統一教会の反撃について

 メディアが盛んに統一教会問題を取り上げるようになったことに対して、統一教会側からの反撃も顕著になってきた。最も熱心にとりあげているミヤネ屋を初めとして、TBSの膳場貴子氏に対して、抗議文が寄せられたという。
「日テレの次はTBSか 旧統一教会系団体が「膳場貴子」名指しの抗議文提出で大波紋!」
 「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」からの抗議ということだ。
 統一教会被害に対応する団体が進めている、信者の洗脳を解いて、脱会させる運動が、拉致監禁・強制改宗であるという批判だ。そこで、冷静に、この問題を考えてみよう。

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矢内原忠雄と丸山真男22 役重善洋氏の矢内原批判

 役重善洋『近代日本の植民地主義とジェンタイル・シオニズム 内村鑑三・矢内原忠雄・中田重治におけるナショナリズムと世界認識』は、氏の京都大学に提出した博士論文である。一度ざっと読んだだけという段階だが、おそらく、これまでにない視点から、日本の代表的なキリスト教徒と植民地主義の関係について研究した労作である。しかし、私は、あまり共感することができなかった。矢内原忠雄研究をしている立場から、無視することはできないので、読書ノートとして検討しておきたい。
 共感できない単純の理由のひとつが、日本のキリスト教徒3人の植民地主義を検討するということで、他人をとりあげているのに、植民政策の専門家であった矢内原忠雄がもっとも簡単に扱われていることだ。ページ数では、内村93ぺージ、矢内原35ページ、中田56ページとなっている。内村も中田もキリスト教徒として生きた人物であるが、矢内原はキリスト教徒と同時に、植民政策の日本を代表する研究者であった。しかも、他の二人は植民地に関する専門的論文を残したわけではない一方、矢内原には、当然だが、膨大な植民政策に関する著作がある。ならば、そうした多数の論文を検討しつつ、矢内原のキリスト教徒としての活動をあわせて考察すべきだと思うが、実際に、役重氏が扱った矢内原の植民政策論文は、「シオン運動について」と『満洲問題』であり、少しだけ『植民及び植民政策』が参照されている程度だ。これで、矢内原の植民地主義を批判する上で十分とはとうていいえない。

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矢内原忠雄と丸山真男20 丸山の知識人論1

 丸山の論文は、極端に言えば、すべてが日本の知的状況、日本の知識人への批判が土台になっている。彼の専門が思想史であり、思想は、広い意味での知識人の営みが中心だから、ごく自然なことといえる。そして、丸山の問題意識が、戦前の軍国主義に至った経緯と、戦後その反省から出発した知識人の状況への疑問から出ていたことも、当然のことといえる。
 「近代日本の知識人」は、1977年、敗戦から約30年経った時点で書かれたものである。(当初書かれた原稿が、様々な経緯を経て修正を重ねられた事情があるが、ここでは著作集10巻所収の論文をみていく。()内の数字はページ)そして、「戦後、「暗い谷間」を過ごした知識人が、知性の王国への共属意識が呼び醒まされた」(p253)が、30年経過した時点では、「戦争直後に民主主義の知的チャンピョンとして活躍した知識人たちに対して・・・非難と嘲弄を浴びせるのが一種の流行となっている」ことに対して、その非難の不当性を指摘するとともに、知識人たちの弱点をも批判する内容になっている。

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矢内原忠雄と丸山真男19 再出発

 大分間があいてしまったが、矢内原忠雄と丸山真男論を復活する。これまでこのブログでまとまったテーマで書いていたものを、いくつかきちんとした形でまとめていきたいと思っているが、そのひとつとして、矢内原忠雄と丸山真男に関する文章を考えている。
 前回は、「知識人とは何か エドワード・サイードの知識人論」という文章で、2020年12月だったから、ずいぶん時間がたってしまった。
 この18回で書いたように、矢内原忠雄と丸山真男を「知識人」論としてまとめていくつもりだが、その基礎となる議論として、サイードの知識人論を整理してみたわけだ。そして、矢内原と丸山の知識人論を比較してみることになるが、非常に興味深い違いがふたりにはある。

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矢内原忠雄と丸山真男19 矢内原の朝鮮統治政策論

 矢内原忠雄は、東大の植民地講座の教授であったにもかかわらず、朝鮮への学術調査をすることがほとんどできなかった。もちろん、彼の意志ではなく、公的機関が妨害したからである。従って、非常に残念なことに、矢内原の朝鮮植民地政策に関する論文は非常に少ない。だが、「朝鮮統治の方針」(全集1巻の『植民政策の新基調』所収)を読むと、政府が矢内原の朝鮮調査を妨害した理由がよくわかる。逆に、矢内原自身の説明によると、この論文は朝鮮人に感激をもって読まれ、多くの手紙を受け取ったという。これは、現在でも続いている日本による朝鮮統治の性格をめぐる議論でも、きちんと取り上げられるべき論文であると思う。 
 「朝鮮統治の方針」という論文は、1926年4月に、李氏朝鮮王朝の最後の王が、逝去したとき、民衆が葬儀の列に、多数集まって、慟哭したというが、官憲が追い散らしたという事実を最初に書いている。「ここに至って何たる殺風景」と記しているのであるが、そのあとすぐに、李大王が1919年に死去したときに、3.1独立運動が起きて、長期的、かつ暴動に発展するような事態になったことを回想せざるをえないとしている。このことが、本論文を書くきっかけになったものであり、『中央公論』1926年6月号に発表されている。李王の逝去とその後の朝鮮民衆の行動、そしてそれを押さえ込んだ日本の官憲に対しての憂慮から、一気に書かれたものだろう。

