統一教会の反撃について

 メディアが盛んに統一教会問題を取り上げるようになったことに対して、統一教会側からの反撃も顕著になってきた。最も熱心にとりあげているミヤネ屋を初めとして、TBSの膳場貴子氏に対して、抗議文が寄せられたという。
「日テレの次はTBSか 旧統一教会系団体が「膳場貴子」名指しの抗議文提出で大波紋!」
 「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」からの抗議ということだ。
 統一教会被害に対応する団体が進めている、信者の洗脳を解いて、脱会させる運動が、拉致監禁・強制改宗であるという批判だ。そこで、冷静に、この問題を考えてみよう。

 統一教会を批判する立場での論点は
・法外な寄付金の事実上の強要
・壺等の法外な値段による販売
・その際の脅迫的な言辞(そうしないとサタンによって地獄に落とされる)
・本人の意向を無視した合同結婚式
等だろう。以前の勝共連合の活動を知っている世代としては、でたらめな街頭募金なども、詐欺といえるだろう。(**救済募金として大々的に街頭で募金活動をしていたが、そうした救済にあてられるのではなく、統一教会に上納していた)
 それに対して、統一教会側からの論点は
・信者を強制的に改宗させ、かつ、そのために、行動の自由を阻害して、閉じこめたりする。それは拉致監禁である。
・合同結婚式は、本人の意思を尊重するようになっている
・霊感商法はやっていない
等。
 合同結婚式は、本人の意思だけの問題ではなく、厳密な恋愛禁止など、たとえ、本人の意思確認をしているとしても、個人の自由を束縛していることは間違いない。霊感商法や献金もかつてほどではないにしても、現在でも行われていることは、実際に確認している。そして、被害を訴える人も多数存在している。だからこれらの点についての統一教会の反論は、説得力がない。
 
 問題は、洗脳を解くような行為が、拉致監禁、強制改宗、そして、信教の自由の侵害なのだろうか、という点だ。
 実態がどうなのかは、個々の事例で相当異なると思うが、かつて、確かに統一教会の洗脳も、また、洗脳を解こうとする働きかけも、強制的な力に頼った部分があったのだろうが、現在では、すべてではないにせよ、双方がより洗練されているに違いない。統一教会の「洗脳」も、極めてマニュアル化した、順序だてたものになっているようで、洗脳が完成するまでは、露骨な脅しなどもあまり用いないに違いない。しかし、途中で疑問を感じても、「勢い」を感じさせる人的配置をもって、取り込んでいくという方式は、健在のようだ。
 それに対して、信者を脱会させようという家族や友人が、あせって、逆に強圧的なやり方をとっていた例も多々あったようだ。しかし、脱会を進め、被害者救済を援助しているひとたちは、こうしたやり方が最悪の手法であって、もっと信頼関係を取り戻して、長い時間をかけて洗脳を解いていく必要があると、メディアで語っている。
 
 こうした動き、特に統一教会の信者になっていったひとたちをみると、いかにも古いと思われているマルクスの宗教規定が思い出される。かなり誤解されているマルクスの主張を簡単にみておこう。「ヘーゲル法哲学批判序説」という短い文章(しかも極めて若い20代に書いた文章だ)で、宗教について書いている。要点は
・フォイエルバッハの「神が人間をつくったのではなく、人間が神をつくったのだ」という言葉が、宗教批判の本質である。
・宗教は、現実社会の不幸の反映であって、現実の不幸が解決されない状況での、慰めである。
・真の解決は、宗教によって現実の不幸を忘れることではなく、現実社会の問題(不幸)を解決することである。
 これが骨子だ。2番目の叙述に加えて、「宗教は民衆の阿片である」という有名な言葉が続いている。そして、この言葉をめぐって、たくさんの誤解が生じた。
 最大の誤解は、社会主義者のものだったと思う。マルクスは、ここで宗教を否定し、社会主義国家では、宗教は認められない、としたことだ。私は、社会主義革命の失敗の最大の理由のひとつが、宗教勢力を弾圧したことだったと思っている。そして、それは、もちろん、その社会の宗教勢力の政治的立場や活動との関連で評価すべきだが、やはり、社会主義と宗教は共存できないという誤解が、ここから生じた面が否定できない。しかし、よく読めば、マルクスが宗教を否定しているのではないことは、明らかだ。現実の不幸が原因で、宗教によって、非現実的に救いを求めているのだということであって、宗教を弾圧するのではなく、現実の不幸を解決することが重要だといっているに過ぎない。
 
 統一教会の手法は、何か悩みをもっている人に近づくという。そして、その悩みを一緒に考えるような姿勢で、取り込んでいく。つまり、統一教会は、宗教の本質を理解し、それを悪用しているわけだ。だから、統一教会が、宗教の本質を理解していること、そして、それを巧みに利用(悪用)していることを、批判者は十分に把握しておく必要がある。統一教会の信者が増えていくということは、信者になっていく人の問題、悩みを、統一教会以外のひとたちが、十分に対応できていなかったことの結果でもある。
 
 従って、洗脳を解くことは、信者が抱えていた問題や悩みを、統一教会が解決してあげたと感じさせた以上に、解決できる道を示さなければならない。そして、統一教会の示した解決法が、本当に彼らの問題を解決できたのか、生活破綻が起こって、かえって別の問題が付加されてしまったのか、じっくりと一緒に考え、そして、本当に必要な解決の方向を模索していくなかで、洗脳を解いていくしかないに違いない。
 もちろん、そうした取り組みは、拉致でもないし、信教の自由を侵害しているのでもない。むしろ、それこそ信教の自由の保障である。
 
 もうひとつの観点をみておこう。宗教かカルトかという議論があるが、その以前、宗教の本質を守っているか、逸脱しているかという問題である。矢内原忠雄は、「真正の宗教と邪宗」として論じていた。ただし、このふたつは厳密に区別されるものではなく、また、真正の宗教が堕落して邪宗になってしまうことも、歴史的に繰りかえされてきたという。
 では、真正の宗教とは何か。「神様と個人との関係を正し、之によって個人を救ふものです。」と極めて単純に規定しているが、次第に堕落してしまう筋道として、「宗教によって個人的に慰安を得た、ご利益があった、誰先生のおかげだ、感謝の手紙をあげる、献金贈り物をする、・・・・そこに宗教家もしくは宗団との間に個人的の情緒情実の関係ができます。・・・・信徒が増え教勢が盛になります。そこでいつしか宗教はもはや生命ではなく、固定した利益となり、正義ではなく社会的勢力となり、宗教の堕落となるのであります。」と書いて、それを救うのは、公的精神であるという。(「宗教は個人的か社会的か」『民族と平和』所収全集18巻、237)
 矢内原の規定からみれば、統一教会は、典型的な邪宗である。フランスのカルト規定に完全に当てはまることはいうまでもない。矢内原の規定には、まったく無理がないといえる。
 従って、公的精神の実現として、統一教会からの脱会を促すことは、決して信教の自由を冒すものではないし、社会的に必要なことといえる。
 メディアが統一教会の問題点を追求することは、公的の精神のために必要なことである。もちろん、公正のために、統一教会の主張も紹介すべきであるし、ゲストの一人として呼ぶことも否定しない。そうすることによって、不当な統一教会からのクレームに対処することができる。統一教会のゲストと、紀藤氏のような人物と、じかに対決すれば、真実がより国民の前に明らかになるに違いない。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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