いままで何度か、五十嵐の財政論について書いてきたが、概略的にまとめる必要がでてきたので、これまで書いていない部分について主に書くことにする。
五十嵐は、東大の教育財政学担当の教官として、26年間勤めたが、教育財政学の研究者になったのは、自分自身の意志ではなく、偶然の要請だった。1946年に戦地から帰って、就職先がなかったときに、国立教育研修所で助手を募集していることを知らされ、そこで宗像誠也に、アメリカの教育委員会制度を調査してほしいと依頼されたのがきっかけだった。依頼の対象は教育委員会制度だったが、アメリカの教育委員会は、自主財源をもっているところが多く、教育政策の決定と執行を行う組織だったが、それでも財政的には貧弱で、州や連邦政府の補助金が必要であるために、同時に教育財政の調査を行うことになった。そして、その調査が認められて東大に迎えら、教育財政学の担当者になった。したがって、それまで教育財政学の研究上のトレーニングはおろか、研究のトレーニングもうけたことがなかったのである。それもあってと思うが、五十嵐教育財政学は、通常の財政学とはかなり色合いの異なるものになった。