五十嵐顕考察34 教育財政論2

 前回は、戦後教育財政の研究を始めた時点での、五十嵐の立脚した観点について整理した。そして、勤評への批判が、政治的な観点からなされ、教育財政的な視点がなかったことを指摘した。それは、前に指摘した教科書無償化措置に、なんら批判をしなかったことと同じ問題があったことを簡単にのべておいた。教科書無償化については、以前に書いた通りである。

 さて、今回は、10年後、新たな地平を開こうとしたことについて考察する。勤評闘争は1950年代終りころから、そして、教科書無償化は1960年代の初頭から、小学校一年から順次実施されていった。9年かかって全学年の無償化が実現されたことになる。当然私自身は、無償化の時代ではなく、毎年学年はじめに、お金をもって学校の始業式のときに、教科書を購入した世代である。
 1960年代には、教科書無償化措置が実施されはじめたあと、教育財政や教育費に関する論文は、1967年『母と子』という雑誌に、「義務教育の無償とは」という短い文章を書いているだけで、他にはまったく書いていない。60年代にソ教研の活動をはじめ、中心的にになうようになって、そちらに力と時間をそがれたという事情もあるかも知れない。しかし、その時期は、私は、五十嵐が深い反省をせざるをえなかったのだと考えている。

 1971年になって、『教育』に「教育をうける権利と公教育費および教育費」という文章を書いた。実は、この論文と同じ内容で、私は五十嵐の講義を大学でうけたことをはっきり覚えている。当然『教育』にこの論文がでたことで、私たち学生は、さっそく読書会を開いて検討もした。しかし、その意味を十分には理解できなかった。というのは、この論文は、この10年間、つまり10年前に起ったことを理解していないと、この論文の意味を把握することはできなかったからである。五十嵐は次のように書いている。
 「教育を受ける権利という研究観点と教育財政、ないし国家財政を経た公教育費の現実とを関連させて、積極的に教育上の価値および教育学上の概念をふくんだ有機的な理論を構成することは、この一〇年間私の苦しみの種でありつづけているということである。真の困難はおのれ自身のなかにある弱点にうちかつことである。このことを、私はまことにささやかな自分なりの経験によって知ってきた。」
 この10年とはどういう10年だったのか、「おのれ自身のなかにある弱点」とは何なのか。「ささやかな自分なりの経験」とは何だったのか。もちろん、正確なところは、わからない。五十嵐自身に質問することはできないからである。
 だだ、想像はできる。10年は、当然勤評闘争と、教科書無償化の実現のなかで、自分の教育財政理論を核にした批判ができなかった時期と状況をさしている。「おのれの弱点」とは、自分の専門である教育財政学者としての立場として、いわねばならないことを、日教組の悲願が実現した(教科書無償)ことの故に、この無償化が国家管理につながるという重大な批判を控えてしまったことだろう。これでは、戦前の軍国主義的な政府に対して、きちんとした批判をできなかった教育学者と、平和主義という立場は逆であっても、似たような状況ではなかったのか。そういうことを、五十嵐が意識しなかったはずはないのである。
 1971年は、だいたい教科書無償化が完成した時期である。この部分を読むと、教育権の理論と公教育費論を関連させることができなかったことが、弱点であると読めなくはないが、しかし、そのようなことは、通常10年間も沈黙をせざるをえない弱点であるとは思えない。むしろ、試行錯誤して論文を書くことが必要であるし、また、可能だったはずである。五十嵐が弱点というからには、より深刻な事態だったはずである。つまり、戦前の教育財政を批判することによって構築してきた自分の論理を、自分で裏切ってしまったのだから、新しい教育財政論を構築しなければならないと苦悶したに違いない。
 そのひとつの解答が71年論文だった。

