卒業生インタビュー(鈴木静さん)1

卒業生第3弾は、現在幼稚園の副園長さんとして大活躍の鈴木静さんです。第2弾の西井さん(仮名)と同期で、この年度から、卒業論文をファイル化して、全員が持ち合うという方法をとるようになりました。鈴木さんは、在学中から外国にいって、将来の幼稚園教育に携わる準備を熱心にやっていました。当日は坂戸のあずま幼稚園に、私の妻と一緒に訪れて、幼稚園を案内してもらったあと、インタビューに応じていただきました。

文教大学入学の事情 幼稚園を継ぐためなのに?

お 文教大学に入った目的とか経過などはどうでしょう。
鈴 実は文教大学しか、オープンキャンパスに行ってないんです。幼稚園の先生になるという目的で大学選びをしていたんですよね。家庭科専修、人間科学部でもいいよねって終わったんですけど、当時は幼稚園の免許がとれなくて、園長の母に相談したら「幼稚園の先生の免許はとるな」ときっぱり言われたんです。「えっ!でも、幼稚園の先生になりたい」と言ったら、「教員免許の一種さえもっていれば、園長になれるから、もっと別のものを何か、他の先生がもっていないものを身につけていらっしゃい」というので、人間科学部の人間教育コースの名前に惹かれたのと、生涯学習とか幅広く勉強できる、社会の免許がとれるというので、公募推薦で入りました。
お それまでは幼稚園免許とらなければと思っていた。
鈴 はい、それで東京家政とか考えていたんですけど、とる必要ないと言われて、もっといろいろ勉強できるということなら、文教大学がいいということで決めました。
お 幼稚園を継ぐというつもりなのに、何故文教に来たのかなと前から思っていたんだけど、そういう事情だったんですね。今は教育学部心理教育で、免許とれるんだけど。
鈴 あったら、わたしが自分で選んでエントリーしていたんだと思いますけど、「幼稚園の免許よりも、小学校の免許をとったほうがいいんじゃないか」と、逆に言われたかも知れない。

大学時代にアートベースの教育と英語に目覚める

お 大学時代は、どんな勉強をしていたんですか。
鈴 東大の佐藤学先生の本ばかり読んでいました。教師の矯正についての内容が、新しい形のものが多かったので。それから、園長が、アートをベースにしたイタリアの教授法であるレッジョ・エミリアの教授法を講演できいて、自分がやりたかった保育がそこにあったと、彼女自身が爆発させたところだったので、私も勉強しました。東大の秋田喜代美の研究会に園長が加入したんで、私も出させてもらったり、オクスフォードの先生と講演に行かせていただいたりとか。それをやるなかで、園長に言われた、他の先生がもっていない何かということで、幼稚園での英語教育についてやろうと思って卒業研究に取りくみました。
お そのころは、この幼稚園で英語をやっていた?
鈴 やってました。だけど、ただ踊って歌っていただけで、「やってますアピール」だったので、私も園長も納得していなかったんです。2年生で文教大学のモナシュ大学の英語研修にいって、ホームステイをして、英語の面白さを知ったんです。最初「英語なんて、しゃべれなくていいじゃない、日本人なんだし」と思っていたんですが、向こうに行ったときに、そこでしゃべったとたんに、ホストブラザーと仲良くなって、すると彼の彼女とも仲よくなって、どんどん友達が増えていくんです。ひとつの言葉を話せると、これだけ友人ができるんだ、とそれを同じことを子どもたちにもさせたいと。大学4年生のときに、この幼稚園に就職しろと言われて、ブリティッシュカウンセルの協力で、イギリスの幼稚園との交流校を見つけたんです。
お 卒論でそのようなことを書いてましたね。

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鈴 卒論はほんとうにベースのところでした。教材研究のところからやっていたし、ロンドンの幼稚園に行って、保育をみて、その概略をまとめた感じでした。でも、あれがあったから、今の実践につながっていると思います。ハロウィンまだやっているし、英語使ったウォークラリアとか、今はそれが英語劇に変わって、年中年長が、超大作をやるんです。今年は年長がシンデレラ、年中が「長靴をはいた猫」を英語でやるんですけど。
お 台本は?
鈴 英語の先生にお願いして書いていただいて。
お 子ども用に?
鈴 はい。ナレーションも子どもたちが全部やるので、家にもちかえって、夏休みや冬休みに練習してきて、劇の構成を子どもたちと話し合って、2月に発表します。
鈴 こういう活動もイギリスと報告しあってきました。
お 実際に行ったり来たりは?
鈴 先生同士はあります。子どもは卒園児を2年前につれていって、日本の小学校というプレゼンさせたんです。

幼稚園の英語教育の改革

お 英語は幼稚園でやっていたけど、園長とその後継者がこれじゃだめだ、という教育が何故行われていたんですか。
鈴 私たちが、個人契約で教師を頼むのは、法的に難しかったので、委託の会社に派遣を依頼していたのです。でもそういう先生って、ほぼ観光でやってきて、1年やって、お金を稼ぐという意識なので、積み重ねの保育とか、教育とか考えて教えないんですよ。マニュアルありきですから。子どもとの関わりとか見ると、子どもが何話してもふんとかで終わってしまうし、課外をみても、お菓子食べていて、子どもに話しかけもしないし、こんなんでいいだろうかって。
お それでどう変えようと思った?
鈴 話せる英語に変えたい。一番気に入らなかったのが、what is it ?って聞くと、 apple って答えて、それで終わってしまうんですよ。でも日本語もそうですけど、正しい日本語ってあるじゃないですか。It’s an apple という形で教えてもらいたい。そういうこだわりで、4年ほど前、シェーンさんという人がみつかって、オーダーメイドの英語でお願いしています。マネージャーさんにも何度もきてもらって、教育プログラムを考えていただいて、今の先生は長く続けています。
お 一人?
す 今は一人です。去年は、正課一人の課外一人でした。ことしは両方をやっています。
お 園児は全員やるの、それとも選択?
す 正課に関しては全員で、年少が6月から、それ以外は4月から、週1で20分から40分。年長は、月1回です。
お 卒業後の状況は
す 卒業式の日に卒業証書もらったんですけど、学士じゃなくて、修士ほしいなって思って。(笑)でも幼稚園いかなきゃと思って、いろいろ勉強しながら、ずっと幼稚園にいる形です。
お イギリスには何度もいっているよね。
す かなりですね。年間4、5回で、今年は4回くらい。卒業3年後に理事長の祖父が亡くなりまして、幼稚園も施設がかわってきて、交際交流もベースができてきたので、その翌年に相続が落ち着いたときに、私が向こうに行って、向こうの先生がこっちに来て、何年も続けています。また、幼稚園が、エコロジーカフェという環境保護団体に所属していて、研究活動をしているんですが、その一環として、イギリスと交流の活動を東大の小柴ホールで発表させていただきました。幼稚園って、行事行事で一年がすごく速いんですよ。そういうなかで、何してきたんだろうと、あまり記憶がないんですね。忙しくて。震災のときだったか、すべてがストップしたときに、これでいいんだろうとと思うようになって、もう一度振り返って、精査して記録に残す、分析する作業の時間がほしいと思っていました。それでイギリスのイースターグリア大学に挑戦したんです。とてつもなく英語が苦手なのに。ある程度のスコアのぎりぎりとって、院ではなく学部であればということで、オファーをいただいて、行くばかりのときに、うちの職員がやめてしまって、私が行ってしまったら、園長ひとりで幼稚園は回せないということで、諦めるしかなかったんです。
お それで留学をやめたのか!知らなかった。

卒業生インタビュー(鈴木静さん)2

イギリスで日本の幼稚園教育の講演 学問に目覚める

す そうなんです。でも活動だけはしていて、イギリスのジャパンソサイティから、日本の幼児教育についての講演をイギリスでしてほしいと言われてしてきました。ロンドンにあるジェントルマンズクラブのひとつのオリエンタルクラブというところで、日本の幼稚園や学校制度とか、認定子ども園の制度がスタートしていて、震災の年に、第一号でとったばかりだったので、エデゥケアについて、講演しました。イギリスでは幼稚園という概念がないんです。チャイルドケアというのはあるけど、キンダーガーデンはない。
お イギリスでは幼児学校だからね
す そうなんですよ。だから、ちゃんとケアはあっても、ナーサリはあっても、日本のような幼稚園の感覚はない。またそこで、論文のような文章を書いて、翻訳はジャパンソサイティでやってもらったんですけど、英語でスピーチをしたので、勉強したいという気持ちがますます強くなって、埼玉大学なら、車ででも行ける今年から修士の一年生です。いましごかれています。週3でいってます。
お テーマは
す 修論に関しては、「子ども暮らし」をメインにしています。幼稚園の保育って何かというと、子どもたちの生活なんです。普通、子どもに教える、自分たちは何かしなくてはいけないと思うんですけど、逆に私たちは、子どもたちの生活にはいっている一人なんだということを自覚する。「子ども暮らし」を知らないと、子どもと一緒に学ぶことはできないだろうということですね。保育指針などに書かれているんですけど、ぼんやりなんですよね。子どもによりそうってどういうことなんだ、ということがとても大切ですが、うちの先生たちは、毎日保育日誌を書いているので、それを分析することろから読み解いていく。保育者の「ねばならない」ではなく、それをどう打ち破るかということです。

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お 従来の保育理論との関連は。双方があるの、ねばならない派の理論だけがあるの
す ねばならない派の理論はないです。
お 感覚的にということ?
す 理論というか、
お 研究だと、先行研究とかを調べるけど。
す 先行研究を調べなさいとはいわれているんですけど、こういう保育の研究って、なかなかみつけづらくて、ランゲフェルトとかをみています。コルチャックとか。
でも、修論に関しての授業が一度もないんです。先生お忙しくて、付属の校長なんですよ。ずっと休講で、夏休みに時間をとってやろうということになっています。
お 子ども暮らしといえば、子どもをビデオに撮って研究するとかは。

牛乳プロジェクト

鈴 イギリスやフィンランドの子どもも撮って、比較するというのは、研究方法としてだしてはいます。プロジェクト活動という、うちの独自の教育法があるんですけど、子どもに寄り添う活動を考えていこうと思っていたので、研究の柱のひとつになります。私も関わっていた一昨年「牛乳プロジェクト」という大きなプロジェクトがあったんです。
お どういう活動?
鈴 不可思議なタイトルなんですけど、「なんで牛乳は白いんだろう」という疑問を子どもたちに、ぽんと投げかけて、2年間にわたって研究していく活動をしたんです。
お 幼稚園の子どもが研究するの?
鈴 はい。年少さんのときに、近くの聾学校にいって、牛さんと触れ合って、乳しぼりをしたんですが、「でてくる乳は白いね、その白い乳を牛さんは、飲んでいるね」というところから始まって、農業大学校が近くにあるので、牛さんのお世話をしている先生や学生さんから、牛はどうやって育つのかとか、どうやって食べるのかを教えてもらったり。でもそれで牛乳が白い理由が分かるわけでもないし、どうしようという先生たちの葛藤がそ生まれて、そのなかで、どうしようとなって、じゃ、白い飲み物他にないか、牛乳以外にないか探そう。そうすると、カルピスとか、飲むヨーグルトとか、いろいろでてきて、水となにかが混ざったものだよね、と子どもたちが気づいていく。それじゃ、水と何かが混ざったものがものかも知れない、それなら子どもたちは、作れるっていうから、じゃ、つくってみようということになる。白い牛乳をつくるために、水に何をいれたらいいだろうという実験をすることになり、塩、白い絵の具、牛乳、ヨーグルト、なんかをいろいろ実際に混ぜてみて、色を比較してみたけど、結局できなくて、どうしようということになった。とにかく、水と何かをまぜるんなら、牛乳を分離させたらどうなるのかってなって、分離実験が始まる。それも分離の仕方もわからないから、東大で、研究している虫博士が知り合いでいたんで、虫博士に聞いてみようということで、メール送ったら、レモンとかオスをいれて、あっためるといいかも知れないという。それをみんなでやって、一回失敗したんですけど、二回目には、分離させて白いものと半透明のものがでてきた。じゃこの白い固形の何かが白い素だね、というところにもっていって、子どもたちに食べてもらったんです。白いこれ何だったといったら、バターかチーズかも知れないという話で終わったんですけど。
お テーマを決めたときに、それを決めたひとたちはわかっていたの?
鈴 いないです。そこが、みそだったんです。わたしがテーマをだしたんですけど、わたしも知らないし、その知らないことが大事だったんですね。知っていると、どこかで、先生は教えてしまって、それにあわせてしまうんです。でも、知らないからこそ、子どもたちは、分離実験までいったんですよ。年中さんです。4、5歳で、そこまでいくのは、かなり驚異的だったです。なんでもかんでも、答えだしたがる先生はどうなのという問いかけをしたんです。最後に、虫博士は、答えがでなくていいんだよ、分からないことがいっぱいあるから、僕らみたいな研究者がいるんだよ、という言葉を、子どもたちに残してくれたんですね。これが牛乳プロジェクトです。これが修論の、子どもに寄り添うとか、子ども暮らしにはいっていくシンボル的な活動になります。
お でも、さっき幼稚園をまわったときに、けっこう教えているよね。そうでもないの。
鈴 結果的にそう見えるんですけど、実際には、うちの教育方針のなかで、先生は答えをいってはいけないんですよ。

