太田ゼミインタビュー(あくゆうちゃん・しず)1

今回は、一見まじめで実際にまじめで一生懸命取りくむあくゆうちゃんと、一見ふまじめなのに実はとてもまじめで課題をしっかりやっているしずさんふたりです。

小さいころ

お 小さいころどんな子どもだったのでしょうか。
し 記憶にないですね。
お 記憶を抑圧したいということですか?
し 単純に覚えていないですね。断片的なので。
あ やんちゃな子だったですね。それから親思いでしたね。親に対して何かできることはないかって。
お 親にやってあげたいと。
あ 小学校一年生のエピソードなんですけど、親にいつも学校にいくとき見送ってくれて、それが自分でうれしくって、それに対して、こたえてあげたいという気持ちがあって、おかあさんに、たんぽぽのプレゼントをしようと思っていたんですよ。帰り道にたんぽぽが咲いていたので、それを、たくさんつんで、おかあさんにもっていこうとしたんですけど、ランドセルにつめて、もって帰ったら、ランドセルがよごれちゃったんですよ。それに対して、親がすごく怒って、それでショックだったというのがあります。親を喜ばせようと思ったのに、怒らせてしまったというのが、印象的に残っています。
お 説明はしたんでしょ?
あ 説明はしました。けど、やはり、ランドセルにいれることはないでしょうって。(笑)
お もう少しわかってほしかったなあと。
あ そうですね。

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お それ以来、そういう親切心はやめたの?
あ へへ。小学校6年生までは、トラウマがあって、6年生になって、母の日に花をあげるまでは、そういったプレゼントをしようという気持ちにはならなかったですね。
お 手伝いとかは。
あ 手伝いはしていましたね。父親が車好きで、毎週日曜日には洗車を手伝いましたね。
お 洗車は毎週するんだ。
あ しますね。
お いつもピカピカで。
あ ピカピカですね。雨降ると、父親は雨降っちゃったかって。
お よごれちゃうかと。うちと逆だよね。雨降ると、これで洗車されたって、喜ぶけど。(爆笑)
し うちは洗車すると、次の日に雨がふるというジンクスがありました。母親が洗車すると絶対次の日が雨で。
お 思い出しましたか。
し あまりなくて。幼稚園のときには、家で遊ぶ。外で遊ぶのではなくて、なかで遊ぶ。人形遊びがすごく好きで、おもちゃがいっぱいあったので、おもちゃでずっと自分の世界で遊んでいました。
お まわりは市街地だったの?
し 住宅地でした。まわりは家しかない感じでした。
お 公園とかは。
し それはあったんですけど、人が時間帯によって、あまりいなかったり、ほんとうにまわりに家しかないし、暗かったので。
お あやしいおじさんがいるから、遊ぶのやめなさいって感じですか。
し もともと外があまり好きではなかったんです。おもちゃがあったので。大きな家とか、レジ台とか。部屋にもジャングルジムとかブランコがあったんで、自分でしか遊んでいないです。

小中時代

お 小中くらいのエピソードは。
あ いま振り返ると、小学校のころは、すごく褒められたいと毎日思っていた子どもだったと思います。先生から「よくてきたね」と褒められるのが、生きがいといったら言い過ぎかも知れないですけど、今日も褒められたいな、なにかいいことしたいなっていう風に思って、毎日過ごしていましたね。その気持ちは、中学校にいったら、すこし反抗期で、素直になれない場面はあったんですけど、基本的には、何か褒められたいというのは、小中通して変わらなかったと思います。
お 褒められたいという気持ちはどこからきたんですか。本能ですか。
あ 僕の場合は親ですかね。いいことをすると褒められることが、強かったと思います。僕の家庭では。
お いいことをすると褒められて、悪いことをするとしかられる。
あ しかられます。
お それでよく褒められていた。学校で。
あ 学校ではよく褒められていました。
お 掃除をよくやるとか。
あ それもありますし、教室のごみを率先して拾ったりすると、先生が最後の帰りの会の場面で、「あくゆうちゃんは、ひとがやっていないところでごみ拾ってました」って言って、みんなの前で褒められる。そんなことが、自分のなかではうれしかったというか。快感だったと。
お あいつ、いい子ぶっているっていうような感じはまわりになかったの?
あ いや、それを聞いたら、僕も褒められたいという子どもたちが多かったので、だから、どっちがたくさん褒められるかというような。
お 褒められ競争。
あ そうですね。褒められ競争があったと思います。
お いじめなんかなかったの。
あ いじめというか、口が悪い子は、先生が徹底的な指導をしていたので、口の悪い子は省くというと、言い過ぎですけど、ちょっと、あの子悪いよねという雰囲気はありましたね。
お それは、いじめではないの?
あ いじめではないですね。ただ、家庭の事情でこれなくなっちゃった子はいるみたいですけど。
し 弟は、小学校低学年くらいまではかわいかったんで、家で弟の面倒をよくみていたんですけど、もともと、家の家事を手伝うほうではなくて、小中全然手伝わなくて、ただ、外ずらはよくて、外ではいい顔していましたね。
お ちゃんとお手伝いしているのよという雰囲気を、外ではだしている?

