漫画のドラマ化で原作者が自死

 この問題を知ったのは、事件(原作者の自死)の前に、さっきー氏のyoutubeを見たからだった。テレビの裏側を解説するというyoutubeで、なるほどと思うことが多いのだが、このなかで、「セクシー田中さん」というドラマで、原作者と脚本家の争いになっているということから、珍しい揉め方として紹介していた。原作をかなり改変してドラマ化することはよくあることだが、通常は、表立ったトラブルにはならないというのだ。というのは、ふたつのパターンがあって、改変されることを嫌う原作者が、ドラマ化を断るか、改変されるのは、いっても無駄とあきらめて、任せてしまう場合のどちらかがほとんどだという。もちろん、当事者にとっては、どちらかが不満足な展開になるのだが、トラブルにはならないという。今回の場合には、原作者が、原作を改変しないことを条件にしたが、それにもかかわらず改変が行われ、原作者が自分で脚本を書くという事態になったことが、極めて例外的だという解説をしていた。そして、この問題が難しいのは、だれもがよかれと思っていることだ。改変する脚本家やプロデューサーにしても、面白くなくするために改変するのだ、などということは絶対になく、このほうが面白いと考えて、改変する。原作者は原作の形をベストと考えているのは当たり前だ。善意と善意がぶつかり合って、トラブルになると、解決が非常に難しいというのが、さっきー氏の結論だった。
 そして、その後あまり日時がたたない時点で、事件が報道された。その後のネットの情報等を見ると、原作者と脚本家の間で、SNS上でのやりとりがあり、脚本家への批判が強く、また、テレビ局(日テレ)や出版社への批判を強まっている。

 ただ、私は、この漫画もドラマもみていないので、この問題に関しては見解を述べられない。ただ、小説のドラマ化については、このブログでも、「鬼平犯科帳」と「シャーロック・ホームズ」で、原作とドラマの比較検討を大分行ってきた。当然、違うジャンルに移す場合、どうしても表現形式が異なるので、ある程度改変が必要であることは、誰でも認めることだろう。原作者でもそれは受け入れるに違いない。どうしても嫌であれば、ドラマ化等を拒否するに違いない。
 ただ、今回の漫画の実写化の場合には、他のジャンルの場合と異なる要素があるかも知れないと思うのである。
 小説をドラマにする場合、小説は必要なことを書くのに対して、それをドラマにすれば、小説には当然書かれていないことも、表現しなければならない。そういう要素は実にたくさんある。たとえば、食事の場面で、何を食べているかが書かれていても、食器や部屋の様子、服等々まで書かれていることは少ない。しかし、食事をしている以上食器が使われるのは当然だが、その食器のイメージが原作者と脚本家、監督などで異なる場合も出てくる。こうしたことが無数にある。
 更に、小説の展開では不要でも、ドラマではあったほうがよい場面などもたくさんあるだろう。小説の展開とドラマの展開の順番が異なる場合もよくあるし、ドラマでの変更が合理的と思われることも少なくない。
 それぞれのジャンルには、表現様式があるから、そのなかで表現したい内容をとりだすのであって、それ以外の部分は表現しないままだ。そして、ジャンルが違えば、表現方法が異なるから、当然強調点が異なってくる。一番わかりやすいのは、長編小説を映画にするような場合だ。長編小説は朗読すれば、何十時間もかかるだろうが、映画はせいぜい3時間程度におさめなければならない。だから、小説に書かれている場面でも、大部分はカットしてしまう。連続ドラマにしても、同様だろう。小説家が映画化を承諾したときには、そうしたカットを当然のこととして受け入れるだろう。

 ところが、漫画の実写化は、少々違う面があるように感じるのである。映画制作では、原作があり、脚本があるが、それだけでは具体的映像イメージが乏しいので、絵コンテを作成して、それをもとにして、書かれた大道具、小道具、そしてその配置や人物の動きなどを共通認識にして制作していくようだ。つまり、原作(小説)や脚本だけでは、できあがりのイメージがつきにくい、それを示すのが絵コンテだ。
 漫画家の場合、自分が描いている絵をそのまま絵コンテとして使用してもらえば、台詞ははいっているのだから、漫画に極めて忠実で、ほとんど変更のない実写化が可能なはずだ、と思うのではないだろうか。小説家や戯曲家と違って、漫画家は、自分の描きたいことを、最大限漏れなく描きたいという意思をもって人なのだろうと思う。だから、それを実写化する場合にも、それにしたがってほしいし、それが可能だと思っているのではないか。そして、そういう思いは決して不合理ではないし、なるほど可能だと思うのである。おそらく、さっきー氏のいうように、変更仕方なしとしてあきらめる漫画家もいるが、それを拒否して実写化を断る人も少なくないに違いない。それは、自分が創作した内容が、部分的表現ではなく、全体を描ききっているからだ、という思いからだ。

 だが、ドラマ制作者にとっては、だからそうできるとは思えない要素も確実にある。たとえば、漫画で描かれている人物を演じるのにふさわしい俳優がいるかということだ。というより、漫画にぴったりのイメージの俳優を配置することのほうが、稀であるかも知れない。漫画で描く以上、当然個性的なわけだから、似た個性の俳優をさがす難しさは容易に想定できる。また、いたとしても、まったく知名度がなく、主人公にあてるわけにはいかない。それなら、漫画のイメージとは違っても、人気俳優をつかったほうが、ドラマとしては成功する可能性が高い。そうすると、その俳優なら、原作と少々違うストーリーにしたほうがぴったりくる、というようなこともおきてくる。漫画のアニメ化なら、そうした問題はおきないだろうが、実写化とすると避けられない。脚本家は、当然採用されている俳優を考慮しつつ、ストーリーや台詞を書いていくわけだから、そこで、原作と乖離していくことは、十分にありうることだろう。
 その漫画家の想いと、実写化の制約の相剋はなくなることはないかも知れない。ただ、今回の事件では、脚本家が、原作者を非難するような書き込みを行ったことは、批判されてしかるべきだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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