漫画のドラマ化で原作者が自死

 この問題を知ったのは、事件(原作者の自死)の前に、さっきー氏のyoutubeを見たからだった。テレビの裏側を解説するというyoutubeで、なるほどと思うことが多いのだが、このなかで、「セクシー田中さん」というドラマで、原作者と脚本家の争いになっているということから、珍しい揉め方として紹介していた。原作をかなり改変してドラマ化することはよくあることだが、通常は、表立ったトラブルにはならないというのだ。というのは、ふたつのパターンがあって、改変されることを嫌う原作者が、ドラマ化を断るか、改変されるのは、いっても無駄とあきらめて、任せてしまう場合のどちらかがほとんどだという。もちろん、当事者にとっては、どちらかが不満足な展開になるのだが、トラブルにはならないという。今回の場合には、原作者が、原作を改変しないことを条件にしたが、それにもかかわらず改変が行われ、原作者が自分で脚本を書くという事態になったことが、極めて例外的だという解説をしていた。そして、この問題が難しいのは、だれもがよかれと思っていることだ。改変する脚本家やプロデューサーにしても、面白くなくするために改変するのだ、などということは絶対になく、このほうが面白いと考えて、改変する。原作者は原作の形をベストと考えているのは当たり前だ。善意と善意がぶつかり合って、トラブルになると、解決が非常に難しいというのが、さっきー氏の結論だった。 “漫画のドラマ化で原作者が自死” の続きを読む

中学生にも麻薬汚染が

 9月に大麻所持で中学生が逮捕されて話題になったが、大麻に汚染されている中学生が多数いると、テレビに対して証言した中学生が現われて、更に問題になっている。
「大麻に手を染める生徒は「沢山いる」隣の子に「見て見て」 中学生が激白、薬物がまん延する沖縄の現状」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e17fe066f14515515152079ca764db8fea2c6d14
 逮捕された生徒と同じ学校の生徒が証言したものだが、だいたいは先輩から入手し、入手すると、まわりにみ見せびらかすことが多いと語られている。つまり、違法薬物で、逮捕される可能性のある「物」だという認識が、極めて薄いようだ。
 日大のアメフト部での大麻汚染問題は、まだ泥沼状態が続いているが、社会に拡大していることが事実であるとすれば、本当に由々しき状況である。

 気になることのひとつに、大麻はたいした害がなく、煙草より安全だから、煙草が合法なら、大麻も合法にしてもいいのではないか、という見解や、大麻は医療的な効果があるので、合法にすべきという、ふたつの合法論があることだ。もちろん、意見は自由だが、合法化論には、まったく賛成できない。

 まず医療的な効果があるというのは、麻薬というものは、多くの種類のものが、治療用に、厳密に管理された中で使用されているのだから、医療的な効果があるということは事実だろう。しかし、だから、一般的な使用を合法化することとは、まったく別の問題であって、専門医によって厳格に管理された上で使うのと、一般人が、「注意書き」があったとしても、自由意志によって使用することとは、まったく意味が異なる。麻薬は麻薬であって、基本的には身体的には害があるものである。
 煙草より害が少ないという点についても、煙草自体の害が認識され、事実上多くの場で喫煙が禁止されていることを見れば、煙草もやがて、より厳しく禁止されるようになるべきであるとも考えられ、煙草より害が少ないことは、合法化の理由にはならない。
 大分前のことだが、ある心理学者が、政府の煙草審議会に参加して、そこで議論されていたことを紹介している本があった。それは、煙草を容認しておけば、政治に対する不満が弱まる、しかし、禁止すると政府に対する不満が、煙草禁止と合わせて強化されるので、合法にしておくことがよい、という理由で、煙草の禁止措置をとらないことが確認されたという。
 煙草の合法措置は、こうした市民の不満解消のためであるとすれば、大麻の合法化が行われたとしても、実はそうした意味合いかも知れないのである。

