教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ

 これからは、教育の内容的なことを少しずつ考えていきたい。まず初めに「授業」について何回か。
 授業について考えるとき、必ずやり玉にあがるのが、「一斉授業」だ。教師による一方通行の授業で、学習者の関心や理解度にかまわず、ただ知識を伝達するだけの授業。これを変えることが、授業改革の第一歩だというように非難される。もちろん、無味乾燥で、成果のあがらない一斉授業がたくさんあることは事実である。しかし、だから個別授業やグループ授業に変えれば、問題が解決するというわけではない。一斉授業は、必然的に生まれる方法だからだ。
 昔でも今でも「王」やその子どもの教育は、個別教育である。もっとも優れた専門家であると思われる人から、家庭教師のように教わる。アレキサンダー大王の教師がアリストテレスであったことは、有名な歴史的事実である。今の日本でも、天皇への教育は、個人教授である。一緒に付き従って聞く者がいたとしても、正式に教わる者は天皇だけである。しかし、それは王や天皇だから可能なのであって、それが最も良い教育方法であるとしても、「国民教育制度」で実施できないことは疑いない。王の個人教授は、莫大な税金を使っているから可能なのである。一般の教育では、対費用効果を考えれば、教師一人に対して多数の生徒がいて、多数の生徒の親がその費用を負担する以外は、実現不可能である。費用が税金で賄われるシステムであったとしても、それは変わらない。だから、「学校」という場では、教師の数よりも、学生・生徒の数が断然多いのは、古今東西同じなのである。
 教授スタイルは主にふたつあったといえる。ひとつは、教師による知識伝達方式である。そして、もうひとつは、個々人がバラバラなことをやっていて、教師が個別に指導する方式である。日本の江戸時代でいえば、前者は藩校であり、後者は寺子屋である。国家ないしそれに近い組織が設置する「学校」はだいたい前者であり、庶民のなかから自発的に生じた場合、後者になることが多かったと思われる。
 両者に共通なことは、教師が教える「内容」について習得していれば、「教え方」の工夫などは必要ないという点である。伝達型では、教える内容を文章にしておいて、それを朗読すればよい。事実、戦前の日本の大学はそうした講義がほとんどだったと言われている。有名な教授の「講義録」が出版されていて、それは学生によって筆記されているのだが、筆記が可能なように、ゆっくりと読んでいたわけだ。いくら秀才でも、きちんとした文章になっている内容を、通常の速度で話されたら筆記などできるものではない。吉野作造の講義録が出版されているが、学生のノートがそのままコピーされている部分があるが、完全な文章で書かれている。「。」「、」とか、「改行」などもきちんと言ってくれた、というような思い出話もある。
 もっと極端なことでは、大学改革前のハーバード大学での教育スタイルが伝わっている。そのほとんどはテキストの暗記だったという。宿題として、テキストのある範囲の暗記がだされる。そして、次の授業では、暗記をしてきたかどうかを、各学生ごとにチェックされる。つまり、暗唱しているのを、みなの前で発表するわけである。もちろん、間違いがあれば訂正される。そして、最後に次の暗唱箇所が宿題としてだされるというわけだ。ヨーロッパで19世紀になると、フランスでナポレオンによる高等教育改革がなされ、ドイツではフンボルトによるとベルリン大学創設、そして新しいタイプの大学教育が始まる。その影響が19世紀半ばからアメリカに伝わり、アメリカの大学の改革が始まるのだが、それ以前は、このような現在では批判されて生き残れないような方法で、授業が行われていたのである。
 もちろん、こういうことに、学生が満足していたとは思えない。しかし、こうした教育機関は、明らかに極めて恵まれた階層の人々の特権として入学できたわけだから、エリートであることの保障であり、我慢することはできたということなのだろう。実際、これ以上の充実した講義を行うことは、そんなに簡単なことではない。