子どもたちが自分たちで学ぶ生活

お たとえば、字を書くとか。教えることはたくさんあるでしょう?
鈴 ベースに関してはそうなんですけど。
お その区分、構造はどうなっているのかな?
鈴 書き方については、年長さんからは教えていますけど、実際にその前に子どもたちは、字を書けるようになっているんですね。調べるときに、「書いて」と言うと、子どもたちの経験のなかで文字に触れているんですよ。シンボルとしてできているんです。だから読むことはできる。先生がやるのは、この文章を書くときに、こうやって書くんだよといって、見せるのではなく、あいうえおの五十音順の一覧をラミネーかけたカードをいくつか置いて、あと書いてというだけでやっているので、ワークシートのようなもので教えることはやっていないです。
お なるほど。
鈴 5歳からやるのは、書き順なんです。小学校にあがるときに、書き順を知っていることが必要なので。
お 家で教えるとかは。
鈴 それは、そこの家庭までみていないんですけど、絵本を読んだりとか、本との触れ合いとか、ちょっとしたサポートで、子どもたちが拾っていくという形はあると思います。生活のルールはこうしなさいと教えますけど、活動に関しては、答えをだしたり、こうだからというのは、ベースとしてないです。
お 知識としては?
鈴 臨機応変にはなるでしょうけど、ベースないです。何かをしているときに、先生がここは必要だと考えたら、子どもたちにその答えを導き出すために、話し合いをしてもらいます。こども同士で、子ども会議という形なんですけど。
お 会議らしくなるの?
鈴 はい。この前ビデオを撮って発表させていただいたんですけど、一対一、二人一組、三人一組になって、話し合いをしてもらうというのも、年中さんからやれるようになっています。年少は2学期くらいからできるようになるので、徐々にやっているんですけど、その答えを、導きだすように、先生がストーリーづくりとか、環境づくりというようなベース作りをして、先生がこうとダイレクトに言うのではなく、そこにもっていくために、先生がまわりから、外堀から埋めていくという方式でやっています。たまに、それが思ったようにいかないこともあります、でも、いかないから、先生が「こっち」というのではなく、いかなかったことを逆に楽しめるように、先生たちには、園長が指導しているので、別のことで盛り上がるように、こっちでいこうという感じでやっています。
お 先生もけっこう勉強が必要だよね。
鈴 はい。園内研究と、日々の職員会議です。
お 頻度と時間は?
鈴 園内研修は、園長の忙しさにもよるんですけど、年間で4、5回くらいで、職員会議は週1です。そのときには、各クラスの気になる子の状況とか、現在のクラスの状況を報告しあって、お互いに分析しあって討論をやっているので、それも研修みたいなものです。この間は、一年目の先生のだめなところを書きなさいって言って、一年目の先生には、なりたい理想の先生を書きなさいって言って、メモ書き書かせたんです。一年目これがだめ、これがだめ、読み上げて、それを分析するという、過酷なことをやっていました。
お 当人は?
鈴 何人かは、泣いていましたけど、なあなあでいくよりは、ここはできていないから、こうしてほしいという積極的なアドバイスとか、自分ならどうするというような分析もあるので、恨みつらみがあったりはしないですね。逆にそこからリセットされていく。ハードみたいですけど、そのあとすっきり、脱落者もなく、一般的には、そういうことをやると脱落する先生も多いかも知れないんですけど、うちでは、何か逆に明るくやっています。園長がうまくコントロールしてまわしたなって感じですけど。

卒業生インタビュー(鈴木静さん)3

イギリスの子どもたちと共作の絵本

鈴 手作りの図鑑や創作物語なども作っているんです。てんとう虫の図鑑なんですけど、年長が書いたものです。最初は子どもたちが教室の日溜まりでてんとう虫を発見したんです。動かないので弱っていると勘違いして花壇に放してあげたんですが、そのあとで図鑑でどんなてんとう虫なのかを調べていくなかで、住んでいる所とか、食べ物とか色や模様を調べていって、ストーリーを作って、それをベースにして図鑑にまでまとめたものです。 発芽実験などもありました。3人がやっていた調べがクラス全員に波及した結果なんです。おいしいマメがとれたから、次の代に渡したい。豆のしわしわは何故できるんだろうか。イギリスの先生に相談したら、発芽実験に発展したりとか。いろいろなものをやっている特殊な幼稚園になります。
お イギリスの子どもたちとの共作の絵本なんかもあったよね。

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鈴 はい、第一作は「シュクルの冒険」という話になっているんですが、最初に1ページ書いたら、次の学校にまわすというお話リレーなんです。しかも日本語と英語です。幼稚園に住んでいるうさぎのしゅくるが鬼ごっこしたり、畑でいちごを食べたりして、初めてのことを経験していく話です。

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2番目は「ジューンと月竜」という題なんですが、けがして動けなくなっていた月竜をジューンやその友達が助ける話です。これも英語と日本語で書かれていますが、絵も子どもたちが描いたものです。
ふ 何歳の子どもたちの作ですか。
鈴 5、6歳の年長さんです。

ふ 子どもがいきていますよね。
鈴 園長は自分たちでまわせるクラスにしたいという理想をもってやっています。
ふ ただ、あまりに素晴らしい活動をしているので、小学校にはいったときこまりません?
鈴 それは、ずっといろいろな先生から言われていて、行きたくないということになっちゃう子どももいるし、「みんな、なぜできないの」という感じの子どももいる。アンケートでもわかっています。ただ、幼稚園としては、できることをやって、上に持ち上げる。
ふ 副園長先生がきらきら輝いていらっしゃるから。
鈴 日々畑仕事です。最近農家なんじゃないかと思うくらい農作業していて、今日もキュウリとって、幼稚園いってないんです。それで一日終わってしまうんじゃないか。副園長の肩書だけのような気がしますけど。
ふ プレ幼稚園もやっているんですね。
鈴 となりのキッズプレパークということでやっていて、かなりの人気がでてきて、ぱんぱんなんです。20人定員のところが36人。日毎に人数が違うんですけど。

将来は未来の幼稚園教師の教育を

お 大学院にいって、修士をとる。そのあと何か計画があるんですか。
鈴 そのあとは、また来年受験生をする予定です。修士論文書いて、その後の2月に連合大学院の試験があります。そこに行くことを意図して、埼大に入ったので、連合にいって、もう少し深めていきたい。現場の先生としてのレポートだけではなく、アカデミックな論文にしたいとういことで、博士に進みたいです。
お 普通の試験があるの?
鈴 はい。厳しいらしいです。口述と、修論の審査と、英語の翻訳があります。
お 修論の審査があるなら、試験は大分遅いということだよね。
鈴 はい、2月か3月ですね。埼大の指導教官が、連合の先生にもなっているので。それから、すこし気になっている先生がいるんです。太田先生も教科書に載せていた長野大学の付属の教科書のない学校でしたっけ。蛇の命という内容を教科書に載せていたと思うんてすけど。
お 記憶にないね。(笑)
鈴 あたしも記憶になくて。
お 伊那小のこと?
鈴 伊那小なんですかね。4ひきの蛇をかっている。
お 違う本じゃないの。それはないと思うよ。
鈴 サドベリバレイと一緒にはいっていた本なんですけど。大学の庄司先生に「牛乳プロジェクト」の話をしたら、感動してくださって、翌週、これ読んでといって、絶版になっている貴重な本を貸してくださったんです。蛇の命がすごくいいから読んでといわれて、読見ました。
お 博士をとったらその後はどうですか。
鈴 そのころは園長になれと言われて、なると思うのですけど、ここ最近の新しくはいってくる学生たちの様子をみていると、うーんというところがあって。

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お ウーンというのをもっと具体的に。
鈴 幼稚園の先生とか、教育者になる目的観があまり、見えてこない先生が多いと感じていて、先日、とある大学で講演を頼まれていくときに、学生たちが、今度くる幼稚園の園長先生に聞いてみたいことを書きなさい、と言われて、メモ用紙やポストイットになぐり書きで書いたもののコピーをもってきたんです。その学部で授業をうけている子はこれから実習をする子もいれば、幼稚園の先生になる子が集まっている3年生なんですね。だからすぐじゃないですか。その子たちの書いている内容が、「実習ノートが怖い」「園長先生の給与はいくらですか」「男性教員の待遇はどうですか」「手遊びを教えてほしい」とか、とてつもない内容が書いてあって、それを見たときに、何よりも、メモ用紙をつかっていることが理解できなくって。授業を受ける姿勢ができていない子たちが、幼稚園の先生や学校の先生になったときに、教わる子たちが、どうやって、成長するんだろう、と思って、すごいものがあるなあ、ということを感じてしまった。
お それで、入ってきた先生を鍛えようという意識ですか?
鈴 うちの幼稚園に入ってくる人だけではなく、これからいろいろなところに行くであろう学生と少し向き合ってみたいという気きがしてい増す。幼稚園がベースなんですけど、博士をとって、学生を多少指導できる立場になりたい。これまでは研究だけをという感じだったんですけど、指導する立場にたてるものがほしい、この子たちを指導できなかったら、あの子たちを指導する先生がいなくなってしまう、それがすごく怖いというところがあります。結局2足の草鞋を履くのかと言われたんですけど、いいんじゃないの、と延長が言ってくれたので、挑戦を。どうなるかわかりませんが。今のころは目標はそこまで。
ふ 学生さんを育てたいということはわかるんですけど、こうあらねばならない、という枠つけがあるんじゃないか。例えば、紙きれに質問書いたものを見たことがないということだったんですけど、こうあらねばならなぬ、ということを意識しているのかな。人をみるとき。そこはどうでしょう。
鈴 社会人としての礼儀とか、最低限のルールを守れるということです。紙に関していうと、授業を受ける態勢からまずかったような気がしたんです。先生になる以前の問題で、学ぶために大学に入ったのに、学ぶ目的、姿勢がしっかりしていないな、それすらないのに教員免許でちゃうのか、どうなるんだ。先生の自覚以前の、考えない状態できたので、ショックをうけたんです。それで、学生のなかにはいってみたいなと。
ふ 私は短大の底辺校で教えていたんですけど、そういうのは普通なんですよね。でも、そういう子に接していくと、豊かな子たちが多いので、礼儀とか、社会人として最低限とかにとらわれる必要があるのかな、もっと違うんでゃないかと思うんですけど。
ふたつめですが、鈴木さんが幼稚園に関わって、お母さまのを継ぐということですけど、幼稚園が鈴木さんにとって何なのか、いい方を変えると、お母さまの影響が大きいと感じるんです。だとすると、鈴木さん自身の教育観、どういう幼稚園にしたいとかを知りたいと思いました。あいうえおの表を渡して、調べさせるのはいいんですけど、そうすると、保育者とか教育者は、相当力量が必要だし、それを育てる園長もすごい指導力が必要だし、どういう風にやっていこうと思っていらっしゃるのか。
鈴 本当はなりたい別の職業があって、中学受験をしたんですけど、園舎が建って、園長がすごく苦労してたときに、この幼稚園を継ぐ人がいないと思ったのがきっかけなんです。母は自分の代で終わっていいというんですけど、ここ、今は住宅がたくさん建っているんですけど、全部森だったんですよ。裏の森もうちの森なんですけど、木が生い茂っていた。そこを園長と祖父が切り開くところからスタートしたんです。母も本当は美大に行きたかった、美大の二次まで受かっていたけど、お前は幼稚園をやれといわれて、やらなければならなかった。それで短大に行ったんですけど、学校にいるときに、呼び出されて幼稚園の仕事をするというような苦労しながら、彼女自身やってきた幼稚園なので、そんな1代2代でやめるようなものではないだろうと。祖父が亡くなったときに、最後のひとことが、「卒業証書ありがとうございました」だったんですね。祖父は頭がよかったのだけど、農家の長男なので、学校にいけなかったんです。兵隊にいって、流れ弾にあたって、耳から鼻に貫通しているので、耳が片方聞こえないということで、ものすごく学校や教育に執着心があった人で、そういう祖父がどうしてもやるといった幼稚園を「私がやる」といったのが、祖父との約束なんです。私にとっては、祖父との約束であって、目標とする母がいるということもあって、教育観については、必死に園長から学んでいるところです。設立から園長の教育方針でやっている。最初から最後まで、教育としては作り上げてきた。彼女のベースを勉強しながら、新たに修士や博士を研究していくなかで、自分なりに作り上げていきたいと思っています。でも本当のベースは母の教育方針で、まったく同じだと思います。付け加えるものはあるかと思いますが、それは私が園長になってからだと思います。教える教育から、学び合う教育へ。子どもが安心して学べる。
ふ 佐藤学ぶさんですね
鈴 そうなんですよ。だからあっちゃったんですよ。本当は母ではあるけど、師匠なんですよ。母とはいわず、おかあさんといっちゃいけないんですよ。そのなごりで、おかあさんなんていえないじゃないですか。母という言葉を使ったことがありません。他の幼稚園と比較すると、特殊なのかとは思います。教育についても特殊。
ふ これからの外での活動はどうですか。
鈴 ここ数年で少しずつ表にだすようにはなっています。大学院にいくようになって、指導の先生に、来年はあちこち発表しろといわれています。来年はタイにいって、国際幼児教育学会で発表します。今年はスペインにいくことになっています。

