五十嵐顕考察33 教育財政研究について1

 いままで何度か、五十嵐の財政論について書いてきたが、概略的にまとめる必要がでてきたので、これまで書いていない部分について主に書くことにする。
 五十嵐は、東大の教育財政学担当の教官として、26年間勤めたが、教育財政学の研究者になったのは、自分自身の意志ではなく、偶然の要請だった。1946年に戦地から帰って、就職先がなかったときに、国立教育研修所で助手を募集していることを知らされ、そこで宗像誠也に、アメリカの教育委員会制度を調査してほしいと依頼されたのがきっかけだった。依頼の対象は教育委員会制度だったが、アメリカの教育委員会は、自主財源をもっているところが多く、教育政策の決定と執行を行う組織だったが、それでも財政的には貧弱で、州や連邦政府の補助金が必要であるために、同時に教育財政の調査を行うことになった。そして、その調査が認められて東大に迎えら、教育財政学の担当者になった。したがって、それまで教育財政学の研究上のトレーニングはおろか、研究のトレーニングもうけたことがなかったのである。それもあってと思うが、五十嵐教育財政学は、通常の財政学とはかなり色合いの異なるものになった。

 
国立教育研修所時代
 正直なところ、私は、五十嵐が何故東大に迎えられたのか、不思議に感じていた。というのは、五十嵐の著作は、東大就任後に書かれた論文を集めた『民主教育論』が最初のもので、そのなかの最初に書かれた論文は1954年のものだった。「教育二法律と教育」(『思想』)だった。そして、それ以前に書かれた論文は、著作になったものとしては読むことができなかったために、どのような業績があったのか、まったく知りようがなかったのである。書かれた場所も、研修所の紀要といくつかの雑誌だった。そして、私たち学生は、そのような論文のあることすら知らなかったのである。ところが、五十嵐顕著作集を編集するなかで、それ以前の文章を大量に読むことになり、これなら、当然東大のほうでほしがるだろうと納得したものだった。それくらい、国立教育研修所時代の、アメリカの教育委員会制度と教育財政の調査は、徹底したもので、厖大な報告書が書かれていたのだった。しかし、この時代に書かれた論文は、ついにその後いかなる論文集にも掲載されることがなかった。つまり、研修所時代の文章は、どれも一般の読者に公にするものではないと、五十嵐自身が判断したのだろう。
 私が推測するに、その理由は、研修所時代の文章は、あくまでも「調査」であって、「研究」ではなかったという判断だったに違いない。そして、それは適切な判断だったと思われる。というのは、調査だから、アメリカの研究者が公表していた著作を読み込んで、五十嵐なりに再整理したものだった。一次資料を駆使して、自分で構成した論述ではなかった。だから、それは「研究」とはいえない、ということで、厳しく自己を律して、論文集には採用しなかったのだと思われる。
 しかし、私は東大に移ってから、一次資料を集め、それを補強すれば、「研究」として、極めて意味のあるものになったし、また、財政学者五十嵐のありかたも、ずいぶんと違ったものになったのではないかと思われるのである。そうあるべきであったのかは、私にはなんともいえないが、そうなる可能性がなかったわけではない。現実の日本の教育をめぐる事態の推移によって、異なる道を五十嵐自身が選択したということだろう。
 さて、五十嵐が研修所で調査に勤しんでいたとき、日本の教育界では何がおこっていたのだろうか。主な事例をあげてみよう。
1946.3.5 第一次アメリカ教育使節団報告書
1946.8.10 教育刷新委員会設置
     11.3 日本国憲法公布
1947.3.20 学習指導要領一般編(試案)発行
     3.31 教育基本法、学校教育法公布
     4.17 地方自治法公布
     6.8  日教組結成
1948.4.1 新制高校
     7.15 教育委員会法公布
     10.4 CIE 教育長への講習開始(52年まで)五十嵐が講師として参加
     10.5 第一回教育委員会選挙
1949 教育公務員特例法・文部省設置法、国立学校設置法、教育職員免許法、社会教育法、私立学校法等が順次制定
1950.6.25 朝鮮戦争勃発(53・7.27休戦協定)
     9.22 第二次教育使節団報告書
 これでみればわかるように、五十嵐が国立教育研修所で、せっせとアメリカの文献をよんで調査報告を書いていた時期は、日本の教育制度が大きく変化していた、つまり、戦後教育改革が実行されていた時期だった。おそらく、そうした動きに、五十嵐はあまりかかわらなかったと思われる。