 古代社会の学校として、その実際が伝わっている少ない例である、プラトンのアカデメイアはどのようなスタイルの講義だったのか。プラトンの著作を読むと、当然そこではソクラテス法と呼ばれるような対話的な授業が実践されていたと想像するかも知れない。しかし、研究によれば、完全な知識伝達型の講義だったらしい。しかし、プラトン自身は、それに不満をもっており、ソクラテス的対話型講義を試みたことがあるそうだ。結果はまったく悲惨なものだったらしく、2、3回しか実施せず、あとはひたすら管理や執筆をしていたのだろう。プラトンですらうまくいかなかった。日本で学生生活を送った人であれば、教師がいくら問いかけをしても、ほとんど反応がないという経験を必ずしているだろう。
 エリート教育機関であれば、これでも特別問題とはならなかった。しかし、国民教育制度が成立し、義務教育が実施されるようになると、さすがにそのような無味乾燥な教授スタイルでは機能しないことがわかってきた。義務教育制度が確立する前後から、新教育運動が起きたのは、ごく自然な流れだった。20世紀初頭に生じた新教育運動は、授業の方法に新しい要素を取り入れるという特質があった。クラスを複数の年齢で構成する(イェーナプラン)、体験から学ぶ(デューイ)、教材の自作(フレネ)、民主主義的運営(サマーヒル)、個別方式(ドルトンプラン)、教具を工夫(モンテッソーリ)等々。しかし、これらは、教師1人に対して、生徒20-40人というなかでの授業改革としては、周辺領域の改革という域をでていないと感じる。やはり、知識伝達型の一斉授業を、対話型の一斉授業に変えていくスタイルが、不可欠だったのである。
 日本でそれを行い、理論的にも型を作り出そうとしたのが、斉藤喜博である。そして、賛否両論あるが、斉藤喜博から出発して、誰にでも使える対話型の授業を作り出そうとしたのが、授業の法則化運動、現在のTOSSである。
 その検討の前に、日本でアクティブラーニングの必要性を認識させた、ハーバードの白熱教室にみられるように、暗記を強制していたハーバードが、なぜ、ソクラテス法の授業が多くなったのか、推測にしかならないが、考えてみよう。
 対話型の授業は、意見を求められたら臆せず発言する気風が、学生のなかに醸成されていなければ成立しない。アメリカは、小学校のころから、意見を発表することがよいことだ、高い評価を得るのに必要だという雰囲気があると言われている。もちろん、全員が積極的に発言するわけではないし、シャイな子どももいるから、それが苦痛だという例もあるといわれている。しかし、いろいろな資料や映像で見る限り、小学校のみならず、中学や高校でも活発に発言する生徒が多い。その延長で、大学でのソクラテス法が可能になるのだろう。では、なぜ、日本では高学年になるにつれて、発言する生徒は激減するのに、アメリカでは維持されるのか。これは推測でしかないが、アメリカは移民の国、つまり多民族国家であり、白人といっても、その出身は様々である。そういう社会では、明確に自分の意見を言わなければ、相手に理解されず、誤解されて不快な目に会う。だから、子どものころからはっきりと意見をいう躾けがなされ、学校のなかでもそれが求められるようになったのだろう。学校文化として、発言することが当然という風潮が育っていったと考えられる。それに対して、日本のような文化的に同質な社会では、意見を述べることは相手に異論を唱えることであるとして、嫌われる風潮が育ったと思われる。もちろん、それは人々のなかから自然に生まれた側面もあるが、国民に対して服従的な傾向を育てるために、政策的に醸成された感覚であったとも考えられる。日本の文化が、本当に同質的なものであるか、また、そうだとしても、意見をいうことは相手を否定することなのか、そうした基本的な点についての検討も必要であると思うが、ここでは、その点は保留にして、学習指導要領のレベルですら、主体性などが重視されている時代だから、対話型の授業が社会的にも求められているという前提で考察を進めよう。
 (長くなったので、斉藤喜博を初めとする、伝達的ではない一斉授業の在り方を示した事例の考察を次回に行う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です