 さて、この71年論文は、1961年に発表された堀尾輝久氏の「公教育の思想」(岩波講座『現代教育論』4)という論文に衝撃をうけたことを告白し、堀尾論に沿う形で、新たな論理構築を試みたものだと解釈できる。五十嵐は、それまで「教育費は貨幣教育費として意識する。教育費を払わなければ教育をうける資格なしという資本主義社会での承認・良識」を前提に考えていたと自身で反省する。つまり、教育費は独自の顔をもっているわけでないという前提に対してである。堀尾は、「公費は思想性をもった言葉である」という有名な言葉を「公教育の思想」のなかでのべており、公費(租税)は労働の変形したものであるから、それを生みだした国民に対しては、無償教育が当然なのであると主張した。つまり、教育費(公費)は、顔(思想性)をもっているのだということだ。

 堀尾論文の骨格は次のように整理できる。

 公費は人間労働の変形されたもの → すべての人の普遍的権利として多数の学校が不可欠で公費による教育が望ましい。 → 無償性と世俗性
 公費が国王の私有物という公費観 → 公費教育=慈恵 無償は義務性の系となる。世俗性ではなくカテキズムとなる。

 そして、近代公教育の三重構造を示した。(支配階級の自己教育・支配階級による労働者階級の教育・労働者階級による自己教育)支配階級による国民教育は、当然この二層目の、そして、慈恵としての教育になるところを、公費観の転換によって、権利としての教育を実現しようというのが、堀尾理論である。

 五十嵐は堀尾論文を読んで、どのような反省をするのか。
 まず、国家教育費の批判を、教育権利のための実践運動の内側からきずこうとするものではなかったとする。
 五十嵐も基本的には「国民の教育権」の立場にたっているが、しかし、常に一歩躊躇するものがあった。それは、「国民の教育権論」は、教育基本法10条の教育行政を条件整備に限定することを基本的な立場(内外区別論)にしており、五十嵐にとって、それは教育財政学は、教育の外にあると考えざるをえなくなることへの心理的抵抗感があったということだ。しかし、この点の五十嵐の意識は、私にはあまり理解できないところである。教育には様々な側面があり、教育制度、教員養成(教師論)、教育内容、教育施設・設備、そして、すべての領域において、ルール、費用等が必要である。教育はそれらの総体が分業として日々営まれるわけで、教育財政は、そうした総体のなかの重要部分であり、狭い意味での教育(教授)の内側になければならないわけではない。教授の外にあるからといって、価値が低いわけではないし、また、教育学の外であるということにはならない。ここにこだわる五十嵐は、みずから袋小路に入り込んでいるようにおもわれてならない。
 次に、量としてあらわれる教育費は、それ自体としては質をもたないということだろうが、五十嵐が主張してきたことは、国家の教育費が軍国主義的に使われたということだったのではないか。貨幣としては、それ自身が顔をもたないとしても、財政上の費目としては、顔をもつからこそ、財政の価値判断がなされるわけである。
 だが、五十嵐は堀尾が、「同一の顔かたちをして、私たちのまえにならんでいる貨幣教育費を識別するのに導く教育学的レンズを提供してくれたかのようである」として、堀尾論にそって、教育費の構造分析のカテゴリーを模索することになるのである。
 ただ、ここの堀尾の趣旨は、慈恵として与えられる支配階級による国民教育を権利としての教育に変革していくことであり、そこに公費観の転換が本質となるということだったと思われる。公費観の転換の理念はわかるが、では、転換したあと、どのような支出形態になるのか、という点は触れておらず、実際には貨幣は顔をもたないから、「公費観」といっても、結局は、使われ方によって判断されるしかない。中世と現代という社会体制がことなる場合は別として、同じ現代国家における制度的民主主義の国家では、「観」の違いは公費のありかたとしては、どのように判断されるのか。
 堀尾の分類だと、国家が設置する公教育は、すべて無償であるべきということになるのだろう。国王の私有物としての公費だと、無償性は義務性の系ということになるから、国民全体の義務教育が確立すると、堀尾論の範囲では、権利と慈恵の外形的区分ができなくなるのである。堀尾自身は、この点を掘りさげを以後していないので、堀尾論としてはわからないが、おそらく、五十嵐は、そのことを引き受けようとしたのに違いない。したがって、五十嵐の課題は、権利と慈恵のふたつの公費のあり方を明確に識別するカテゴリーを見出すことでなければならなかった。おそらく、そういう試みとして、教育費の新たな分類軸を提示することになったと考えられる。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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