「教育の自由」の概念は、到達点ではなく、出発点であると前回書いた。その問題を今回は扱う。『教育』の7月号に、森岡次郎氏の「『多様な学び』の『多様性』をめぐって」という論文が掲載されている。とても啓発される文章で、今回考えたい問題にフィットしている。
森岡氏は、若いころ専門学校で、教職のための授業をしていたとき、学生たちの意識を講義に集中させることは、ほとんどできなかったという経験を書いている。毎回プリントを作成し、具体的な内容を盛り込みつつ、彼らに関心をもってもらうよう努力したが、ほとんどの学生は興味を示さなかったのだが、ごくわずか、2,3名は毎回授業を熱心に聴き、レポートも優れていたという。結局「ほんの数人でも、この授業から何かを学んでくれる人がいれば良い。すべての学生にとって有意義な授業などできないのだから」と開き直ったそうだ。
同じクラスで哲学の授業を担当している教員と情報交換したところ、その教員も同じ悩みを抱えていたのだが、話を進めていくうちに、それぞれの授業で熱心な学生が、違う人であることがわかったという。また、別の事例として、森岡氏の学生時代の経験。氏にとって最もつまらない授業は数学で、教員は、授業中ほとんど黒板を向いて、数式を書き続けている。ときどき説明するのだが、小さい声でぼつぼつ言うので、聞き取れない。試験も難しい。氏は、現在のように授業評価システムがあれば、多くの学生から低評価を受けたろう、そして、その授業にはまったくホスピタリティがないと感じていたそうだ。しかし、あの授業が大学の講義のなかで一番面白い、最も知的に興奮する、と熱っぽく語る学生がいたので、不思議に感じたと書いている。
つまり、学ぶ者が教育に対して望むことは、人によって相当違うということが、これらのことから端的にわかる。ここから、森岡氏は、教育の多様性の保障が必要であることを主張する。そして、2016年に成立した「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律 」を高く評価する。つまり、主に不登校になった子どもたちが通うオルタナティブな教育機関を認め、そこで学んだことで義務教育を果たしたことにするという法律である。もちろん、一条校以外の教育組織で学ぶことを認めたことは、極めて画期的なことであり、大きな前進であるといえる。
しかし、一歩ではあっても、マイナス面があることも否定できない。それは、あくまでも一条校が王道であり、オルタナティブの教育組織は、裏通りだということだからだ。法文には、不登校という言葉が何度かでてくる。あくまでも通常の学校に適応できない者に、例外的に認めてあげるというに過ぎない。最終的には、オルタナティブも王道を形成するものでなければならないのである。
この段階でも、森岡氏は、ではカルト的な教育組織が現れたら、それも認めるのかという問題を提起している。重要な提起であり、それこそ避けて通ることができない問題である。裏通りが王道になったら、もっと大きな位置を占めてくるだろう。実際に、森友学園は、教育勅語の精神に基づいた小学校を創立しようとした学校である。教育勅語は国会で正式に廃止された文書であるから、国家的には、教育勅語による教育組織は認められる余地はない。だが、教育の多様性が前提になれば、そうした学校を設立しようとする人たちは多数出てくるだろう。あるいはイスラム原理主義の学校なども考えられる。
そうした学校も、多様性が原則になれば、憲法等の基本的な法に違反しない限りで、かなり特殊な教育理念や方法であっても、認められる必要がある。では、どのような原則が多様な教育組織を認める場合に必要となるのか。
まず第一に、本道と路地裏という区分ではなく、すべてが本道として認められる必要がある。従って「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律 」はあくまでも通過点であって、到達点ではない。では、路地裏として認められた学校を、本道として位置づけ直すには、どのような条件が必要なのか。
臨教審の「教育の自由化」論は、「義務教育確保法」と同じように、塾などを学校として認めよという提言をしたが、それはあくまでも裏通りとしての容認だったと思われる。それに「国民の教育権」論者は反対したわけだが、本道とすることについてはどうなのだろうか。現在、この法律によって承認された教育施設は、若干の補助を受けることができる。そして、その承認は、主に不登校生徒及び通常の義務教育を受けずに卒業してまった人の受け入れ教育組織に対するものである。