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未来の文教大生に

お 僕のほうから最後の質問で、文教大学に行こうと思っている受験生に一言。
鈴 文教にいきたいと思っているけど、躊躇している学生ですか。楽しいよ。楽しかったので、教育学で有名な学校ですが、人間科学部の場合は、幅広く学ぶことができたので、教育学だけではなく、心理学とか、生涯学習とか、面白かったので、迷っているくらいなら、入ったほうが、そのあとの、選択肢がたくさんあるので。
お 楽しかったと。
鈴 その先の目標の引きだしづくりにあった大学だと思います。将来の夢や希望にいいかてにあるのではないかと思います。

お ありがとうございました。

 

 

太田ゼミインタビュー(ゆうま・つるちゃん)1

今回は、小学校の教師をめざしているゆうま君と中学社会の教師をめざしているつるちゃんです。

こわがりとしっかりものだった小さいころ

お 小さい頃は、どんな子どもでしたか。
ゆ 自分は、割と怖がりだった。
お 怖い話を聞くと脅えてしまうとか?
ゆ それもそうだし、センタイものとかあるじゃないですか。
お センタイものって何?
ゆ 仮面ライダーとか、サンドレンジャーとか、敵が倒されるのが、あまり好きじゃなかった。(笑)
お それはアニメの世界でもそうだったということ。
ゆ そうですね。
お 実写ものではなくても。
ゆ 実写はきつかったです。怖がりでした。
お お化け屋敷は。
ゆ お化け屋敷はだめでしたね。今ちょっとましになりましたけど。

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お 肝試しなんてやるじゃない、暗い所にいって、何かとってくるというような。
ゆ だめですね。
お やったことはあるの。
ゆ あります。やらなきゃいけないときもあったので。
お そういうときはどうなるの?
ゆ ほんとに、しゃべらないです。
お どうしようかと、こういう感じ?(固まった風)
ゆ はい。
お 男の子としては珍しいよね。女の子ではたくさんいるけど。
ゆ たぶん。
お 怖い話しをするだけでもだめ?
ゆ そうですね。後々記憶に残ってしまうではないですか。そういう話は。
つ 私は、幼稚園のころだと、たぶん、妹と入園したこともあるのですが、妹が、手がかかる子だったので、その分、お姉ちゃんとして扱われたんですよ。保育所の先生とか、まわりの大人たちからも、みんなみたいに名前じゃなくて、お姉ちゃんと呼ばれていたので、しっかりしなければ、とずっと思っていて、友達と一緒にいても、しっかりして、リーダータイプでいようと、昔のほうがむしろ背伸びしてがんばっている感じだったです。
お いつごろからそれをしなくなったの。
つ 中学くらいまでは続いていて、我慢しているストレスがたまって、一時期悩んでいたんですけど。
お でも、お姉ちゃんとして、学校で振る舞わなければいけないというもあったの?保育園幼稚園はあったとしても。
つ 小学校は、ちょっと妹が騒いだりすると、呼びに来るとか、学校でも、そういう役割だったし。そういう面があるから、担任の先生が、学級委員やってくれとか、生徒会やってくれとか、任されてしまって。断れない性格なんで。
お そういうこと先生が決めるの?
つ はい、そういう感じだったんで、毎日気張っていました。高校はいってからは、今みたいに。
お 高校からは解放されたと。
つ はい。

悩み多き中高の部活

お 小学校や中学校はどういう子どもだったんですか。
ゆ 小学校は、バスケットボールを、ずっと週4で一生懸命やっていました。スポーツ少年団にはいっていたんです。
お バスケはいつまでやっていたの。
ゆ 高校3年と、大学のちょっと2年生になるくらいまでは、社会人のほうでやっていました。
お バスケ人生ですか。

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ゆ そんな感じですね。
お 日本はバスケ弱いよね。
ゆ まず身長が明らかに足りないのと、身体つきですかね。体格が違いますね。
お バレーは強いので、よく対比されるよね。ただ、バスケとバレーとでは、やる人のパーソナリティが大分違うという話もあるけど。
ゆ そうですね。バレーはネットを通して、相手と触れないので、そこは差がありますね。タフじゃないといけないです。
お やはり、意図的にバーンとぶつかったりするわけ。
ゆ ありますね。

つ 女子高って、変に女子でグループで悪口言うというのがなくて、みんなさっぱりしている感じだったから、そういう環境がすごくのびのびとしていて、よかったのかなって。
お 中高は部活は何をしていたの

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つ 中学は吹奏楽でした。高校は、最初希望はしたんですけど、ピアノ習っていたけど、楽譜読めないんで、辛い面もあったんです。
お ピアノやっていて、楽譜読めないって、めずらしいよね。バイオリンは、スズキメソッドでやるとそういう人が多いけど。
つ 集団のヤマハで習っていると、両手で弾く、つまり、一人が全部を弾くというのはあまりなくて、グループで一曲仕上げることが多いので、片手で済むんですよ。そうすると、楽譜読まなくても、先生がこう弾くんだよというのをみると、弾けちゃってたんです。中学では、それが辛かったんで、高校では、弓道部に入ったんです。友達がいたので。でも、音楽の先生が、私、声が低いから合唱にはいりなさいと、強く勧誘してもらって、弓道やめて、合唱に入ったんです。結局今も。その合唱も、関東大会めざしているような頑張っている部活だったので、毎日、勉強か合唱かというような生活をしていました。
お 楽譜読めないと、合唱はもっとこまらない?(笑)
つ 困ったんですよね。(笑)先輩とか、先生とかに、録音してもらって、それを聴いてやっていました。
お 古いイタリアオペラの歌手みたいだね。
ゆ そうなんですか。
お 今は音大の卒業生だけど、昔は声がいいと、口伝えで覚えて、舞台にたつようなスターがけっこういたといわれている。そんな感じだったの?
つ はい。大学でアカペラサークルはいっているけど、読めないんで、みんなに、助けを借りながら、やっています。
お 読めるというレベルが違うのかな。
つ 音はいいんですけど、リズムがだめなんです。3連符なんかが全然。
お 楽譜みると、ぱっとメロディーが浮かんでくるというのを、楽譜が読めるという意味で、そこまで達していないという意味で「読めない」というのではないの?すごい人は、楽譜見ただけで、頭に正確に音楽が。
ゆ 他の人よりは全然読めるってことですよね。
つ 音だけ読める、それと簡単なリズム。でも、アカペラって、簡単なリズムじゃないじゃないですか。それで読めない部類にはいっています。
お オケなんかやっていると、今マーラーやっているんだけど、ベートーヴェンとかブラームスとかだと、休みのとき、何かのカラミで入ることができるんだけど、マーラーって、全然そういうのがなくて、他の部分とこっちでやっていることが、全く違う。他がフォルテでやっているのに、こっちはピアノだとか、逆とか、リズムもメロディーもまったく違うし。そういう難しさと似たところがあるよね。アカペラって。
つ はい。
お 自分が自分の部分が相当分かっていて、尚且つ、他の人のも分かっていないといけない。でも引きずられてしまうとか。
つ そうですね。引きずられてしまいます。

教師をめざして文教へ

お 文教大学に入ったのは。これまでインタビューしたゼミの人は、「最後の」という感じだったけど。(笑)
ゆ 自分もどっちからいうと、そんな感じですね。
お 第一志望はどこだったの?
ゆ 東京学芸大でした。あるいは埼玉大学か。でもセンター試験で失敗してしまったので、私立かなっという感じだったんですけど、文教の教育は高いと聞いて、人科ならと。教員になれると書いてあったので。
お 教員は目指していた?
ゆ はい、そうですね。
お 教員を目指していたのは何故?
ゆ 教えることが好きだったのと、子どもが好きだったのと。
お 高校までで、いろいろと教えていたの?
ゆ そうですね。中学までは、けっこうできるほうだったので、同級生教えたりとか、近所の子どもを教えたり。
お 近所の子どもを教えるんだ。
ゆ 勉強もありましたけど、運動なども。バスケとか。
お そういうなかで、教えるのが向いているんじゃないかと思ったわけだ。
つ 私は、通いで行きたかったので、第一は宇大で、私立は文教って感じでした。文教は高校の先輩がたくさんいて。
お 宇大は何学部を受けたの?
つ 教育学部の社会で。教師になりたかった理由は、小学校一年のときから、学校の先生から仲良くしてもらったりとか、学校の先生自体が好きだったんです。誰先生というのではなく。
お 先生という存在が。
つ 勉強教えるって、かっこいいなとか。一緒に遊んでくれたりとか。そういうことが好きで、中学になったら、悩みが多かったりで、お世話になって、こういう風になれたらいいなって。でも、高校には入ったら、いい先生ばかりではなくて、なかには、適当な先生もいて、そういう先生への怒りじゃないけど。
ゆ いるいる。
お いいかげんというのは?
ゆ 高校の先生って、もともと教員になりたいと思っていた人は少なくて、「本当に教員にはなりたくなかったんだよ」って言われたんですよ。
お 高校の先生じゃなくて、何になりたかったの?
ゆ 数学の先生は研究者になりたかったみたいな。
お 数学者というのは、そうそうなれるものじゃないからね。
ゆ そうですね。
つ ことなかれ主義の先生が多くて、クラスに揉め事があるし、悩んでいる子がいるのに、それを放置したりという先生もけっこういて、信じられないなって。
お 大学の先生はどうですか。似たようなもの?
ゆ (笑)
お 大学の先生になりたくなかったという人は、あまりいないよね。たぶん。
ゆ 小中高とはちがいますね。
お ただ、やっていることは、自分が本当にやりたいこととかどうかと言えば、違うという意識の人は多いよね。特に理系なんかだと。理系だと授業したくないという人はけっこういるから。
ゆ それは。
お 研究したいからということだね。
つ いなくはないですね。たまに授業どころじゃないんだろうなって。