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し いやお手伝いしているかではなく、比較的いい子を装っている感がありました。
お そういう自覚があったの?
し あまり自覚はないですね。担任から、「外ずらいいよね」という感じのことを言われて、「あれ、そうかな」みたいな。自覚はなかったです。
お その先生は、内の顔は知っていたということ?
し 普段のちょっとした行動にでていたのかなあと。中学は、とにかくいい成績とりたいために、とりあえずあいそ振りまいていましたね。
お あいそ振りまくと、成績よくなるの?
し 関心意欲態度をあげるために、勉強はとりあえず頑張るしかないと思って、とりあえず関心意欲態度あげようと思って、先生には、いい風をしていました。
あ 内申点だよね。
し そうそう。
あ 内申点45点満点でつくじゃないですか。ひとつの教科で5点満点で。関心意欲態度で、いい評価がつくと、テストで点数が悪くても、先生が考慮してくれるという。たとえば、90点以上じゃないと5はつかないけど、関心意欲態度がいいと88点でも、日頃頑張っているから5にしてあげようというのは、僕の中学ではありましたね。
お そういうの、今教育的に考えると、どう思いますか。
あ 今考えると、その子のためになっていないと思いますね。
お なっていない。
あ はい。
お そうやって頑張ったことは、今にいい感じでつながっているのか、あるいは、偽善者だったという反省なのか、どっちです。
し そのときは、それが普通だったんで、なにも思わなかったですが、今にそれがつながっているかというと、つながってはいないですよ。そこで分断さている感じです。高校からはまったく気にしなくなったので、やった高校生だ、みたいに。
お じゃ一種の偽善者だったということになりませんか。(笑)
し そうかも知れないですね。(笑)とにかく、中学が嫌だったんで、そこから離れたかったんです。そこから離れるためには、いい成績をとるしかないと思っていたんです。
お でも時期がくれば離れられるじゃない。
し ある程度成績がないと、レベルの高い高校にいけない。レベルの低い学校だと、うちの中学からいく人が多かったんです。
お 中学の雰囲気を断ち切りたいということ?
し そうです。同じ高校では、うちの中学が3人だけだったんですけど、みんな同じような感じでしたね。
あ そういう気持ちはわかりますね。想像できる。そういう人が僕の中学もにいた。
お 中学校時代はどうでした。
あ 中学校時代はひたすら部活を頑張っていました。陸上をずっとやっていましたね。ひたすら。うれしかったんですよね、頑張りが記録に形として残るということが。自分が成長している感が、陸上の記録で実感できるという面が、自分のなかでは快感だったですね。

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お 陸上は、一番それが強いかも知れないね。
あ そうですね。
お 球技なんかだと、たまたま相手がもっと強ければ、いくらこっちが頑張っても負けてしまうとか。走るというのは、自分の努力の直接の反映だよね。記録だから。それで陸上を選んだの?
あ 陸上選んだのも、小学校の陸上大会をやった際の先生の勧めもありまして、もともと小学校のときには、親に通えといわれたスイミングスクールで、水泳を極めていたんですけど、小学校の先生から「陸上もいいよ、水泳と陸上は、個人競技といわれていて、記録が形としてでるから、似ているから、陸上もいいんじゃない、センスあると思うよ」という言葉をいただいたので、中学校には、陸上で活躍している先輩たちがいたので、「あ、俺もああいう風になりたりない」ということで、選択しました。