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矢内原忠雄と丸山真男18 知識人とは何か エドワード・サイードの知識人論

 矢内原忠雄論をどういう視角で書くか、ずっと模索してきた。私は、キリスト教徒でもないし、また、経済学者でもない。だから、キリスト教徒としての矢内原忠雄から、詳細に学ぼうとは思わない。もちろん、矢内原が、どんな圧力にも屈せず、信念を貫き通すことができたのは、キリスト教の信仰によるのだから、そこを無視することはできない。何かを明らかにするために、戦中リベラルである矢内原忠雄と戦後リベラルの代表的人物である丸山真男を対比することで、見えてくるものがあると考え、「矢内原忠雄と丸山真男」という文章を書いてきた。そのなかで、二人の社会状況、政治状況との関わりに大きな差異があることに気づいた。矢内原は、東大教授に就任以来、単に植民政策の研究者、そしてキリスト教徒として以外、様々な分野に意見を発してきた。矢内原全集では、『時論』というカテゴリーでまとめられた文章が多数含まれている。専門の植民政策の研究も、時の植民地政策の批判的研究である。だから、現実の政府の政策に対する批判が柱となっている。

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矢内原忠雄と丸山真男17 矢内原の奇蹟論

 矢内原忠雄が、極めて優れた社会科学者であり、その学問方法はマルクス主義に近いものだったのに対して、敬虔な、というより、熱烈なキリスト教徒であり、その信仰が、軍国主義的な政策を厳しく批判し、東大教授の地位を追われたにもかかわらず、信念を曲げなかったことを可能にしたことは、広く承認されている。
 しかし、これは一見して、不可解であり、また、不思議なことである。完全な唯物論であるマルクス主義を、学問的な方法論として、かなりの部分採用し、かつ、熱心な宗教家であるということは、他に例を見ないからである。矢内原は、学問的方法と価値に関わることは別だとするが、その並立の在り方は、私には興味がある。矢内原には『キリスト教とマルクス主義』という著書や論文があるが、そこでは、キリスト教徒としての立場にたっている。ひとつの手がかりとして、矢内原が、「奇蹟」をどう考えていたかを考察してみよう。 “矢内原忠雄と丸山真男17 矢内原の奇蹟論” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男16 丸山は分析以上に語らない

 
 丸山真男の文章を読んでいくと、丸山は、現実の日本社会をどうしていったらいいのか、それをどのように考えていたのかが、ほとんど触れていないことがわかる。しかも、それは自覚的であったといえる。「ある自由主義者への手紙」(著作集4 p314)で、以下のように書いている。
 
 「これまで僕は、広い意味での政治学を勉強していながら、当面の政治や社会の問題についての多少ともまとまった考えを殆んど新聞や雑誌に書かなかった。なぜかということはここでは述べないが、ともかく、それには僕なりの理屈があったし、いまでも原則としてはその理屈を間違っていないと思っている。」

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矢内原忠雄と丸山真男15 矢内原の信仰の一側面

 矢内原がいかに苦境にたっても、信念を貫き通すことができたのは、彼の強烈な信仰とそれに基づく使命感のためだったことは、間違いないところだ。「日本精神の懐古的と前進的」という天皇の神性否定の論文を書いたり、「神の国」という講演で、「ひとまずこの国を葬ってください」と述べたのは、キリスト教徒としての信念の発露だった。他方、研究者としての矢内原は、極めてマルクス主義的であり、当時の最も批判意識の強い社会科学者としての立場をとって、実証的な研究を貫いていた。これほど強烈なキリスト教信仰と、マルクス主義的な研究スタイルをあわせもっていた人は、世界にも稀なのではなかろうか。そして、この点には、矢内原自身が触れているが、他人からみれば、なかなか理解しにくいところだ。この点は、今後考察していくことにするが、キリスト教徒ではない私からすると、やりは、矢内原の信仰からくる解釈には、なかなか了解しにくいところがある。そのひとつが、満州旅行中の匪賊に襲われたときのことだ。

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矢内原忠雄と丸山真男14 丸山の抵抗論

 私が取り組んでいるのは、矢内原忠雄論である。いろいろと考えているうちに、矢内原忠雄については、多数の人が多面的に論じているから、多少の新鮮味を出すことが必要だろうと思い、戦後の代表的な知識人と言われた丸山真男と比較して論じてはどうだろうと考えたわけである。もちろん、矢内原忠雄も丸山真男も長いことさまざまな著作を読んできたが、この二人を対比してみると、政治的には比較的近いと見られる知識人でも、かなりの違いがあると感じてきた。結論的にいえば、丸山真男という人物は、「知識人」だったのかという疑問である。矢内原忠雄も丸山真男も研究者として超一流であることは疑いない。しかし、研究者であることの「姿勢」に関しては、ずいぶん違うと感じる。知識人としての姿勢は、100%異なる。

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