太田ゼミ生インタビュー(ゆうま・つるちゃん)2

勉強と部活に打ち込んでいる大学生活

お 大学に入るときに、期待感があったと思うけど、大学にいったら、こういうことをしたいというようなことはありましたか。
ゆ 大学に入ったら、勉強に関しては、人間科学部の説明をみたときに、小学校の免許をとれると書いてあったんですけど、試験があるとは思っていなかったんですよ。だから、まずはその勉強をしました。それからあまり聞いたことがないような社会教育とか、児童福祉などが、けっこう興味があったんで、その勉強をしたいなと思っていました。部活は、通いなんで、バスケは厳しいと分かっていたんで、ボランティアのほうをやってみたいな、思って、それもひとつでした。
お 僕も確かに、学生のときに、社会教育学と教育社会学があって、何だろうと思ったことはあったね。
ゆ 気になりますね。
お それで一応抱負は実現しつつある?
ゆ けっこう、興味をもって、授業を聴いているほうだと思うので。
つ 私は、国立がだめだったショックをひきずっていたので、入学した時点で、すごく勉強やらなきゃっていう義務感にかられていて、けっこうやっていました。サークルや部活も入らないで、勉強ばかりやろうと、一年間くらいそういう生活をしたんですけど、さすがに、孤独すぎて。
お それでアカペラはいった。

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つ はい。それで今は、3年になって、両立が難しかったりするんですけど、サークルも楽しいし、勉強も頑張れば、バランスをよくして、頑張ろうとはしていますね。
お 勉強に打ち込んでいたというのは、授業の勉強ですか。それ以外の。
つ 授業は、全部ダブルAとるぞ、みたいな勢いでやっていて、家に帰ってからも、がつがつやっていて。
お そういう人って、めずらしいよね。そうでもないの?。
つ 変だね、という感じでは見られていました。そんなに頑張るもんなのって。まわりはけっこう遊んでいたりする子が多かったので。塾講もやっていて、中学生に社会だけではなくて、英語とか、数学とか国語なんかいろいろ見ていたので、そのための勉強もしていましたね。
お 大学にはいったら勉強するというのは、抱負だったんですか。落ちちゃったショックによるリベンジとか。
つ 両方ありました。抱負もあるし、リベンジ精神もあって。
お そうなんだ。
つ すごいやりました。
お そこから自分の勉強の延長上に、こういうことが面白そうだから、もっとここを勉強したいなというようなことは出てきたの。
つ そういう勉強ではなかったです。どちらかというと、つめこみで、もう忘れたことをまた覚えたりというようなことばかりだったので、反省点もあるんですけど。
お まわりにこういう勉強熱心な人いた?(ゆうま君に)
ゆ いなかったですね。高校のときの勉強は、忘れていってしまうのは、もったいないなとは思いました。英語なんかは、明らかに大学のときより、高校のほうがレベルが高かったんで。
お そうなんだ。
ゆ 大学は英会話みたいなものだったんで。
お 英会話といっても、そこでやっていることはやさしいとしても、更に自分で勉強するということは。英語でコミュニケーションできるようになろうとか。
ゆ そうなら、力をいれられたんですけど。
お 大学の勉強は物足りないという感じなの。
つ 英語に関してはそうでした。

太田ゼミで自分の経験の背景を研究

お 太田ゼミは何故選んだんですか?しずさんのいうことには、消去法だったそうだけど。
ゆ そんなにたくさん考えなかった。教員になるから、それに関連して、新任の先生も気になっていたんですけど、太田ゼミは、忙しいということは聞いていたので、自分は、大学生になって、課題を出されないとできないので、強制的に活動できるゼミがいいかなと思って。
つ 私は。
お 迷っていたんだよね。
つ でも7割くらいは太田ゼミに決まっていて、やはり、私も教員になりたいのと、教育について重点的に調べたいということで、一番このゼミがあっているかなと。それから、忙しいのにそれでも来る学生たちがいるわけだから、意識高いところじゃないと、私は遊んじゃうなと。
お まわりが遊んでいるときに一人勉強していたんでしょ。(笑)
ゆ 意志が強い。
つ 2年からはあまり勉強しなくなって。サークルばかりになって、その反省もあって3年からはちゃんとやろうと思ったんです。忙しいけど。
お 太田ゼミではどういう勉強をしているかを教えてください。自分がやっていること。
ゆ 子どもの遊びと、その人間関係とか、性格とかに相関があるのかということと、昔の遊びと何がちがうのかについて研究しています。
お 昔とこういう風に違っているとかは、分かってきましたか。
ゆ うーん、そうですね。そんなにまだまとまっていないですけど、何かしら、違っているんじゃないかと。
お 昔のことは、どうやって知ろうとしていますか。
ゆ 昔のことは、文献と、あと、親には一応聞きましたね。おじいちゃん、おばあちゃんは、遠すぎるので。違うのは当然かなと思いますけど。
お 親の世代とも大分ちがいますか。
ゆ 親からしても大分違うと言っていて、不思議なことが多いと言われます。
お たとえば。
ゆ 親が一番いっているのは、スマートフォンのことです。そんなにたくさん機能が必要かとか。
お それは機能であって、遊びじゃない
ゆ 学校外で、そんなにコミュニケーションとる必要があるのかってことです。
お 家に帰ったら、家族と一緒に過ごせばいいではないかという感じですか。昔はそうだったと。
ゆ そんな感じですね。昔は、スマートフォンなかったんで、学校で充実した人間関係が作れていたというようなことを言われたんですけど、そうなんですか。
お 僕は、君らの親より上の世代だと思うけど、学校から帰ったらすぐに遊びにいって、みんなと遊んでいたよ。
ゆ 家にいるときのことですけど。
お 家にはほとんどいなかったよね。今は、家にいるときにも、ラインやったりとか?
ゆ そうですね。
お 小学生でもラインなんかやっているんだ。
ゆ 塾でやっているんですけど。
つ やっているよね。
お 遊びと人格の関係は何か分かった?
ゆ 大勢の人とつるむことがなくなってきた、いつも同じ人と遊んでいるので、それがコミュニケーション能力に悪い影響が出ているんじゃないかというのが、今のところ。
お よく、そういわれているけど、それはそうなんですか。
ゆ 高校とかでも、クラスメートって、仲いい人とそうじゃない人がいるじゃないですか。そうじゃない人とほとんど話さないとか、あったので、そういうのも、外遊びで普段遊んでいると、自然と互いに触れる機会も増えたりするんじゃないか。
お 外遊びといっても、場所がないとかもあるよね。それから、僕らの世代と違うのは、やっていることは同じでも、やり方が違う感じがある。バスケやるにしても、野球やるにしても、僕らは勝手に集まって、野原みつけて、それで、じゃ野球やろうといって、やっていたんだけど、今はリトルリーグに入る。僕らは川にいって泳ぐとか、たまに市民プールなんかもあったけど、そのときどきに行っていたけど、でも、今はスイミングスクールに入って、コーチがいて、という風に変わってきたというのはあるね。遊びが遊びじゃない、習い事になっている。
ゆ 確かにそれはありますね。

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お その影響も究明してほしいよね。場所にしても、リトルリーグだと、大人がとっていると思うけど、僕らは、まず場所とりからだから、朝星が出ているときに行くんだよね。
ゆ そうなんですか。
お 日曜日なんか。それで場所とって、一日やっている。そういう意味では、野球やる仲間は濃密という感じはあったね。コーチなんかいないから、勝手に同年代でやっている。
つ 私は、2年のときから、不登校について調べていて、自分が中学の教員をめざすこともあって、中学生の不登校とかを扱っていたんですけど、そのときには、中学3年生が一番不登校が多いというグラフなんかがあったんです。それで、中3に焦点あてて調べていたんですけど、よく調べると、小学校から中学にかけてが、不登校数が増えた割合が急激に高くなるんです。今度はそこに焦点をあてて、考えてみようかと思って、今回は中一ギャップについて考えています。最終的に、中一ギャッフが少しでも減るような学級作りを考えたかったので、それを研究しています。
お 中一ギャップが減る学級つくりというのは、どういうイメージなの。
つ まず、中一が気にすることは、友人関係か、勉強が難しくなるという学習面、あと、中学校に入るとたいがい部活に入るから、先輩後輩の人間関係の難しさがあると思うんです。私自身も中一になったときに、友達できるのか、勉強も小学校と違って、順位が出るとか、プレッシャーだなあとか、先輩も怖い先輩が多かったので、うまくやっていけるかなとか不安がありました。
お 順位がでるって、この間授業で、教育行政学で、順位が発表されたとか、成績が発表されたとか、ほとんどいなかったはずだけど。通知されたという意味?
つ 貼りだされはしないんですけど、通知されました。そういう面で悩んだんだけど、それをあまりまわりにいえなくて、友達関係で悩んでいるなんて、親にいえないなって。
お そうなの。
ゆ そうですね。
お 男は言わないけど、女はいうっていうけど。
つ 心配されてしまうのが嫌で。うまくやっていけてないのって。勉強の相談を先生に相談しても、親に相談しても、頑張るしかないでしょうってしか言われなかったり。問題解決になっていなくて。部活も、先輩が怖かったり、厳しかったりもあって、やりたくて入ったのに、つらいな、としばらく悩んでいる時期があって、そういう面をもっと担任の先生とか、いろいろな先生が、定期的に相談にのってくれたりとか、理解を深めてくれれば、もっと、よくなるんじゃないかなと。
お 成績の順位がつくというのは、中間とか定期とか、全部つくということ?
つ 全部つきます。
ゆ 順位、全部ついていました。貼りだしはしませんでしたが、通知はきますね。
お 通知表と違う評価が出されているんだ。逆に絶対評価になったから、そうした可能性があるね。中学で順位をつけるのは、そんなに普通なのかな。
つ 普通だと思います。
お 僕らのころは、相対評価なので、順位ではないけど、5は何%と決まっているから、ある種ラフな順位つけが、そのまま成績になっていたから、必要ないということだったのかも知れない。絶対評価になったから、それだと順位がわからないので、不安だというような声があるので、出すようになったかも知れないね。
ゆ 確かに。
お 順位つけはどう思う。
つ 私の場合は、上位校にいたということもあるけど、その順位によって、次も頑張らなければと、ポジティブにもなれるんですけど、逆に下がったらどうしようという不安も常にあったんで、私は、心配性だったり、不安だったりしたので、嫌でしたね。友達は、下のほうにいたんですけど、頑張っても、あまり上にいけないし、どうでもいいという感じでした。
お 気にしないというように。
つ 親同士で比べられる材料になってしまうので、嫌だなという話をしたことは、中学のときにあります。
お そういうのは、誰にもいわないの。俺何番だぜみたいな。
ゆ ありますよ。
お 隠していたりは。
つ 隠していてもばれますね。
ゆ 見せあいはしますね。仲がいいときには。
お 何故ばれる?
つ 上位10人くらいで、誰が、何位くらいだってことが、予め把握されていて、あとテストの点数で、だいたい分かってしまう。
お 小学校は。
つ ない。
ゆ ないです。

太田ゼミ生インタビュー(ゆうま・つるちゃん)3

塾はブラック?

