昨日のフルトヴェングラー「ドンジョバンニ」に関する文章を書いているとき、ドンナ・エルヴィラが、シュワルツコップからデラ・カーザに交代した点について、それまで知らなかったので、大いに関心をもった。フルトヴェングラーは「ドンジョバンニ」をザルツブルグ音楽祭で、晩年3年に渡って上演しており、そのいずれもライブがCDで販売されている。最後が1954年であり、そのメンバーで映画が撮影された訳だが、どういうわけか、常にドンナ・エルヴィラを歌っていたシュワルツコップが、映画では起用されなかった。いろいろと調べてみたが、その理由がわからない。そこで、いろいろと想像してみたくなった。この文章は、あくまでも私の推測にすぎない。
月別: 2022年1月
フルトヴェングラーのドンジョバンニ
きちんとは見ていなかったフルトヴェングラーのオペラ映画『ドンジョバンニ』を視聴した。言う必要もないほどの有名な演奏だし、フルトヴェングラーのオペラがカラー映像で残っているというのは、貴重なものだ。1954年、フルトヴェングラーが亡くなる少し前に制作されたものだ。しかし、どのような経過で、どのようにして撮影されたのかは、かなり不明な点があるようだ。カラヤンの『バラの騎士』は、実際の公演をライブ録音し、その録音を元に、あとで映像のみを撮影したとされている。ライブ演奏でミスなどなかったのかどうかわからないが、あったとしても、訂正することは可能だったろう。シュワルツコップが出演したのは、映画用の一回だけだが、他のメンバーがほとんどおなじで、数回の公演が行われたし、その録音もとってあったから、必要ならそれを使えばよかった。
医師殺害の罪を重くできないか
最近ありえないような事件が立て続けに起きているが、この事件は最も痛ましい、また犯人に腹がたつ事件だ。
90歳を超える母を一人で看護していた60代の息子が、在宅医療の担当者を人質にしたあげく、殺害していたという事件だ。被害者は、地域の在宅医療の中心的な人物で、8割の患者を担当していたという。私の義母も在宅医療を最後まで続け、我々夫婦もできることなら入院はしたくないと考えている。しかし、私自身は、在宅医療が必ずしもベストだとは思っておらず、医療以外の要素も含めて、患者や家族が、入院か在宅を選択できるのがよいと思う。在宅で看取るのは、いろいろと制約があるし、在宅医療に携わる医師が多くないという、いろいろと困難な状況があるなかで、今回のような事件が起きると、当然医師側でより在宅医療を躊躇する意識が強くなるに違いない。
共通テストの不正再論 本当にスマホを使ったのか
入試問題を研究してきた人間として、今回の事件は、注目せざるをえない。やったという本人が現れて、一部手口が報道されている。それによると、スマホを袖口に隠して操作したということと、一人でやったと白状しているというのだ。昨日、スマホを使ってやるのは、99%以上の確率で不可能だと書いたので、再度書かざるをえないと考えた。
正確なことを公表すると、まねする受験生が出る可能性があるから、本当ではないやり口を公表したという可能性はあると思う。当初は、やりくちは公表しないのではないかという憶測も流れていたから、ありうると思うが、そうだとすると、やはり、私の想像した手口は異なる。
とりあえず、スマホを袖口に隠して操作したということだとすると、まず自白の信憑性を疑わざるをえないということだ。本人が手口を隠している可能性もあるが、それは警察としても、実際にやってみさせるだろうから、検証しているだろう。ただし、「一人でやった」というのは、かなり無理があるのではないか。
大学共通テストでの不正
大学入試で、これだけ世間を騒がせた不正は、久しぶりではないだろうか。私が若かったころは、毎年のように新手の不正が登場したものだ。いまだに記憶にある印象的なものは、当時刑務所で入試問題を印刷していたが、印刷にかかわっていた囚人が外と連絡をとって、休憩時間にラグビーボール(?不確か)のなかにゲラをいれて、塀のそとに蹴りだした事例と、さる有名女子大で、娘の代りに父親が替え玉受験したという事例だ。特に後者については、いまでも頻繁に話題になる。母親が替え玉になるのはわかるが、父親が娘の振りをするというのは、なんとも大胆だ。私の記憶では、すね毛が濃いことに不信をもたれて発覚してしまったのだが、黒いストッキングでもしていればわからなかったのに、と冗談に言い合ったものだ。
その後、受験生の入構チェックが厳しくなったとか、試験中の監督も厳しくなり、そうした不正は少なくなり、不正はほぼ私大の医学部に集中するようになっていた。ちなみに、大学紛争によって、入試粉砕闘争なるものが行われるようになる以前は、入試の最中でも、普通に学内にはいることができたものだ。そのため、いくつかの大学では、現役学生が学内に控えていて、入試が始まると試験問題を受け取り、急いで解答して、正解答集を印刷して、帰宅する受験生に販売するなどということも行われていた。これは構内にはいることができるため可能だったわけだ。
指揮者の晩年4 ロリン・マゼール
指揮者とオーケストラは夫婦のようなものだというが、一点違うところがある。求婚はオーケストラの側からしかできないという点だ。オーケストラは、団員を募集し、オーディションを経て団員となる。その試験は非常に厳しい。しかし、団員になれば、団員として安定する。(1960年代くらいまでの、指揮者に強大な権限がある場合には、指揮者から解雇されることもあったようだが)そして、オーケストラから、指揮者を選んで、オファーするわけだ。もちろん、指揮者からの売り込みなどはあるだろうが、それでも、指揮者側はオファーを受けるかどうかだけだ。ただ、オーケストラとしての意志は、どこで決めるかは、オーケストラによって異なる。理事会があってそこで決める場合もあるし、ウィーン・フィルのような自主運営団体は、オフィスから選ばれた委員が決める場合もある。
