日大アメフト部廃部について

. 日大アメフト部廃部問題について
 日大のアメフト部が再び大きな問題を起こしたのは、二度目だから、さすがに世間の見方は厳しい。廃部が競技スポーツ運営委員会で決定したとき、ヤフコメでは当然だろうという意見が多数だったという印象だった。日大アメフト部は、日大のなかでも、また全国のアメフト部のなかでも、際立って強い部だったそうだから、おそらく大学内での扱いもかなり特別なものがあったのだろう。
 私は既に定年退職しているが、元大学教師として、こういう問題については、常に考えさせられたものだ。もっとも、私が勤務していた大学は、いっさいスポーツ推薦がなく、したがって、大学のスポーツ部でめだった活躍をする部は、ほとんどなかった。比較的強かったのがトランポリン部だったことでわかるように、メジャーなスポーツは、ほとんどが一部、二部などにもはいっていなかったはずである。そして、少数はあったかも知れないが、スポーツ推薦をとりいれて、スポーツで名をあげ、学生募集を有利にしよう、というような意見をもっているひとたちも、ほとんどいなかった。スポーツ推薦制度を実施して、有名高校生を勧誘し、部を強くして、名をあげるというのは、まともな大学人の感覚からすれば、大学の本当の役割を逸脱しているわけであるし、なによりも、有名高校生を勧誘するためには、裏金が必要となるのが普通で、そこに不明朗な会計が生じることになり、それはほぼ確実に、不明朗な金を扱う人が、不明朗な権力を振るうようになるのである。もちろん、会計も明朗ではないから、つつかれれば、やっかいなことになる。逆に、スポーツ推薦がまったくなかった私の勤務大学の会計は、極めて明朗で、完全に公表されていた。これは大学に限らず、組織にとって非常に大切なことである。
 逆にいえば、日大のようなスポーツ推薦がかなりの分野で行われている大学の会計は、いたるところに不明朗な部分があるに違いないと推察できる。タックル問題のときの監督やコーチの動きなどは、いかにもおかしなものだったし、今回の理事会の動きも、不思議なものだ。競技スポーツ運営委員会が廃部を決定し、部の監督が部員の学生立ちに通知しているにもかかわらず、しかも、その方針が文部科学省に報告されていたにもかかわらず、理事会で何人かの反対意見がでて、決定できなかったということは、理事のなかに、スポーツ利権にかかわる人物がいたのであろう。大学という教育機関がこうした闇の部分をもつことは、いいはずがない。教育機関として腐敗していくことは、避けられないと思われる。


..一般部員に責任はないといえるか
 廃部については、必ず一般部員に責任はないではないか、連帯責任という古い感覚を適用するのは間違っているという意見がでてくる。たしかに、連帯責任という考え自体は、現在では適切なやり方ではないが、一般部員に責任がないかどうかは、また別の問題である。ジャニーズ事件でも、ジャニーズタレントに罪はないという議論があるが、私は、やはり、タレントにも、見て見ぬふりをしたという道義的適任があるし、また、我慢しろと後輩たちに言っていたり、あるいは、加害行為に協力したりした場合には、単なる道義的責任では済まない部分があると考えられる。日大アメフト部の部員についても、基本的に部員は寮生活をしているのだから、大麻を扱っている部員のことは、かなり噂になって知っていたはずであり、そうだとすれば、しかるべき責任者に報告したり、やめさせるようななんらかの対応をとる必要がある。そういうことをせずに、傍観していた部員が多いすれば、やはり、最低限道義的責任はあるといわざるをえない。
 したがって、一般部員には責任がないのだから、廃部はおかしい、不当な連帯責任の適応だ、というわけにはいかないだろう。
 不正が行われていることを知っていたら、見て見ぬふりをすることは許されないのだ、ということを教えるという意味でも、廃部は「教育的な意味」をもつといえる。逆に、廃部を決めて、それを撤回したら、みていてもみぬ振りをしていれば、事態の悪化の責任は問われないし、不利益に扱われることもないのだ、ということを教えるという意味で、反教育的といわざるをえない。
 したがって、一般部員には責任はないという論理は成立せず、このような事態をひき起こした以上、廃部は適切な措置であるように思われる。

..部による対抗試合そのものが考えなおされる必要がある。
 日大アメフト部では、不祥事という形で問題になったが、もともとスポーツ推薦で入学した学生たちが行っているスポーツは、大学教育のなかで行われるのに相応しいようには思えないのである。私は、ごく普通の教師だったので、あまりに部活に肩入れする学生には、あまり共感をもてなかった。もっとも、私の大学にはスポーツ推薦がないし、また、別の文系の推薦なども当然ないから、授業を無視して部活に入れ込む学生は、極めて稀にしかいなかったのではあるが。
 私は、中学・高校の部活そのものを、社会体育に移管すべきであり、学校教育のなかで行うには、学校の教育活動だけではなく、そのスポーツをやっているひとたちのスポーツ能力の向上にとっても望ましくないという考えである。それは、大学においても、同様だろう。大学の場合には、中学や高校での部活の弊害は、比較的少ない。そうした弊害のひとつは、ひとつの学校には、特定のスポーツの部はひとつしかなく、そのスポーツをやりたければ、全員がそこにはいらざるをえない。経験豊富で高い技術・能力をもっている生徒も、初心者も同一の場で練習をせざるをえないのである。それは教育的にも、また人間関係的にも好ましいとはいえない。だから、さまざまなレベルや目的をもった社会体育のクラブとして存在したほうが、現在は有効なのである。
 大学には、ひとつのスポーツに、多数のサークルがあるのが普通であり、熱心にやりたい学生は体育会系の部に、楽しくやりたい人はサークルにという棲み分けが可能になっているから、中学・高校のそうした弊害はないのだが、逆に、大学でまるでプロ予備軍のような部活をしている選手たちは、多くが勉学をおろそかにしていることが多いだろう。やはり、大学は、大学教育をしっかり行い、プロ選手をめざすようなひとたちは、社会のクラブに所属するような、分業が必要になっているように思うのである。

 ただ、最後に、大学が初めて箱根駅伝に出場が決まると、それだけでかなり受験の応募者が増えるという話がある。おそらく事実なのだろう。そういう社会的雰囲気ができているというのも、大学教育の向上にとっては、パラスではない。おそらくメディアもそうした雰囲気を煽っている面がある。大学はやはり勉学をするところなのだという点から、考えていきたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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