お バイトは?
ゆ 大学1、2年生のときから、塾の講師をしています。個別も一斉もやっています。
お 個別の場合、子どもが休んだ場合、どうなるの?
ゆ その場合、事務になるので、事務やって帰る感じです。
お 別の日に代わりにやってくださいというような要求は。
ゆ ありますね。その場合やりますね。
お ただ働きになるよね。それともちゃんと払ってくれるの?
ゆ 一応くれます。
お やれば払ってはくれるんだ。この間、別の日にやっても、払ってくれないので、腹がたって、辞めたと言っていた人がいるけど。
ゆ 塾によっては、あります。ブラックのところがあるんで。
お 教員の世界もあるからね。そもそも、何時間はたらいても、給与同じという世界だから。他にやったことは?
ゆ 短期は、引越しの手伝いをやったことがあります。
つ わたしは、塾講師やっていたんですけど、3年になって辞めたので、今はバイトしていないです。
お それはうらやましがられる?
つ 周りからは、グズじゃんとか言われます。
ゆ バイトやっていないと、確かに
つ すごく批判されます。
ゆ 学生ニートみたいに。
つ そう。ニート扱い。「気楽でいいよね」という感じです。
お 気楽でいいよね、というのと、批判されているというのは違うでしょう。
つ でもけっこう傷つきますね。
ゆ それでも、その分忙しいということだから。
つ 3年になると、忙しくなるし、寺子屋(注 社会科教師をめざすサークル)もやりたかったので、けっこう時間とられたり、通学で時間をとられるので。
ゆ 塾って、時間外労働が多いじゃないですか。準備とか。そういうのが。
つ 私も、一コマでいくらという感じなんですけど、雑務は一切出ないんで、時給計算すると、500円くらいのときがあったんですね。

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お 雑務って。
つ 出勤の30分前にいなければいけなくて、書類とか、プリントの整理とかがあるんです。そして、授業が終わったら、一人一人の申し送りみたいを書くんですけど、それがすごく細かくて時間がかかって、わたしの場合、3人見なければならなくて、3人書いていると、すごく時間がかかるのと、、テスト期間だったりすると生徒から質問がでて、延々と質問タイムみたいな。
ゆ きついよね。
つ 授業終わっても2時間以上のこともあります。その分は出ないんで。
お 僕が学生時代の塾とは、全然違うな。開始時間に行って、教えて、はいさようなら、だったね
ゆ 生徒との対応なんかは?
お 全然ない。大学院までやっていたけど、そういう経験はないね。当時はほとんど一斉授業だったからかも知れない。
ゆ 授業以外にもけっこうやらされますね。エクセルに打ち込むとか。
お それも無給?
ゆ 一応事務給ででるんですけど、出ないときもあります。授業後にちょっとやって、というようなときにはでないです。
つ でないね。
お 生徒の払うほうは、たくさん払っているの?
ゆ 払っているんじゃないですか。
つ 高いと思う。
ゆ 個別は。高く払ってきてもらっている以上、中途半端にやるのは申し訳ないんで、忙しくなって、ある程度やめてしまうのも仕方ないですね。

教えることが好きだから教師に

お 将来の希望として、先生以外のことを考えたことはないですか。
つ ないですね。
ゆ ないです。
お 小学校の先生というのもずっと。中学とか、高校を考えたことない?(ゆうま君に)
ゆ 中高も、社会好きだったんで、、社会教えたいとは思ったですけど、どっちがいいか、と考えたとき、小学校がいいかなと。
お それは何故。
ゆ 小学生の年齢のほうが接しやすいというのと、教科を教える以外に生活とか、いろいろな部分で携われる部分が多いと思ったんで、小学校をやりたかったです。
お 小学校くらいの年齢のほうが接しやすいというのは。中学生くらいになると生意気になるとか。
ゆ ざっくりいうと、そんな感じですね。反応が違うので。
お 小学生は素直だとか。
ゆ しっかり反応が返って来る。中学生は個別で教えるときにはいいんですけど、教室で教えるのは、自分の手には負えそうにないなと思ったんで。
お それはないの?(つるちゃんに)
つ それも覚悟した上で、今は中学校がいいなと思っています。前はただ勉強を教えたかっただけで、高校の先生くらいがいいなと思っていたんですけど。偏見かも知れないけど、授業は教えるけど、小中ほど、生徒一人一人の進路とか、悩みについて、手厚いイメージがないから、それだけでは、教員になるには、物足りないなと思って。わたし自身が悩んだり、辛かったのは、中学生だったんで、そういう生徒に目を向けられる先生になりたいと思って、中学がいいと思いました。
お 社会が好きなのはどうして?
つ いままで、社会が好きだったのは、点数とれるから、得意なんだな、という意識だったんですけど、高校の後半あたりから、ただ暗記じゃなくて、こういういきさつとか、背景があって、戦争になったのか、というようなことを考えられるようになって、ちゃんとわかった上で、理解したり、教えたもらったりしたほうが楽しいから、ただ、詰め込みの授業ではなくて、考えたりする機会が多い授業をしたいなと、思ったんです。それが社会だと多いのではないかと。数学なんかだと、解くだけで。

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お 数学者からすると、違うらしいけど。数学は芸術だとか。
ゆ 各教科の先生こだわりがあると思うので。
つ 社会は一番人間みがあるじゃないですか。
お 社会に魅力を感じているということですね。いままで、そういう魅力を感じする社会の先生はいたの?
つ 何人かはいました。塾の先生ですけど、暗記よりも、人物どうしの関係とか、時代的背景を教えてくれたので、楽しかったです。暗記とかテストは二の次だった。あとは、高校の世界史の先生も同じ感じで教えてくれたので。
お 社会は読書が大切だけど、どんな本を読みますか。
つ 宗教的なことが好きなんで、そういう関係の本とか。大学での宗教学がすごく面白くて、一時期宗教関係の本をたくさん読んだ時期があります。
ゆ 先生が変わっちゃったんだよね。
つ そうね。残念ですね。
ゆ 去年までは、希望者が多かったので、抽選があったんだよね。
つ 人気で。
お どういう風に面白いの?
ゆ 題材が面白いですね。
つ 先生が面白いかたで。
お 面白い面白いといわれても、面白さは通じないので、具体的に語ってほしいけど。
つ 何気なくやっている身近なものをとりあげて、実は宗教的なものなんだよ、とか教えてくれたり、先生の言い回しが独特なので、更に面白いなと。

文教大学のよさ

お もし文教大学を受けようかと迷っている人に一言。
ゆ 自分の印象としては、お金のかけどころに気をつかっているという気がします。
お 逆に思っている学生が多いと思っていたけど。授業料高いのに設備が貧困じゃないかとか。
ゆ 設備はそうなんですけど、教科書とか、プリントがちゃんとしていたり、講座が頻繁にあったりして、それを有効活用すると、いいんじゃないですかね。施設は自分的に重視していない。
つ 一番いいなと思ったのは、学生がまじめだから、大学で学びたいという人にとって、価値観が同じ仲間が多いというのと、先生と学生の関係が築けている感じがします。他の大学にいっている友達は、講義系の授業ばかりで、先生と話す機会ないし、ゼミも出ているだけだから、深く先生と話す機会がないということを聞いているので、文教はけっこういいかな。
お マンモス大学だと、先生と口をきいたことがないという学生がいたりするよね。
つ 規模的にいいんじゃないか。
ゆ そう思います。
つ 友達関係とも。

お 大学に対する要望とかは。
ゆ 前のインタビューにもあったようですけど、他の学部の授業をとれるようにしてほしいです。
つ それはある。
ゆ 特別支援のことを勉強したいと思って、時間割組むときに、支援課に確認しにいったんですよ。特別支援の授業をとらしてくれませんかって。でもほとんど×で、だめでした。
お それは教育学部が決めることなので。
ゆ そうなんですか。人科の授業だと、他からきているじゃないですか。勉強したいと思ったことを学びやすくしたほうがいいと思います。
つ 呑気に生活していたので、ないです。

 

太田ゼミインタビュー(あくゆうちゃん・しず)1

今回は、一見まじめで実際にまじめで一生懸命取りくむあくゆうちゃんと、一見ふまじめなのに実はとてもまじめで課題をしっかりやっているしずさんふたりです。

小さいころ

お 小さいころどんな子どもだったのでしょうか。
し 記憶にないですね。
お 記憶を抑圧したいということですか?
し 単純に覚えていないですね。断片的なので。
あ やんちゃな子だったですね。それから親思いでしたね。親に対して何かできることはないかって。
お 親にやってあげたいと。
あ 小学校一年生のエピソードなんですけど、親にいつも学校にいくとき見送ってくれて、それが自分でうれしくって、それに対して、こたえてあげたいという気持ちがあって、おかあさんに、たんぽぽのプレゼントをしようと思っていたんですよ。帰り道にたんぽぽが咲いていたので、それを、たくさんつんで、おかあさんにもっていこうとしたんですけど、ランドセルにつめて、もって帰ったら、ランドセルがよごれちゃったんですよ。それに対して、親がすごく怒って、それでショックだったというのがあります。親を喜ばせようと思ったのに、怒らせてしまったというのが、印象的に残っています。
お 説明はしたんでしょ?
あ 説明はしました。けど、やはり、ランドセルにいれることはないでしょうって。(笑)
お もう少しわかってほしかったなあと。
あ そうですね。

yuta
お それ以来、そういう親切心はやめたの?
あ へへ。小学校6年生までは、トラウマがあって、6年生になって、母の日に花をあげるまでは、そういったプレゼントをしようという気持ちにはならなかったですね。
お 手伝いとかは。
あ 手伝いはしていましたね。父親が車好きで、毎週日曜日には洗車を手伝いましたね。
お 洗車は毎週するんだ。
あ しますね。
お いつもピカピカで。
あ ピカピカですね。雨降ると、父親は雨降っちゃったかって。
お よごれちゃうかと。うちと逆だよね。雨降ると、これで洗車されたって、喜ぶけど。(爆笑)
し うちは洗車すると、次の日に雨がふるというジンクスがありました。母親が洗車すると絶対次の日が雨で。
お 思い出しましたか。
し あまりなくて。幼稚園のときには、家で遊ぶ。外で遊ぶのではなくて、なかで遊ぶ。人形遊びがすごく好きで、おもちゃがいっぱいあったので、おもちゃでずっと自分の世界で遊んでいました。
お まわりは市街地だったの?
し 住宅地でした。まわりは家しかない感じでした。
お 公園とかは。
し それはあったんですけど、人が時間帯によって、あまりいなかったり、ほんとうにまわりに家しかないし、暗かったので。
お あやしいおじさんがいるから、遊ぶのやめなさいって感じですか。
し もともと外があまり好きではなかったんです。おもちゃがあったので。大きな家とか、レジ台とか。部屋にもジャングルジムとかブランコがあったんで、自分でしか遊んでいないです。

小中時代

お 小中くらいのエピソードは。
あ いま振り返ると、小学校のころは、すごく褒められたいと毎日思っていた子どもだったと思います。先生から「よくてきたね」と褒められるのが、生きがいといったら言い過ぎかも知れないですけど、今日も褒められたいな、なにかいいことしたいなっていう風に思って、毎日過ごしていましたね。その気持ちは、中学校にいったら、すこし反抗期で、素直になれない場面はあったんですけど、基本的には、何か褒められたいというのは、小中通して変わらなかったと思います。
お 褒められたいという気持ちはどこからきたんですか。本能ですか。
あ 僕の場合は親ですかね。いいことをすると褒められることが、強かったと思います。僕の家庭では。
お いいことをすると褒められて、悪いことをするとしかられる。
あ しかられます。
お それでよく褒められていた。学校で。
あ 学校ではよく褒められていました。
お 掃除をよくやるとか。
あ それもありますし、教室のごみを率先して拾ったりすると、先生が最後の帰りの会の場面で、「あくゆうちゃんは、ひとがやっていないところでごみ拾ってました」って言って、みんなの前で褒められる。そんなことが、自分のなかではうれしかったというか。快感だったと。
お あいつ、いい子ぶっているっていうような感じはまわりになかったの?
あ いや、それを聞いたら、僕も褒められたいという子どもたちが多かったので、だから、どっちがたくさん褒められるかというような。
お 褒められ競争。
あ そうですね。褒められ競争があったと思います。
お いじめなんかなかったの。
あ いじめというか、口が悪い子は、先生が徹底的な指導をしていたので、口の悪い子は省くというと、言い過ぎですけど、ちょっと、あの子悪いよねという雰囲気はありましたね。
お それは、いじめではないの?
あ いじめではないですね。ただ、家庭の事情でこれなくなっちゃった子はいるみたいですけど。
し 弟は、小学校低学年くらいまではかわいかったんで、家で弟の面倒をよくみていたんですけど、もともと、家の家事を手伝うほうではなくて、小中全然手伝わなくて、ただ、外ずらはよくて、外ではいい顔していましたね。
お ちゃんとお手伝いしているのよという雰囲気を、外ではだしている?