 ここでもう少し考えたいのは、世界で大麻などソフトドラッグが合法化されている国があることだ。いわゆる先進国でソフトドラッグ合法化したのは、オランダが最初だった。オランダは、バードドラッグは現在でも厳格に禁止して取り締まっており、ソフトドラッグは使用場所や量を制限して、その限りで合法化している。そして、現在でも実施されているかは、確認していないが、かつて麻薬バスを走らせていた。大麻などを希望する者が、所定の場所、所定の時間にいくと、医師が麻薬を射ってくれるのである。
 問題は、何故そうした措置をとったかである。決して、大麻が煙草より安全だから、合法化してもいいだろう、などということではないのである。当時、麻薬に関連して、深刻に恐れられていたことはエイズだった。アメリカではエイズが同性愛の行為から伝染していたといわれたが、ヨーロッパでは、主にドラッグの注射針から伝染したと考えられていた。注射器をまわしながら、ドラッグを注射していたから、そこにひとりエイズ感染者がいれば、多くの人に伝染してしまうわけである。だから、なんとか、そうした行為を止めさせるために、医師が安全に注射してあげるかわりに、それに違犯した者には、厳罰を課すという方法をとったのである。大麻は吸引する方法をとることが多いので、場所を指定して(コーヒーショップといわれる場)合法にしたのである。もちろん、麻薬バスでは、投与の量を少しずつ減らすことによって、中毒状態を治療する効果も狙っていた。
 つまり、エイズが蔓延することを防ぐために、より害の小さい方法をとったのが、オランダのドラッグ合法の目的だったのである。

 現在日本では、大麻などの合法化によって、より大きな害を効果的に減らすことができる、などという対象が存在するわけではない。かつては、犯罪組織がドラッグを扱っているのが普通だったから、合法化することによって犯罪組織の資金源を絶つという目的もありえたが、今は暴力団への取り締まりが徹底していて、暴力団が主体となって、ドラッグが拡散しているわけではなく、むしろ、「普通」のひとたちのビジネスと興味によって拡散していることがめだつ。したがって、身体的害の小さなドラッグを合法化することの社会的メリットは存在しないのである。害は小さいといっても、害であることに間違いはない。むしろ、若者がドラッグに近づかないように、可能な限りの方法を実行すべきである。

 

 

 

オペラの魅力は重唱と場面

 オペラといえば、まずは有名なアリアが思い浮かぶ。そして、アリアから全曲に入っていく人が多いに違いない。私の場合、オペラに接した最初は、NHKが招いたイタリアオペラのテレビ放映だったので、最初から全曲を見て聴いた。もちろん、最初に注目するのは、有名なアリアだったが、それでも、魅力的な場面には惹かれた。そして、オペラは、「歌劇」なのだということを実感させてくれるのが、やはりドラマが展開していく場面であり、そうしたところは、複数の歌手が絡み合いながら歌とドラマが展開していく。そして、オペラの魅力的な音楽が、そうした重唱にこそある。そこで、私がもっとも魅力的に感じるオペラの「場面」を紹介してみたい。

 カルメン
 まずはオペラの王ともいうべき「カルメン」(ビゼー作曲)だが、「カルメン」は、そうした場面、複数の歌い手が歌う部分が非常に多く、むしろ、単独のアリアはほとんどない。ハバネラや闘牛士の歌は合唱が入るし、セギディリギアや花の歌はカルメンとホセの二重唱のなかにある。完全に単独で歌われるのは、ミカエラの3幕のアリアくらいだ。
 カルメンは、伍長だったホセが、密輸団のカルメンに恋をして、最終的にカルメンを殺害してしまうという話だ。喧嘩の首謀として罰せられることになるカルメンを護送中に、カルメンに説得されてカルメンを逃がしてしまい、営倉に容れられていたホセが、釈放されてカルメンのところにやってくる。(その前に闘牛士エスカミリオの歌や、密輸団の五重唱があり、ホセを誘い込めという提案がカルメンになされている。)カルメンはご機嫌でホセのために踊るのだが、帰宅のラッパがなるので、帰ろうとするホセをカルメンが激しく非難する。そこで、歌われるのが、オペラ上最も情熱的な愛の歌である「花の歌」だ。しかし、カルメンが納得しないまま、ホセが帰ろうとすると、そこにホセの上官がやってきて、ホセを叱責して、早く帰れというが、ホセが拒否して、結局密輸団に入ることになる。当初はホセとカルメンの二重唱だが、やがて上官や密輸団、そして合唱が入ってくる、「カルメン」のなかでも、最も盛り上がる場面である。
 私は、「カルメン」に関しては、カルロス・クライバーが断然すばらしいと思う。全曲がyoutubeにあるので、ぜひ視聴してほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=j6rpw8uRGOc
 上記の場面は、1時間8分あたりからになる。

