人がいれば良い。すべての学生にとって有意義な授業などできないのだから」と開き直ったそうだ。
同じクラスで哲学の授業を担当している教員と情報交換したところ、その教員も同じ悩みを抱えていたのだが、話を進めていくうちに、それぞれの授業で熱心な学生が、違う人であることがわかったという。また、別の事例として、森岡氏の学生時代の経験。氏にとって最もつまらない授業は数学で、教員は、授業中ほとんど黒板を向いて、数式を書き続けている。ときどき説明するのだが、小さい声でぼつぼつ言うので、聞き取れない。試験も難しい。氏は、現在のように授業評価システムがあれば、多くの学生から低評価を受けたろう、そして、その授業にはまったくホスピタリティがないと感じていたそうだ。しかし、あの授業が大学の講義のなかで一番面白い、最も知的に興奮する、と熱っぽく語る学生がいたので、不思議に感じたと書いている。 “教育学を考える9 多様性の保障とはどういう形なのか” の続きを読む
パトカーによる追跡はやめるべき 京都の事故で思う
毎日新聞(2020.6.21)によると、京都で、パトカーに追跡されたワゴン車が、交差点でタクシーにぶつかり、ぶつけられたタクシーが、はずみで交差点近くにいた自転車にぶつかった、という事故を報道している。私はずっと以前から、こうした事故が起きると、パトカーの追跡はやめるべきであると、ブログに書いてきた。アメリカでは、こうしたパトカーによる追跡が行われ、結局捕まえたというような報道が、映像とともに流される。まさか、日本でも負けないぞ、と警察が意気込んでいるわけではないだろうが、日本とアメリカは、道路事情が異なるので、日本でのパトカーによる追跡は非常に危険で、無関係な人を巻き込む可能性が非常に高いのだ。 “パトカーによる追跡はやめるべき 京都の事故で思う” の続きを読む