sizuno
し いやお手伝いしているかではなく、比較的いい子を装っている感がありました。
お そういう自覚があったの?
し あまり自覚はないですね。担任から、「外ずらいいよね」という感じのことを言われて、「あれ、そうかな」みたいな。自覚はなかったです。
お その先生は、内の顔は知っていたということ?
し 普段のちょっとした行動にでていたのかなあと。中学は、とにかくいい成績とりたいために、とりあえずあいそ振りまいていましたね。
お あいそ振りまくと、成績よくなるの?
し 関心意欲態度をあげるために、勉強はとりあえず頑張るしかないと思って、とりあえず関心意欲態度あげようと思って、先生には、いい風をしていました。
あ 内申点だよね。
し そうそう。
あ 内申点45点満点でつくじゃないですか。ひとつの教科で5点満点で。関心意欲態度で、いい評価がつくと、テストで点数が悪くても、先生が考慮してくれるという。たとえば、90点以上じゃないと5はつかないけど、関心意欲態度がいいと88点でも、日頃頑張っているから5にしてあげようというのは、僕の中学ではありましたね。
お そういうの、今教育的に考えると、どう思いますか。
あ 今考えると、その子のためになっていないと思いますね。
お なっていない。
あ はい。
お そうやって頑張ったことは、今にいい感じでつながっているのか、あるいは、偽善者だったという反省なのか、どっちです。
し そのときは、それが普通だったんで、なにも思わなかったですが、今にそれがつながっているかというと、つながってはいないですよ。そこで分断さている感じです。高校からはまったく気にしなくなったので、やった高校生だ、みたいに。
お じゃ一種の偽善者だったということになりませんか。(笑)
し そうかも知れないですね。(笑)とにかく、中学が嫌だったんで、そこから離れたかったんです。そこから離れるためには、いい成績をとるしかないと思っていたんです。
お でも時期がくれば離れられるじゃない。
し ある程度成績がないと、レベルの高い高校にいけない。レベルの低い学校だと、うちの中学からいく人が多かったんです。
お 中学の雰囲気を断ち切りたいということ?
し そうです。同じ高校では、うちの中学が3人だけだったんですけど、みんな同じような感じでしたね。
あ そういう気持ちはわかりますね。想像できる。そういう人が僕の中学もにいた。
お 中学校時代はどうでした。
あ 中学校時代はひたすら部活を頑張っていました。陸上をずっとやっていましたね。ひたすら。うれしかったんですよね、頑張りが記録に形として残るということが。自分が成長している感が、陸上の記録で実感できるという面が、自分のなかでは快感だったですね。

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お 陸上は、一番それが強いかも知れないね。
あ そうですね。
お 球技なんかだと、たまたま相手がもっと強ければ、いくらこっちが頑張っても負けてしまうとか。走るというのは、自分の努力の直接の反映だよね。記録だから。それで陸上を選んだの?
あ 陸上選んだのも、小学校の陸上大会をやった際の先生の勧めもありまして、もともと小学校のときには、親に通えといわれたスイミングスクールで、水泳を極めていたんですけど、小学校の先生から「陸上もいいよ、水泳と陸上は、個人競技といわれていて、記録が形としてでるから、似ているから、陸上もいいんじゃない、センスあると思うよ」という言葉をいただいたので、中学校には、陸上で活躍している先輩たちがいたので、「あ、俺もああいう風になりたりない」ということで、選択しました。

高校時代

お なるほど。高校時代は。
あ 高校も陸上をそのまま続けていたんですが、高校のときに初めて、先生と考えが合わなくて悩んだ時期がありました。
お どういう風に合わなかったの。
あ 指導者は、子どもの状況とか、コンディションを常にみるんですけど、高校の顧問は、子どもの様子に応じてやるのではなくて、自分の教え方を忠実に守る方だったんです。同期がけがをいっぱいしたので、みんなが、先生に対して、「やはりあれはやり過ぎだ」と言ったんです。僕たちのことをしっかりみて練習メニューを組んでほしいし、言葉をかけてほしいと思ったんです。そういうことで、高校3年間は、陸上関係でちょっと葛藤がありましたね。
お 葛藤があって、どうしたの?
あ 先生に歯向かってしまうと、大会に出れらないので、陸上競技をやっていたいという決心があったので、先生のいいなりといいますか、少し我慢して、強くいえなかったという感じでしたね。
お みんなで言おうとかにはならなかったの。
あ いいました。でも、先生は、俺のやり方は間違っていないと。先生自身もインターハイ全国大会に高校時代出ていた実力者らしくて、まわりの先生からも評価はされている人だったので、なんともいえなかったんです。
お 高校時代の勉強は?
あ あまり裕福ではなかったので、親には国立にいけっていう無言の雰囲気があり、高校2年生のときから、地元の埼玉大学の教育学部を受験しようと思って、日々勉強していましたね。
お それは残念ながら、だめだった。
あ はい。体育専修受けたんですけど、だめでした。そこで一浪しようと思ったんですけど、高校の担任の先生、早稲田大学出身のベテランの文学部チックな先生だったんですけど、その先生が、文教大学の人間科学部受験しなさい、と。メリットとかよく知っている先生で、教育に特化するのではなくて、人間的にいろいろな教養を身につけてやったほうが、絶対にいい先生になれるよ、ということで、推してくれました。センター利用で願書をだして、こちらにきました。
し すごい。
お なるほど。先生になろうと思ったきっかけは
あ それは、小学校のときから、中学、高校を通して、総合的に思っていました。先生に、救われた面もありましたし、先生に嫌悪感いだいたこともありましたし、自分だったら、こうしたいと思ったんですね。
し 高校時代はとにかく遊びほうけていました。(笑)
お なにか、ポジティブな感じしないよね。(笑)
し 超ネガティブですよ。勉強すごくできなかったので、嫌なことあったんですけど、それ以外は、全然問題なく、青春という感じでもないけど、遊んで、一番楽しかった
お 遊びって何?
し 買い物したり、カラオケとか。
お 買い物するには、お金がいるでしょう。
し ウィンドーショッピングです。町田が近かったので、町田にでたり、大和にでたり、ぶらぶら遊んだり、友達の家でだべったり、けっこうみんなで、特になにをするわけでもないけど、しゃべるのが好きだったんで、しゃべったり、カラオケにいったりしていました。
お 太田ゼミと大分遠いイメージだよね。(笑)
し そうですね。(笑)まじめさはないですね。ほんとにネガティブで、中3のときには、鬱じゃないですけど、不登校でしたね。中2と高2の担任がいやで、不登校になり、中3で、勉強云々でいやで、不登校気味になったのを、高校で、ようやく、なくなったんです。高1と高3が同じ担任で、すごく放任主義で、高3の面談など、「僕に相談したい人だけ来てくれ」というような(笑)。強制しないから、4月の2者面談以後、相談していない人は、一切相談していない、私もしていないんです。中2と高2のときには、ほんとうに束縛するんですよ。あれしないさん、これしなさいって。それで不登校気味だったんですけど、それがなくなって。ずっと図書館司書なりたかったんですけど、将来就職するとき、現実的ではないなと思って、では、何しようというとき、突然教師がぽんとでてきて。じゃ教師になろう、みたいな。適度に生徒に接する先生って、ほんとうに好きで、そういう教師になれたらなあ、と思っています。
お 熱血教師はだめなんだ。
し 熱血はだめですね。わたしが受け入れられないです。
お なぜ突然教師になろうと思ったの。どこからきた?
し 大学にいった自分を想像したんですよ。数学ができないから、理系はないな。
お 経済もないね。
う そう。それで、政治って興味あるっていったら、全然ない。歴史には興味あったんですよ。だから、一応歴史学科受けたんですけど、落ちたんです。でも今思うと、歴史もそんなに好きなわけではなく、趣味程度。教育学部だと、予想が自分のなかでいいなって思って、友達に、教育学部志望の子がいたんで、一緒に教師めざそうかなあという感じですね。だから、小学校というのでもないんです。特別支援の先生になりたいと思ったときに、女子大は無理だと思ったので、文教と、あと3校くらい受けて、ここだけ受かったんですね。

太田ゼミインタビュー(あくゆうちゃん・しず)2

文教大学へ

お 文教大学にはいったときの印象はどうですか。
あ 僕は漠然と入学式の前の学科オリエンテーションのときに、ここでなにが学べるのという期待感と不安感がありましたね。あと、英語の授業があったんですけど、周りの人が極端にできなさすぎて、初回の英語の授業のときに、大丈夫かな、という印象をもちましたね。こんなに読めなくて大丈夫かなって。
し 確かにみんなできてなかったね。
あ チャペレンさんの英語は、会話に特化した授業だったんですけど、簡単なはなし、do で聞かれたら、I do とかで答えるじゃないですか。それを I can とか答える人がいて、大丈夫かなと思いましたね。
し たしかにみんな酷かったね。すごい差があったよね。
あ 差がありました。同じ高校から人間科学部にはいった先輩がいて、その先輩が杉原先輩(注ゼミの卒業生)だったんですよ。こんなにすごい人がいるんだ。それで、文教大学でやっていこうかなと思いました。
し 友達できるかなっていう不安ですかね。勉強はなんとかなるだろう。大学だし、一年生だし。とりあえず友人5人くらいは、頑張ろうって。
お 「友達100人できるかな」って感じですか?
し 100人はいらないけど、とりあえず、親しくなれそうなひとがいればいいなって。ボッチ生活はつらいじゃないですか。やろうと思えば、できるけど、そういう大学生活は望んでいなかったので、友達を捕まえようと思って、ガイダンスでとなりに座った二人と友達になりましたね。そのあとは、違う友達や、クラスの子と仲良くなったんですけど。あまり、勉強に対する不安は、単位とれるかなという不安はありましたけど、それくらいでした。

お サークルは?
あ サークルは、一年の後半から、「教師の卵サークル」に、いろいろといいことを教えてくれるというので、僕も行ってみようと思って入りました。それから「フットサル・リバティ」。そのふたつにはいっていました。
お 陸上部ははいっていないの?
あ 陸上部最初は行っていました。でも、バイトをたくさんしなければならないので。私立入ったので、学費を自分で、という風に言われていたので。
お 陸上は、あまりバイトができないの?
あ 自分でやりくりすれば、できると思っていたんですけど、週6で、短距離は、大会があると、週7になるよ、コンディションの調整なんかも、指導者がいないぶん、自分たちでやっていかなければならない。それで、続けられないなと陸上はやらなかったんです。
し Cフラの幽霊部員です。最初の一年は、入りたいパートの責任者と連絡がとれなくて。
お どのパートに入ったの。
し つくしなんです。障害をもった子と遊ぶんですけど、たまにいくみたいな。
お それって活動として大丈夫なの?
し つくし自体が緩くて、けっこうみんな、月1行くかみたいな。活動は2、3時から5時までなんですけど、5時は、家にいたいんです。
お 通学時間がかかるわけだから。通っているんだよね。
し はい。2時間以上かかります。5時に終わって、7時に家について、ご飯たべて、風呂はいって、家事して、一回やったらすごく疲れちゃう。今年こそ、いこうと思っているんですけど、課題が終わらなくて、どうしてもいく日がないです。