 椿姫
 ベルディの「椿姫」は、彼のオペラの題材としてはめずらしく、古い時代ではなく、当時の現代の、しかも実話の小説を扱っている。オペラとしては、それは珍しいことだった。高級娼婦であるヴィオレッタと田舎紳士であるアルフレードが、パリ校外で生活を始める。そこにアルフレードの父ジェルモンが、ヴィオレッタに、アルフレードの妹が結婚するのだが、兄が娼婦と生活していると、結婚が壊れてしまうので、別れてくれと迫る場面である。生活費を出しているのはヴィオレッタだったのだが、ジェルモンはアルフレードが出していると誤解しており、そうした誤解を解く場面もあるが、とにかく、抵抗するヴィオレッタも、結局折れて、別れることを約束する場面である。
 このヴィオレッタとジェルモンの二重唱は、傑作オペラの「椿姫」のなかでも、とりわけ音楽的に優れた部分と、多くの人に認められている。
 多数の映像がyoutubeにもあるが、私が最もすばらしいと思うのは、ショルティ指揮、ゲオルギューが歌うイギリス・ロイヤルオペラのライブ映像だ。これには、少々思い出があり、脱線するが、私が大学につとめていたとき、学生のヨーロッパ福祉研修につきそったことがある。イギリス訪問時に、夕方自由時間があったので、ロイヤルオペラにいったのだが、当日雨にもかかわらず、切符売り場から外にかけて、長い行列ができているのだ。ほとんどないらしい当日券と、キャンセル待ちをしているらしい。行列の長さから、とうていはいれないと諦めて帰ったのだが、そのときの公演が、このショルティ指揮の椿姫だったことが、あとでわかった。幸いにもDVDがでたので、購入し、何度も視聴した。指揮、歌手すべてがすばらしい。アルフレードが弱いというのが、ほぼ定説になっているが、私はそうは思わない。弱い歌手をショルティが使うはずがないのだ。新しいプロダクションのプレミエ公演だったのだから。まだ30前だったゲオルギューは、歌だけではなく、視覚的にも満足させてくれる。
https://www.youtube.com/watch?v=u3pP-BwxMsI
 40分あたりから、この二重唱が始まる。
 日本語字幕がほしい人は、佐藤しのぶが歌う映像がある。このアルフレードは、アラーニャである。
https://www.youtube.com/watch?v=HmuLir2N-gE

 コジ・ファン・トゥッテ
 モーツァルトは、どのような場面でも、それにふさわしい音楽をつけることができた人だから、オペラのドラマが進行する、印象的な場面が多数があるが、私がとりわけ魅力を感じるのは、「コジ・ファン・トゥッテ」のほぼ最終場面で、フィオルディリージが落ちるところだ。
 「コジ・ファン・トゥッテ」というオペラは、初演時政治的事情で、わずかな上演で打ち切られ、その後、ほとんど上演されないまま戦後に到ったようだ。そして、傑作と広範に認められるようになったのは、1970年くらいからではないだろうか。それまでは、ベームの孤軍奮闘だったような気もする。認められなかった理由は、女性蔑視だからということだ。フェランドとグリエルモが自分たちの恋人を礼賛しているのを、哲学者のアルフォンソが女の恋心などあてにならないと揶揄し、怒った二人と賭をする。2人が違う恋人に迫って、24時間以内に愛を勝ち取れるかというのだ。それで、最初はふざけていた二人だが、だんだん真剣になって、最終的に、フィオルディリージとドラベラが違う人の愛を受け入れてしまうという話だ。最終的には、これはアルフォンソの仕組んだ芝居であることがわかり、大団円になるのだが、男性も女性も、少しずつ微妙に感情の変化がおこり、それをモーツァルトは非常に巧みに音楽で表現している。女性蔑視というよりは、女性が自立する姿が描かれているとも解釈されるようになり、現在では、あらゆるオペラのなかの最高傑作と評価する人も少なくない。
 本来はフィオリディリージとグリエルモ、ドラベラとフェランドのペアだったのだが、まずグリエルモがドラベラを落とし、フェランドはがっくり来てしまう。フィオリディリージはあくまで、グリエルモへの貞節をまもろうとするが、揺れている。それを払拭するために、グリエルモの軍服をきて、戦場にいくことを決意するのだが、そこにフェランドがやってきて、フィオリディリージのもっている刀を自分につきつけて、最後の説得を試み、結局、彼女も受け入れる。それを外でみていたグリエルモが失意のどん底に落とされるというわけだ。そして、アルフォンソが「コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)」というモチーフを歌う。
 このオペラの演出はさまざまな変更があり、一番極端なのは、女性二人が、相手がとりかえて自分たちを口説いていることを知っていて、それを受け入れるというものだろう。ポネルの映画版が最初のようだ。
 また、オペラとして、めずらしいと思うが、主役6人が、ほぼ同等の重みをもっており、そのため、多くの音楽が重唱になっていることだ。アンランブル・オペラといわれることが多い。
 人気のない時代にも積極的にとりあげていたベームには、多数の録音があり、映像もあるが、私は、ムーティの演奏が好きだ。ムーティには3つの映像があり、最初のザルツブルグ音楽祭と、最後のウィーン国立歌劇場(実際の上演は違う劇場のようだ)がよい。いずれもウィーンフィルの演奏だ。youtubeには、後者があるので、そちらを紹介しておく。