高校時代

お なるほど。高校時代は。
あ 高校も陸上をそのまま続けていたんですが、高校のときに初めて、先生と考えが合わなくて悩んだ時期がありました。
お どういう風に合わなかったの。
あ 指導者は、子どもの状況とか、コンディションを常にみるんですけど、高校の顧問は、子どもの様子に応じてやるのではなくて、自分の教え方を忠実に守る方だったんです。同期がけがをいっぱいしたので、みんなが、先生に対して、「やはりあれはやり過ぎだ」と言ったんです。僕たちのことをしっかりみて練習メニューを組んでほしいし、言葉をかけてほしいと思ったんです。そういうことで、高校3年間は、陸上関係でちょっと葛藤がありましたね。
お 葛藤があって、どうしたの?
あ 先生に歯向かってしまうと、大会に出れらないので、陸上競技をやっていたいという決心があったので、先生のいいなりといいますか、少し我慢して、強くいえなかったという感じでしたね。
お みんなで言おうとかにはならなかったの。
あ いいました。でも、先生は、俺のやり方は間違っていないと。先生自身もインターハイ全国大会に高校時代出ていた実力者らしくて、まわりの先生からも評価はされている人だったので、なんともいえなかったんです。
お 高校時代の勉強は?
あ あまり裕福ではなかったので、親には国立にいけっていう無言の雰囲気があり、高校2年生のときから、地元の埼玉大学の教育学部を受験しようと思って、日々勉強していましたね。
お それは残念ながら、だめだった。
あ はい。体育専修受けたんですけど、だめでした。そこで一浪しようと思ったんですけど、高校の担任の先生、早稲田大学出身のベテランの文学部チックな先生だったんですけど、その先生が、文教大学の人間科学部受験しなさい、と。メリットとかよく知っている先生で、教育に特化するのではなくて、人間的にいろいろな教養を身につけてやったほうが、絶対にいい先生になれるよ、ということで、推してくれました。センター利用で願書をだして、こちらにきました。
し すごい。
お なるほど。先生になろうと思ったきっかけは
あ それは、小学校のときから、中学、高校を通して、総合的に思っていました。先生に、救われた面もありましたし、先生に嫌悪感いだいたこともありましたし、自分だったら、こうしたいと思ったんですね。
し 高校時代はとにかく遊びほうけていました。(笑)
お なにか、ポジティブな感じしないよね。(笑)
し 超ネガティブですよ。勉強すごくできなかったので、嫌なことあったんですけど、それ以外は、全然問題なく、青春という感じでもないけど、遊んで、一番楽しかった
お 遊びって何?
し 買い物したり、カラオケとか。
お 買い物するには、お金がいるでしょう。
し ウィンドーショッピングです。町田が近かったので、町田にでたり、大和にでたり、ぶらぶら遊んだり、友達の家でだべったり、けっこうみんなで、特になにをするわけでもないけど、しゃべるのが好きだったんで、しゃべったり、カラオケにいったりしていました。
お 太田ゼミと大分遠いイメージだよね。(笑)
し そうですね。(笑)まじめさはないですね。ほんとにネガティブで、中3のときには、鬱じゃないですけど、不登校でしたね。中2と高2の担任がいやで、不登校になり、中3で、勉強云々でいやで、不登校気味になったのを、高校で、ようやく、なくなったんです。高1と高3が同じ担任で、すごく放任主義で、高3の面談など、「僕に相談したい人だけ来てくれ」というような(笑)。強制しないから、4月の2者面談以後、相談していない人は、一切相談していない、私もしていないんです。中2と高2のときには、ほんとうに束縛するんですよ。あれしないさん、これしなさいって。それで不登校気味だったんですけど、それがなくなって。ずっと図書館司書なりたかったんですけど、将来就職するとき、現実的ではないなと思って、では、何しようというとき、突然教師がぽんとでてきて。じゃ教師になろう、みたいな。適度に生徒に接する先生って、ほんとうに好きで、そういう教師になれたらなあ、と思っています。
お 熱血教師はだめなんだ。
し 熱血はだめですね。わたしが受け入れられないです。
お なぜ突然教師になろうと思ったの。どこからきた?
し 大学にいった自分を想像したんですよ。数学ができないから、理系はないな。
お 経済もないね。
う そう。それで、政治って興味あるっていったら、全然ない。歴史には興味あったんですよ。だから、一応歴史学科受けたんですけど、落ちたんです。でも今思うと、歴史もそんなに好きなわけではなく、趣味程度。教育学部だと、予想が自分のなかでいいなって思って、友達に、教育学部志望の子がいたんで、一緒に教師めざそうかなあという感じですね。だから、小学校というのでもないんです。特別支援の先生になりたいと思ったときに、女子大は無理だと思ったので、文教と、あと3校くらい受けて、ここだけ受かったんですね。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。