太田ゼミ

お ゼミにはどうして入ったんですか。
あ ひとつの理由としては、杉原先輩が推してくださったのと、先生の授業、教育学聴いたときに、先生の幅広い知識に美学を覚えたというか、テキストなど何も見ていないのに、あんなに話せるのは、なぜなんだというところですか。
お 他の先生はテキストみながら話すの?
あ けっこう資料とか見ながら。
し 資料とか、だいたい。
あ 誰かが意見をいうと、先生が必ずレスポンスを返すので、どんな頭しているんだろうと、興味がありまして、先生のゼミに入れるなら、はいってみて、そういうところを刺激してほしいなと、僕もそういう美学があるので。
お 美学ですか
あ 僕もそういう人間になりたいというのが、心のなかにあると思うんですよ。聞かれたら、何も見なくても、いろいろなことがいえるという。
し そういうかっこいいんじゃなくて、単純に消去法です。心理と臨床は実験があるから無理だ、名尾先生が障害児教育やっていると書いてあったんですけど、ゼミに入るには、とらないといけない授業があって、それはとれないだろう。人科で興味ある分野が、青山先生と太田先生で、どっちにすると考えたとき、青山先生は社会教育なんで、学校教育をやりたかったので、太田先生にしようみたいな。だいたいいつも、消去法で生きていますね。
お 相当きついよみたいなうわさはあったんでしょ?
し うわさとしては。
お それは特に障害にはならなかったの?
し きついのかあーと。きつすぎてもあれなんですけど、緩すぎても、自分は楽なほうにいっちゃうな、適度に厳しいといいなあって。
お なるほど。
し でも3年になって、こんなにきついとは思っていなかった。授業が増えて、こんなに大変になるとは思っていなくて。
あ 俺らの代は履修制限できついですね。
し ゼミで大変というよりは、いろいろな授業がまとめて課題だしてくるから大変。
あ みんなそう思っていると思いますね。太田ゼミならず、僕たちの学年で、特に小免とか、特支とか、資格をとっているひとたちは。
お 課題というのは、教職ででるということ?普通の授業ではでない。
し 必修関連は2年までで、必修科目は3年ではあまりないですね。
あ でも、選択科目が3年生でフルで残っていまして、人科人科の枠で。小免コースの学生は、日々課題に終われる状態です。
し 中高免許は専門科目とかぶっているので、そこまでは残っていないです。
お ゼミではどういう勉強しますか。
あ いろいろ勉強していて、まとめる力をつけています。
お 個人の課題としてはどうですか。
あ スクールカーストに関連するような映像をみています。「桐島、部活やめるってよ!」をみんなで見て、議論をしました。
し 障害をもった人の自立について研究しています。でも、ぶれはじめていて、重度にするか、軽度にするか。重度の人の就職とか、仕事につくことを研究したいなあと思いながら、それにゴールはあるのと、悩んでいます。

太田ゼミインタビュー(あくゆうちゃん・しず)3

バイト

お バイトは?
し 休職中です。1年生のときには、塾講師をやっていて、そのあと、キッチンでバイトしていて、2年になったときに、塾講師が時間割と合わなくなって、ほぼいない状態になって、皿洗いもやめたつもりが勝手に、休んでいる扱いにされていました。ピンチヒッターではやってました。それから肢体不自由者の介助をやっていて、一時期3職同時にやっていましたけど、3年生になる前に塾講師と皿洗いは辞めました。肢体不自由の人のバイトが、日曜日はいると休みがなくなってしまうので、夏休みなんかに入ろうかと。
お それはなにをやるの?
し 車椅子なんで、その人ができないことを代わりにやる。
お 世話っていうこと?

kaigo
し そうですね。求めていることをやる、ごはん食べたいときに、ご飯つくって、食べさせる。自分で食べられない人は食べさせてあげる。
お 雇い主は誰なの?
し 会社で、派遣です。
お 会社はどうやって、利益を得るわけ。障害者からお金をとる?
し たぶん一部と、国から補助があると思います。NPOなんで。
お 北欧だったと思うんだけど、そういうやり方はあまりよくないので、個人にお金を渡して、個人が自分で雇って、お金を渡す、その方がうまくというような話しをきいたことがある。NPO法人に雇われて、派遣されるということね。
し はい。
お その度に、相手も変わる。
し 私のところは基本的に固定で、この時間はこの人って、決まっています。
お この時間帯はこの人がきてという感じで、変わっていくわけだ。ずっと世話する人もいるの?
し 私の担当する人は、朝の1時間と夜の1時間だけ人がいない状態で、あとは全部います。脳性麻痺で自分ではなにもできないので。
お 何歳くらいのひと?
し 50くらいのひとです。
お じゃ、親はいない?
し います。おかあさんとお姉さんですけど、一緒には生活していない。一人暮らしをしたいんです。
お 一人暮らしをしたいんだ。施設でもない。
し はい。
お 何もできない人なんでしょう。
し はい。その人とは別の人ですけど、とにかく一人暮らししたい。でも、いざ一人暮らしをすると、自分では、何もできないと気づくというのを、聞いたことがあります。自分ではできるみたいに思っていたらしいんですけど。
あ 今は一番家から近い回転寿司でやっています。一年のときからやっているので、今年の4月からリーダーとして、昇給しまして、高校生の子が多いので、お寿司の作り方とか、店でのやり方とかを指導しています。
お 高校生がバイトをしいてるの?
あ 高校生が接客をしているので、接客を教えたり、キッチンでどうやって作ったり、どう動いたりしたらいいかというのを、リーダーとして教えてあげています。
お 店長とはちがうの?
あ 店長がいなくても、バイトだけで運営する日があるんですよ。すべて、バイトで。社員が一人しかいないので、バイトだけで運営できるシステムが、企業としてあるみたいで、店長がいないときには、クレームがきたらそれに対応して、レジ誤差もあったら、訂正して、本部に報告もします。発注もかけたりしています。
お そのお寿司屋さん、何時から何時まで?
あ 土曜日と日曜日は、ロングではいっているんですけど、5時から11時です。
お 深夜はないんだ。24時間営業のところで、夜中に一人になっちゃうときがあるとか聞いたことがあるけど。
あ あるみたいですね。昔は大学に入ったときには、学費とか、ずっとためていたので、ダブルワークしていました。塾講師を最初にやったんですけど、いろいろお金をもらえるように、補習を授業外にやっていたんですけど、それに対して、給料が払われなかったことがあるんです。ブラックだったんですよ。それはあなたの正規のシフトではないから、勝手に払うわけにはいかない、払うにも限度があるみたいな。最初は働いた分だけ、補習費がつくよっていう話だったんですけど。危ないなと思って、潔く辞めました。そのあとは、長期で、ロングではいれるバイトを探していたので、洋服屋さんで、洋服をたたんで売ったりする仕事をしていました。今はお寿司屋さんで、昇給して、お金もそこそこもらえているので、そっちのほう一本です。
お 回転寿司って、最近なかなか大変だという話しだけど、それは?
あ 大変ですね。アルバイトなのに、店長の代わりをしているとか、お金の管理とか全部しなければいけないとかは、どうなのって。
お 客があまり来なくなっているとか言われているけど。

susi
あ 客は回転寿司で安いので、たくさんきますね。ただ、おじさん、おばさんで、少しこだわりがあるひとが多いので、クレームはしょっちゅうですね。お酒、熱燗にできないかとか。
お なぜ、熱燗にできないの?
あ 温める器具がないので。お寿司屋さんに、クオリティの高いものを求めているお客さんが多くて。味噌汁の具とか、さびの量とか、そういったクレームもすべてバイトで対応しなければいけないんで大変です。
お そういう人は、ちゃんとしたお寿司屋さんに行ってよという感じですか。
あ そういう気持ちもありますけど、お金もらっている身なんで、謝って、そういうことがないようにと言います。
お 出しているお寿司って、おいしいなと思う?
あ 最初はこんななっているんだってびっくりでしたね。流れているお寿司って、時間がたつとかわいてきちゃうんですね。30分たつと、自動的に廃棄される仕組みになっているんですよ。
お 廃棄したものはどうするの?
あ 廃棄したものは捨てます。持って帰ることはできなくて。
お なにかの餌にするとか。
あ それはできないです。だめって書いてあります。
お システムとして、動物の餌にすることはないのね?
あ ないです。防犯カメラがあって、不正がないか本部の人が見ています。
し テレビでやっていた。司令塔の人が、「そこのひと何やっているんだ」って。
あ そういうことがあると、すぐ店舗に電話がかかってきますね。今何してたのって。
し そう、みた。
あ 僕の前の前のリーダーを勤めていて、辞めてしまった子がいたんですけど、その子が、お腹がすいたのか、我慢できなくなって、食べてしまったんです。それを本部の人に見られて、問題になって解雇されました。
お 捨てるくらいなら、お腹すいているひとが食べたほうがいいよね。
あ そうですねよ。ケーキなんか、30分たっても、全然食べられるんですよ。それでも捨てちゃうんですよ。
し もったいない。
あ そういうケーキは持ち帰って、食べたほうが。
お 福祉施設に寄付するとかね。お寿司は問題かも知れないけどね。
あ たまに、店長が気をつかってくれて、いつも頑張ってくれてるといって、寿司を買って、みんなに食べさせてくれたとことはありますね。今日は河童巻きもらったから、食べていいよって、感じで持って帰ります。

趣味

お 趣味とかは。
あ 運動と映画観賞が趣味です。映画はいろいろなものをみます。
お 映画館に行って。
あ はい。一人映画は平気です。この前やっていた、アメリカンスナイパーとか、ああいった洋画、アカデミー賞とった映画はどういう映画なのかって、評論家きどりで、いくんですよ。よかったなあ、とか、ちょっと微妙だとか、俺にはわからなかったなあ、とか、評価を自分でしていますね。自己評価ですけど。
お 批評書いて映画雑誌に送るとか。
あ ははは。そういうのって、できるんですかね。
お できるよね。だって、読者欄とかあるでしょう。採用されるとお礼もらえるし。
し お礼いいじゃん
あ そこまで考えてなかったんですけど。まあ、趣味程度ですね。それをしていると落ち着くとか、ストレスもなくなりますし。大学にはいってからは、本を読むようになりました。
し トレンド嫌いなんで。全部きらいなんで、最近はまっているのは、レベリング、キャラのレベルあげるというのが好きです。
あ こつこつやるのか。
し ずっとこつこつやっているとか、2、3時間ずっとやっているとか、プヨプヨとかも一人でやっているのが好きです。

game
お トレンド嫌いなのはいいけど、それなら、シェイクスピアみたいなクラシックの世界にいったら。
し ないですね。
お ないですねではなく、勧めているんだけど。(笑)
あ ははははは。
し 文体が翻訳文体がすごく苦手で。
お じゃ、源氏物語で。
し 読んでみようとは思いますけど。
お トレンドの正反対でしょう。
あ 源氏物語を面白く書いているのもありますね。ああいうのからはいっても全然いいと思うんですけど。
し 本も読むことは読むんですけど、有川浩みたいな、ああいう軽めのが好きで。
お それトレンディじゃないの。
し たまたま漫画をよんで、この人が好きってなると、その人の全部読むんですよ。だから、有川浩とか、宮部みゆきとか、読んでいます。自分的には流行には左右されていないです。

大学への注文

お 大学への注文はありますか。
あ 注文したいのは、学食を大きくしてほしいことです。学食が大きければ、喧嘩なんかもなくてすむと思います。
お 喧嘩がおきているの?
し 席のとりあいなんかあるよね。
お 教室で食べるとかは。
し 教室で、自分で買ってきたものを食べる。
お 学食の料理を教室に運ぶというのは。
し している人はしています。でも食器返すのが面倒くさい。
お 僕の大学のときの食堂からすると、こっちのほうがまだいいなという感じ。食券買うだけで、ずっと並んでいたような記憶がある。あれで、よく食べられたなあと。
あ 小学校免許とっているひとには、単位制限をとってほしいですね。自分で授業を組んでいくスタイルでいい。4年時に暇にしたいということではなくて、4年時につめたい人はつめていいし、そこらの調整は自分で行うようなカリキュラムにしたほうがいいなと。
し いままで緩かったじゃないですか。3年生になったときに、一気にきつくなっています。
あ 制限設けるのはいいですけど、32とか34くらいまでにしてほしいです。

お 今日はどうもありがとうございました。

 

卒業生インタビュー2 西井文子さん(仮名)1

今回は、人間科学科の在籍でしたが、現在臨床心理士としてカウンセリング業務に携わっている西井文子(仮名)さんにお願いしました。ただ、カウンセリング業務といっても、個人情報管理を厳しくしなければならない内容なので、職場名は出さず、名前も仮名にしました。西井さんは、太田ゼミ卒業生では二人目の博士号を取得しました。

−ドクター号取得おめでとうございます。
西 ありがとうございます。よかったです。
−大分苦労した?そりゃ苦労するよね。
西 修士までとは違うなという感じでした。
−スクーリングのようなものは?
西 それはなかったです。インターネットを使った授業で、録画された授業を聴講するんです。授業全部ではないのですけど、最低限のものはとれます。先生から課題が渡され、授業をみないと分からないような問題に答えるとか、レポートを学年末まで提出して、成績がつくというやり方でした。
−論文を書く前に単位をとっておく必要があるんですか。
西 はい必修科目や選択科目があるのは、学部と同じです。最低20単位必要でした。