 日本の政治状況が大きく変るのは、なんといっても中華人民共和国の成立(1949年)と朝鮮戦争だった。日本を非軍事的民主国家にしようとしたアメリカの戦略が、このふたつの事件を契機に大きく変化し、日本を対共産圏の防衛線として再構築するために、戦後改革の多くを修正することになったわけだが、それが顕在化するまで、五十嵐は研修所で調査にたずさわっていたのである。したがって、この時期の調査報告は、基本的にアメリカの教育行財政学者たちの見解に、それほど違和感なく、紹介していたということができる。
 そして、日本の占領政策も、多くは教育のアメリカ的民主化に沿うものだった。したがって、五十嵐が主張したことも比較的単純だった。それは以下のようにまとめることがてきる。
「最小単位の地域が、まず教育費を負担していたが、教育が拡大していくにしたがって、地域の単位では、増大する教育費を賄うことが困難になり、より後半な行政団体からの支出、補助が必要となり、最終的に国家(連邦)が補助する体制ができた。教育費的には国家関与が、教育機会の均等の保障には必要であった」という認識であった。
 もちろん、厖大な調査は、さまざまなレベルの具体的な相異や発展が紹介されているが、だいたいにおいて、この図式のなかに位置付けられる。
 
東大専任講師時代
 五十嵐は1951年4月に東大に講師として赴任することになる。そして、既に朝鮮戦争が進行しており、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が結ばれ、それについては、単独講和論と全面講和論が激しく対立し、教育については、戦後の民主的改革といわれたものが、次々と変更されていった。
 公選制教育委員会が任命制となり、地方公務員である教師を国家公務員として政治活動禁止の範囲を拡大し、戦後改革期は、協調的であった日教組を、政府文部省は攻撃するようになる。
 そういうなかで、当初は東大の専任教官として教育財政の研究に励み、いくつかの成果をあげたが、しかし、東大教育学部の社会的位置も影響して、教科研に参加、また、日教組の教研集会の講師団としての活動も始まる。そして、多くの執筆が、そうした民間教育研究運動の機関誌になされるようになる。
 東大赴任後の教育財政学研究の成果が、「公教育財政における公共性の矛盾」という2回にわたって『教育学研究』に掲載された戦前日本を中心とした教育財政の実証的な分析である。しかし、発表が、最初は1953年で、(承前)とされた続きは1956年であり、3年も開いている。そして、その主張にめだった変化が見られるのである。
 第一論文では、昭和の不況を中心に、教育費の削減が行われ(それは戦後にも同じような状況が現出する)、それに対して、国家が補助をする形で問題が処理された、という、アメリカの公教育財政(国庫補助)における教育機会均等化の保障のプロセスと、似た状況の分析が中心になっている。
 第一論文では、昭和5-15(1930-1940)の不況時代を主に対象にされている。1929年のアメリカの恐慌の影響をうけて、1930年に日本で農業恐慌がおきる。1930年に、米と生糸価格の暴落、そして1931年には、冷害による不作で、農村を中心として、貧困(公的、私的)によって、学校教育に支障がでるようになった。1931には、全国的に教員の給与未払いすらおきることになる。これに対して、
1928 学齢児童就学奨励規程
1932 学校給食施設・小学校費臨時国庫補助法
1935 義務教育費国庫負担法
などで、就学の維持のために、国家が補助金によって、調整せざるをえなくなった。
 戦後に関しては、教師に寄付を要求(実質給与の削減)、学級数の削減、二部三部授業、学校の統廃合など、教育そのものを縮小するような動きがあるが、やはり、対策として、国家の補助が必要であった。
 こういう認識であった。
 これに対して、3年後の第二論文では、国家の関与が管理の強化であり、戦前の軍国主義教育へと導いたという観点での教育財政分析が前面にでている。
 給食費の補助は、生計費のための政策ではなく、就学制度自体を維持するためであり、教員給与の安定策は、教師の左傾化を防止する施策であったと評価される。そして、学校教育の充実のための財政はあまり行われず、思想善導のための組織的整備に予算が割かれたことに、軍国主義教育を特質が現われているとする。
 つまり、教育機会均等化のための国庫補助、国家教育財政の増加という観点から、財政をつかった教育統制のあり方を強調する点が、めだっている。これは、当初からの計画されていたことではなく、3年間の研究、および日本社会の変化によって、五十嵐の見方そのものが変わっていった結果であるように思われる。