オーケストラからのオファーが確実だと誤解して、その後の10年間を鬱々として過ごしたのが、ロリン・マゼールだ。ただし、その後亡くなるまでは、再び活発な指揮活動をしたから、苦悩のあとの解脱ということかも知れない。
宮内庁の暴論と言論抑圧
1月24日に、宮内庁が、週刊誌報道に苦言を呈してたと一斉に報道された。
短い共同通信の報道を引用しておく。
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宮内庁は24日、秋篠宮家の長男悠仁さま(15)の高校進学を巡る週刊誌などの報道に対し「受験期を迎えている未成年者の進学のことを、臆測に基づいて毎週のように報道するのは、メディアの姿勢としていかがなものか」とする見解を公表した。
悠仁さまは現在、お茶の水女子大付属中3年で、今春に高校進学を控える。秋篠宮家の側近は21日の定例記者会見で、進学に関する週刊誌やインターネット上の記事への受け止めを問われ「現時点では具体的な説明は控えたい」と述べていた。
この「補足説明」として24日に文書を公表し、一部メディアに苦言を呈した。
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この姿勢は、今に始まったことではないが、極めて大きな問題をはらんでいる。この間の週刊誌の記事は、私もできるだけ目を通しているが、確かに多くは「憶測」による記事である。だから、私も利用するときには、憶測だから本当のことであるかはわからないという断りをたいていいれることにしている。しかし、憶測ではあるが、状況証拠のようなものはあり、もし、その憶測で危惧されていることが実現したら、由々しき事態であると考えるから報道しているだろうし、私もここで書いている。
支持されない皇室は存続できない 進学問題から見えること
悠仁親王が、筑波大付属高校に既に合格しているという情報や、これに関して天皇が秋篠宮を呼んで、苦言を呈したところ、秋篠宮は納得しなかったばかりではなく、主に動いているのは紀子だから、そっちに文句を言ってくれと言い捨てたというような話が、週刊誌などに報じられている。あいかわらず日刊ゲンダイだけは、皇族なのだから、どこに入ろうと当然だというような擁護論を書いているが、冷静に考えれば、こうした形で、将来天皇になるかも知れないひとが、国民の大きな反感をかいながら、学歴を積み重ねていくことは、将来の日本にとって、大きな損失をもたらすと考えざるをえない。もちろん、悠仁親王が本当に天皇になるかどうかはわからないし、その前に皇室典範が改定されて、愛子天皇の実現に動くかも知れない。しかし、現政権は秋篠宮、悠仁親王という路線を、現時点で変更していないから、可能性はある。
では、なぜ将来の日本にとって損失となるのか。
指揮者の晩年3
フルトヴェングラーは、生涯純粋な音楽家である側面と、政治的である側面をもっていた。尤も、政治的側面は、政治世界でないところでの政治性はうまく機能したが、ほんものの政治世界では、逆に利用されていたといえる。
フルトヴェングラーが、音楽界、あるいはより広く芸術界で大きな存在になったのは、36歳という若さでベルリンフィルの常任指揮者になったことだろう。しかし、このときは、ほとんどブルーノ・ワルターで決まっていたような状況を、フルトヴェングラーの猛烈なロビー活動で逆転したと言われている。ワルターになったとしても、ナチス政権の成立とともに、追放されたろうから、その時点でフルトヴェングラーにお鉢が回ってきた可能性は十分にあるが、ワルターの音楽はウィーン・フィルとの適合性が高かったし、若い時期からフルトヴェングラーがベルリンフィルとの活動を積み上げていったことによる音楽的成果を考えれば、ベルリンフィル側がフルトヴェングラーを最終的に選んだことは、妥当だったといえるだろう。
指揮者の晩年2
チェリビダッケは、晩年はミュンヘンに落ち着いて、尊敬され、満ち足りた晩年を送ったように思われているが、本当にそうだったのだろうか。私にはどうもそう思えないのだ。本当に満ち足りた生活を送っていれば、同僚の、しかも世の中で大いに尊敬されている指揮者たちの悪口を、さんざんに言い立てるようなことはしないのではなかろうか。カラヤンやアバドなど、まったく無能扱いだ。クライバーが、天国のトスカニーニによる反論という形で、チェリビダッケへの反論をし、カラヤンを擁護したことは有名だ。たまたまその号のSpiegelをもっているので、大切にしている。チェリビダッケは、ドイツの大指揮者たちの多くが、ナチ協力の疑いで演奏を禁じられるか、あるいは亡命していたので、その間のベルリン・フィルの建て直しに、非常な努力をして、成果をだしていたが、次第にオーケストラとは対立関係になり、フルトヴェングラーとの関係も悪くなって、喧嘩別れのようにして、ベルリンを去り、その後は、ベルリン・フィルの指揮者だった人とは思えないような不遇ぶりだった。スウェーデンやシュトゥットガルトのオーケストラで常任を務めたが、いずれもトラブルが多かったと言われている。ミュンヘン・フィルに落ち着いたとき、チェリビダッケはかなり法外な要求(主に練習日数の確保)をだし、それをオケ側が飲んで、10年以上の関係が続いたわけだが、練習時間の確保やレコード録音をしないことなどによって、オーケストラの経営は赤字だったと言われている。辛うじて、放送だけはチェリビダッケが許可したので、関係が維持されたのだろう。そういう状況だったから、世評が高かったとしても、オーケストラとチェリビダッケの関係は、それほど良好だったとは思えないのである。