高校時代、文教大学を選ぶきっかけ
−将来何になろうと思ったとか、どんなことを考えて、文教大学にきたんですか。
西 私はもともと大学に行く気がなくて、ずっと動物看護士になりたかったんです。そのために専門学校にいくことを中学生の頃から思っていました。専門学校も自分のなかでは決まっていたんですが、高卒でないと入れないというので、高校にいきました。高校3年になると、各大学の先生が一同に介して、体育館で説明会をする日があるんですよ。2コマあったんですが、全員参加しないといけないと言われて、自分のいきたい専門学校の説明をうけて、専門学校一本なので、抜け出そうと思ったら先生に見つかっちゃったんです。「どこにも行きたくないので部活に」と騒いでいたら、「どこでもいいから聞きなさい、そこ椅子があいている」と言われて、誰もいない大学のところに座ったのが、文教大学だったんです。

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−先生が来ていたの?
西 今思えば、先生なのか、事務さんなのか。人間科学部ではお会いしていないんですけど、50代くらいの男性が、座っていて、誰も生徒はいないから、よほど暇な大学なんだな、人気がないんだなと思ってました。座ってないと先生に怒られるから、おじさんと世間話をしようって。おじさんの方も、その経緯を見ているから、私が行きたくないのは分かっているんです。そのおじさん、すごく素敵な方で、「ちょっとお話して、時間つぶしましょう」という感じで、「何か大学興味ありますか」「興味ないんですよ」「ああそうですか、興味ないんですよね。でも大学生になると、一年のうちに6カ月も休みがあるんですよ。」「6カ月ですか!」って、そんな調子でした。
−当時はそうだったからね。
西 6カ月休みというので、すごく惹かれて、お話をしました。「うちの大学は、他の学部の授業を受けても、卒業単位になるから、比較的自由に自分の好きな勉強をして過ごせるんですよ」というので、「ああそうなんですか、楽しそうですね」と、こういうところもあるんだなあと、初めて大学が視野に入った瞬間でした。
−教室に分かれてやったんですか。
西 体育館にですね、ブース。
−ブースに誰もいなかったということね。
西 はい。会が終わったあと、担任とか親が強く大学にいくことを勧めたわけです。専門学校に行ってもいいけど、大学を終えてからでも行けるというので、「半年遊んでいられるのか。動物看護士になると、すごく忙しい。忙しい専門学校のあとすぐ社会人になるよりは、暇な時間に旅行なんか行けるし、大学に行ってみようかと思ったのです。でも文教大学しか知らないから、じゃ文教大学に行きますって、志望したんです。でも、後で分かったんですけど、わたしのときブースにいなかったは、人気があるからみんな第一志望で、一コマ目に行ったからで、そのときはブースにあふれていたんです。そのあと、進路指導に、文教大学に行きますって言ったら、みんなにとめられて、うちの高校から、過去5年か3年、誰もいった人がいない。受けた人はいっぱいいるけど、全員落ちている。私は高校の中でも成績がほんとうに下の下の下だったので、西井が受かるわけないから、やめなさいって、とめられました。
−それが何月ころ?
西 夏休みあけですね。夏休み中は吹奏楽部の全国大会に出ていて、受験する気なかったんです。そこから予備校に通いはじめたんですけど、普通に勉強しても間に合わないだろうと思って、浪人クラスにはいりました。代ゼミの浪人クラスってみんな必死だし、ぴりぴりして勉強しているじゃないですか。
−浪人生っていったら昼間だよね
西 浪人生といっても、コース全部ではなく、夜の部だけで、特に、歴史をやらなければならなかったので、そこから、すごく勉強しました。
−いざやるとなるとやるタイプだよね。(笑)
西 おいこまれると。(笑)
−一般の学力試験で入った?
西 A日程で3日間全部受けたんです。初日が補欠で、2、3日は合格でした。私の高校から5人くらい受けたんですけど、合格は私だけでした。人間科学部については。私は人間科学科の人間教育コースに所属しました。
−大学ではブラスにはいっていないですね。
西 高校のとき、すべての時間を部活に費やしたので、自由な時間をつくろうと思って入るのをやめました。結果的にバイトに熱中してました。(笑)和食レストラン藍屋です。

ホルン

 

大学に入学して
−大学時代はどういう勉強をしていましたか。
西 あまり勉強してないですね。必修はちゃんと受けていましたけど。当時は、資格取得をしなければ、2年生になると、ほとんど授業がなくて、週2日くらい行けば単位が足りていました。教職の資格をとっている人は大変そうでしたが。1年のころは、5限まで授業出ていましたけど、2年では暇でした。あとは興味がある心理学系の授業を聴講していました。
−臨床心理学科の秋山(邦久)ゼミを希望したの何故ですか?
西 本当に不純な動機なんですけど、私が、仲のよかった高校の吹奏楽部のお友達が、臨床心理学科を受けたんですね。その人は落ちてしまって、私はその時点で、臨床心理士が何かもわからなかったんです。大学に入って臨床心理学の授業をとって勉強しているうちに、こんなもんだということがわかってきて、友達がなりたかった臨床心理学をもう少し勉強してみたくなったんです。
−そういうことだったの。
西 自分が臨床心理士になれるとは全く思っていなかったんです。たくさん勉強して大学院に行って、その後更に試験を受けなければいけないから、高校からずっと成績が悪かった私が、そんなことができるとは思わなかったです。秋山先生って、現場から来たばかりじゃないですか。だから、学生にとって刺激的ですよね、面白いよな、友達が何故なりたいと思ったのか知りたいなという程度だったんです。
−じゃ、特に臨床心理士になりたいわけじゃなかったんだ。
西 はい、なりたいわけではなかったです。
−じゃ、秋山ゼミ落ちて、僕のところにきたから、この人は、臨床やりたいのだろうと思っていたんだけど、錯覚したということなのかな。
西 興味が全然ないというわけではなかったけど、臨床心理士になりたいというのではなかったです。太田先生のゼミに入ったときにも、動物看護士になる気まんまんでしたから。だから、秋山ゼミで臨床心理はどんなものかみて、動物看護士になろうと、ほんとうにモラトリアムしていただけという感じでした。
−そうなんだ。そういう話しって、僕にしたっけ?
西 動物看護士になりたいということは、言いましたよ。専門学校は確実に伝えて、4年生になって、ゼミに入ったとき「将来どうするのか」と聞かれて「専門学校にいくんです」と話しました。「社会勉強のために就活ちょっとやっているけど、本当に受からないし、このまま専門行きます」という話をしていました。
−就活もやっていたんだ。
西 やってました。ふざけた学生ですね。全部落ちましたけど。厳しさ知りました。つらかったです。なんで落とされたのか教えてくれないし、ほんとうに人格否定されたような感じでつらいもんだなって。でも、「どうせ、専門学校に行くんだし」って逃げていたら、「そんなに時間があるなら臨床心理学の勉強をしたらどうだい。」って、先生に言われて、それで勉強しだしたんです。
−そうなの。では、秋山先生に断られて、僕のところにきたのは、どうして?
西 太田先生の授業で、サドベリバレイの話なんかが興味があったんです。大学に入る前から、子どもたちのキャンプなんかやっていて、そういうことには、興味あったんですよ。子どもたちの体験などに。−でも、卒業論文でやったのは、「絶対音感」だったよね
西 そうですね。なぜ「絶対音感」やったんでしょうね。
−ブラスバンドだったからでしょう。
西 そうですね。音楽に興味があったんですね。

大学院受験のこと

−僕は西井さんは、秋山ゼミに申し込んだのだから、臨床心理士になりたいのかなと単純に思っていたんだけど、勘違いだったというわけなのか。でも、臨床心理の大学院にいく気持ちになったのは何故ですか。
西 そうですね。就活でさんざん落とされて、わけのわからない烙印押されている気持ちになっているときに、大学院でも受けようかと文教以外の大学院を軽い気持ちで受けたんですけど、それも落とされて、かなしい気持ちがくやしさに変わって、それから懸命に勉強するようになりました。最初は就活から逃げたかったというのがあったですね。就活はどうしたら受かるかわからないけど、大学院は勉強すれば受かるんじゃないかという気持ちがあって、それで大学院に受かれば、就活に落ちたというのも補填ができるかなと。
でも受けた大学院が全部落ちてしまって、来週には文教大学卒業式という時点で、何も決まっていなくて、浪人せざるをえない状況だったんです。その時、秋山ゆたか先生からA大学大学院の募集の口があるから行きなさいって言われて、臨床心理学科で、A大学大学院応募のとりまとめをしていた進藤先生の部屋に行ったら、私が臨床心理学科の学生ではないのでと断られてしまったんです。
−最初一人で行ったの?
西 はい、最初ひとりで行きました。そのまま太田先生のところにいって、「断られました」って言ったら、一緒に進藤先生のところに行ってくださって、「臨床心理学科が条件でないなら、受けられるでしょう、この人は秋山ゼミを志望していたし、臨床心理の授業はかなり受けているので、力はあるから受けさせてほしい」と言ってくださって、進藤先生が受験推薦名簿に加えてくださったのです。あのとき、文教から6人くらい受けて4人受かったのかな。
−ああそうなの。落ちた人もいるの?
西 はい。3次募集で、20人くらい、意外といっぱいいました。全員は受からないなと思いました。半分以上は落ちましたね。
−あれは自動的に受かる推薦なのかと思っていたんだけど。
西 私もそう思っていたんですけど、違いました。

大学院時代

−いろいろと錯覚がありますね。(笑)大学院時代はどういう勉強をしていたの。
西 まず基礎ができていないので、入学式のときに、あなたは他人の3倍勉強しなさいって言われました。でも3倍もなにも、課題が忙しくて、必死でしたね。
−宿題がたくさんでたの?
西 はい、でもついていきました。全部の授業が最初には分担をいわれるだけで、2回目からは分担者が発表形式でやっていくものばかりだったので、常に自分が分担している課題が5個以上あるような生活でした。毎日、授業やって、研究室に帰って課題をやって、レポートをやって、また授業にいって、また英語を和訳しなければいけなくって、毎日、研究室にぎりぎりの9時まで残ってやっていました。そして翌日また、朝8時くらいにきてという生活でした。あの2年間はよく勉強したなあと思います。
−一期生だよね。
西 一期生です。先生たちが張り切っていたこともあるんですが、実は、先生たちはすごく不安で、私たちが入った時点で、認可がおりていなかったんですよ。認可がおりるかもわからない、また、おりたとしても、臨床心理士受験の認定の一種か二種かもわからない。入試の時点で、もし認可がおりなかったから、あなたたちは、ここの大学院にいても、臨床心理士の受験資格はえられない。それでも学校を訴えませんかって聞かれたくらいなんです。だから、先生たちは、認可をとるために、学習状況がいい、きちんと実習にいっている、問題をおこさないとかをすごく気にかけていたし、第一期生がもし臨床心理士試験を受けることができた場合、合格率が80%を超えるとか、いっぱい目標があったんですね。だけど、集まったのが、認可がおりていない学校、しかも卒業式間際の受験でくるような人たちなので、あとからいわれたんですけど、「あんな馬鹿ばっか集めてどうするんだ」というようなくらい、みんなお馬鹿さんだったんですね。それで、鍛えていただきました。でも、結果的には、今10期生くらいまでいるんですが、一期生が一番合格率高かったんですよ。
それから、そんなギャンブルなことをするくらいエネルギーのある子たちが集まっていたんですよね。だから、すごく積極的で。授業中も分からないことばっかりなんですよ。ほんとうに初歩的な質問をするんですけど、それは別に恥ずかしいとは思わない。何度も何度も分かりません、分かりませんって、前期授業でわからなかったら、後期も受けさせてもらって、次の学年に混じって、「わかんないんです」と声を大にして言ってました。先生たちは、最初はあまりに馬鹿でこまっていたみたいなんですけど、だんだん、かわいくはなってきたみたいですね。(笑)後輩たちは、基礎ができていて、だからあまり質問もしなくて、優等生っぽいんですよね。