 とくに朝鮮戦争後、戦後教育改革が具体的に否定されていく政策動向に対して、五十嵐自身が教科研や日教組に深くかかわるようになっていったことが、財政評価の変化をもたらすことになったと思われる。
 しかし、この変化は、私には、五十嵐にとって好ましいものだったとは思われない。以後、運動への関わりが深くなっていったことによって、ある面での批判が強くなり、他のひとの追随をゆるさないものがあったが、他面では、批判の仕方が公式的なものになっていたといわざるをえないからである。戦前の軍国主義的な特質を、思想善導のための予算の創設と増大という具体的な事例を示していたが、戦後の「教育の軍国主義化」と批判するときにも、そうした具体策よりは、独占資本が支配している帝国主義国家だから、というような、パターン化した批判であるといわれても仕方ないような表現が多くなった。戦後は、思想善動的な試みは確かになされたが、それが成功しているとはいえない。とくに、「期待される人間像」が提起されたが、国民の批判によって定着することはなかった。したがって、思想取り締まりのための部局が文部省に設置されるようなことには至っていない。
 戦前の教育が軍国主義的であったし、また、戦時中に学校教育自体が崩壊していたことは事実であるが、そうしたことの財政的特質を、第一論文で分析していたのだが、戦後に関しては、軍国主義の財政的特質を明確には分析することなく、軍国主義化が進んでいると、批判し続けた。つまり、現実分析が弱くなったといわざるをえないのである。
 その結果かどうかは、断定できないが、教育財政上の大きな問題について、五十嵐が十分に触れることがなく過ぎたという事例があった。それは、勤評問題と、義務教育学校の教科書無償化措置である。教科書無償化については、このブログで以前詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。
 
 勤評闘争は、日教組にとって組織の存亡をかけた闘争だったから、当然五十嵐もいくつかの勤評に関する文章を書いている。
 「勤評問題を理解する一つの手がかり」(『教育評論』1957.12)
 勤評をめぐる社会的背景(日教組情宣部『勤務評定』1958.6.10改訂版8.15)
 勤評闘争と教育原則ー恵那支部の経過報告をめぐって 『教育』1959.1
 後年短文を書いているが、まだ入手しておらず、またこの時期の分析ではないと思われる。(「新時代の子どもたちのために」『勤評下の教育を考える』58)
 上の三つの論文は、いずれも勤評が日教組弾圧のための政治的施策であるという観点からの批判・分析になっている。そのことは、事実であるから間違っているわけではないが、しかし、勤評が日教組弾圧のために行った「具体的施策」は、勤評を給与査定に使い、ほぼ自動的に組合に所属していると昇給がなされないか、後れるという形で、具体的に、かつ日常的に組合員を不利な状況に置いたことだった。そして、それは、最初に教師の勤務評定を行った愛媛で典型的であったわけだが、地方自治体としての財政が赤字になり、再建団体となり、自治体としての支出を削減する必要に迫られ、そのひとつの方法として教員給与の削減が考えられた。そして、一律に削減するのではなく、勤務評定を導入して、評価の低い者を削減するということにして、なおかつ、その評価に組合員であるかどうかを重視したわけである。つまり教育財政のあり方によって、教師への管理統制を強化したという、極めて典型的な事態だったのであり、五十嵐財政学がもっと詳細にその過程を分析する必要があったと思うのである。しかし、残念ながら、五十嵐の上記論文には、そういう分析はほとんどない。したがって、勤評政策に正面から、あるいはもっとも重要な方法的批判をするためには、財政にからめた批判が必要だったと考えるが、おそらく、闘いの政治的スローガンを重視した日教組に合わせたのではないだろうか。組織全体として、政治的課題に重点があったとしても、五十嵐としては、より専門的な観点からの批判と、どうすればよいのか(自治体が赤字財政に苦しんでいたことは事実なのだから)を提示すべきだったのではないか。
 同じことが、教科書無償に対してもあったと思うのである。
 ただ、前述したように、これは前に書いたので、次回に、このふたつの教育財政的事件にたいする論及をさけたことによって生じた五十嵐が、10年間の深刻な反省によって、切り拓こうしたあらたな税再論=教育費論を考察する。
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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