 映像は、ムーティのウィーン版だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Egi7fxTEUCQ&t=9640s
 2時間半くらいから二重唱になるが、その前からみたほうがわかりやすい。

 ボリス・ゴドゥノフ
 「ボリス・ゴドゥノフ」は、ロシアオペラの最高傑作といわれてり、ムソルグスキーが作曲し、完成させた唯一のオペラである。そして、他のムソルグスキーの曲と同様、他人が手をいれたバージョンで広まった。「ボリス・ゴドゥノフ」は、リムスキー・コルサコフ版、そして、ショスタコービッチ版で演奏されていたが、最近ではオリジナル版で演奏されることがほとんどになっている。オリジナル版を広めたアバドの功績といえるだろう。
 皇帝となったボリスは、先帝の息子を殺害したという疑いをもたれて苦悩している。僧侶のグリゴーリーが、自分はその王子だったと名乗り、追われるが、ポーランドに逃れ、そこで、貴族の娘マリーナの援助を受けることになり、モスクワに進軍するが敗れてしまう。ボリスも死ぬ。
 私が紹介したい場面は、グリゴーリーが、王子ディミトリーだと名乗って、当初冷たかったマリーナを説得する場面である。
 オリジナル版の復興者であったアバドの映像がないのは残念だが、ゲルギエフが指揮した優れた映像があり、youtubeでみることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=CwBKZkPflKY
 この映像は後半部分のみなので、最初からみてもよいが、30分くらいから、この場面のマリーナが登場する。
 
 フィデリオ
 5つ目に何を選ぶか大分迷ったのだが、劇的なという意味では、やはり、「フィデリオ」かと思って選んだ。「フィデリオ」は、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」や「コジ・ファン・トゥッテ」は、あまりに不道徳だ、本当の夫婦愛を描きたいというので選んだ題材だと言われている。ピッツァロに政敵として逮捕され、地下牢にいれられて、殺されることになっている夫を救うために、男性に変装してフィデリオと名乗っている妻レオノーラが、この牢番に雇われており、死骸を埋める穴掘りを手伝わされている。そして、そこにピッツァロが現われ、いよいよ殺されかかるときに、レオノーラが妻であることを明かしつつ、ピストルをピッツァロにつきつける。そのとき、トランペットが鳴り響き、大臣フェナンドが到着し、夫フロレスタンとレオノーラは救われ、ピッツァロは逮捕される。
 ベートーヴェンは、本質的にオペラ向きの作曲家ではなかったが、なんとかオペラで成功したいと、非常な努力を重ね、フィデリオを何度も改定している。そのために、序曲が4曲も遺されていることは、よく知られている。
 この場面は、さすがに劇的表現に優れていたベートーヴェンらしく、緊迫した状況がよく表現されており、ピストルをつきつけて、トランペットがなる場面の雰囲気の展開は見事だ。
 映像は、ギネス・ジョーンズ、ジェイムズ・キング、ナイトリンガーがでている、全曲の映画バージョンだ。1時間20分くらいから、この場面が始まる。
https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o

 5つのオペラの劇的場面を紹介したが、まだ他にたくさんあると思われる。こうしたドラマティックな場面の音楽を味わうことで、オペラの深い魅力を理解するようになると、楽しみ方もちがってくるのではないだろうか。

再開します

昨年、突然、ブログ機能がおかしくなり、アサヒネットのブログに引っ越していました。こちらがどうやら使える感じになったので、こちらに復活します。当面アサヒネットにも同文を掲載します。この間アサヒネットに投稿したものをまず、準備こちらにも掲載します。