これとは別に、経済特区制度による多様な学校の認可がある。それは、学習指導要領に拘束されない教育をしてもよいという、日本ではかなり特別な認可形態である。ところが、この場合には、一切補助金がつかない。シュタイナー教育やサドベリバレイ校のような、日本の学習指導要領とは全く相いれない教育をする学校が、この制度によって設立されている。補助金がないので、経営はかなり苦しいと思われるので、あまりコストがかからないサドベリバレイ校は別として、かなりの財政基盤が必要なシュタイナー学校は、日本にはいまだに一校しか存在しない。国際的には最も普及しているオルタナティブスクールであるのに。
つまり、本道に位置づけるためには、本道と同一の財政基盤、補助が必要ということになる。そこで問題になるのは、そうしたオルタナティブ教育組織は、公立学校ではない。そこに、補助金が必要とされる私立学校が大量に増加すると、学校全体の人口との関連での「無駄」が生じることになる。公立学校が、通学区指定をしている以上、学齢人口に見合う公立学校の定員を維持しなければならないからだ。しかし、かなりの人数が私立学校に流れれば、公立学校の定員は無駄な部分が大きくなるわけである。実際に大都市の公立中学は、そうした現象が起きているのである。これは財政的に非効率である。公立学校と私立学校の定員を合わせて、当該年齢人口より多少多くなる、つまり、選択の幅をもたせる程度の余裕をもたせるのが、もっともコストパフォーマンスはよい。オランダはそのようになっている。それが可能なのは、公立と私立の財政的保障が全く同一だからだからだ。
私は、オランダの学校制度を研究する前は、公立学校と私立学校は、その存立基盤や教育理念が全く違うので、別の位置づけがなされるもので、基本的に私立学校は、公立学校を選択しない者が通学するものだと考えていた。多くの日本人はそう考えていると思う。しかし、オランダでは公立学校も、教育委員会が人口動態を考えて設置するわけではなく、設置も主体的に担う人物が中心になって行い、運営もする。日本ではNPO法人が学校を作っていると考えたほうが近い気がする。人数が集まらなければ国庫補助が受けられず、閉校になるのも私立学校と同じである。そして、公立学校も設置の中心になる人たちの教育理念が反映されることが多く、モンテッソーリやフレネ教育を実践する公立学校も存在する。こうして見ると、本道と路地裏を区別しない、そうした差別が生まれないためには、何らかの認証で設置された学校は、すべて平等な財政保障が行われることが必要であると確認できる。
では、次に起こる、いかなる理念も認めるのかという点を考えてみよう。教育の多様性を認め、「教育の自由」を基本にする以上、教育内容や方法、理念で禁止することは、原則的にできない。そうした制度で「教育の自由」を認め、かつ公立学校と私立学校の国庫補助をほとんど同等にしているオランダとデンマークのシステムをみておこう。
「教育の自由」原則の下で、基本的に教育理念や原則を理由として学校の設立を認めない、ということがない点では、両国とも同じである。しかし、国庫補助のあり方は違う。
オランダの場合には、法令で、人口を考慮してであるが、学校として補助を受ける場合の必要生徒数が決められている。その基準を満たせば、公私にかかわらず、同等の財政補助を受けることができる。しかし、人数が減って、基準を下回れば、一年の猶予の後に補助は廃止されてしまう。それでも学校として存続することはできるが、事実上運営が不可能になるので、廃校となる。つまり、オランダでは、数という「教育を受ける側の支持」をもって、補助を出すシステムである。
それに対して、デンマークでは、そうした数の基準すらも設定されていない。学校を設立すれば、ほぼ自動的に補助が受けられる。もちろん、校舎や教師が充分に存在していることは必要であるが。そして、教師数や生徒数を基準として算出される経費の一定割合を補助する仕組みである。私がデンマークに滞在して学んでいたときには、75%だった。距離に応じて料金が決まるタクシーになぞらえて、タクシーメーターシステムと呼ばれていた。生徒数が少なくても、補助がでるわけだが、生徒数に応じた経費算出をするので、生徒数が非常に少なければ、合計額が当然少ないので、教師の給与が払えなくなってしまう。そういう意味で、ある程度の生徒数がいないと成り立たないという意味では、オランダと同じであり、結局、「国民の支持」を数量で測る、そして、内容には関与しないという原則になっているのである。両国のシステムは、大いに参考にすべきであると思う。(制度論的考察はここまでにして、以降は授業論的な考察にはいる。)