読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介

 『フルトヴェングラー』の続きになる。
 脇圭平氏と芦津丈夫氏による『フルトヴェングラー』が、フルトヴェングラーの非政治性を絶対視していたのと違って、本書『カラヤンとフルトヴェングラー』は、フルトヴェングラーを徹底的に政治的に振る舞った人物として描いている。
 ベルリンフィルの常任指揮者に若くしてなったときの政治力の発揮、そして、カラヤンに対する徹底的な排除活動が、この本の主題である。音楽的な分析は、ほとんどなく、ふたりの闘争史のようなものになっている。私は、フルトヴェングラーのカラヤン排撃は、戦後になってからのものだと考えていたのだが、本書を読むと、戦前のときから既に始まっていたのだとする。資料的に確認している(ただし日本語文献のみ)から、それは事実なのだろう。つまり、戦後のカラヤン排撃は、戦前の継続に過ぎないということのようだ。しかし、それが本当であるとすると、フルトヴェングラーの政治性は、やなりかなりピントがずれていて、まわりに振り回され、利用されたということにしかならない。 “読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介” の続きを読む

読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)

 クラシック音楽の聴き方に関して、「モーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる」という言葉がある。私の場合、確かにそれが当てはまる。子どものころ、我が家にあった古いレコード、当時は既にLP時代に入っていたのではないかと思うが、我が家には、手回しの蓄音機とSPレコードしかなく、LPを買うようになったのは、2,3年後だった。そこで、ブルーノ・ワルターのSPを何度も繰り返し聴いたものだ。そこにモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークとジュピターがあった。戦前のウィーン・フィルの録音だ。アイネ・クライネの演奏に関しては、いまだに、この演奏を越えるものを知らない。ただし、CDになったその演奏は、SP時代の潤いのある音質がなくなっている。SPは確かに針の音がはいって、聞き苦しかったが、回転数が速かったせいか、音そのものは悪くなかったのだ。とにかく、モーツァルトから始まったのだが、その後、ベートーヴェン、マーラー、ヴェルディとめぐって、やはり、モーツァルトが最高というところに戻ってきた。だからモーツァルト本は、できるだけ読むことにしていて、今回この本を読んでみた。 “読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)” の続きを読む

読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)

 大学を退職して、これから自由な研究ができると思っている。ただ、義務もないし、いつまでに何をということもないから、本当に気楽だ。ただ、大学では近年、研究倫理に極めてうるさくなっている。ネットで受講する研究倫理の講座と試験を受けなければならない。全員修了しないと、対文科省においてまずくなるということで、大学管理者は非常に神経質になっている。大学に迷惑かけるわけにはいかないので、修了したが、実際には、私の研究にはほとんど関係ないことばかりだった。実験したり、データとったりする領域では、倫理問題は重要であるし、特に医学や生物分野などは、人間や動物を扱うので、守らねばならない倫理問題は多数ある。そして、身近に自然科学の研究者がいるし、研究不正問題がその周辺で起きているので、他人ごとではない。 “読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)” の続きを読む

読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二

 皇室問題を考える一環として、西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワックKK)を読んでみた。この手の本を読んでいつも感じることだが、作者は本当にこんなことを考えているのだろうかと、どうしても思ってしまう。
 この著書は、今上天皇が皇太子であったときに、大きな衝撃を与えた「人格否定発言」に触発されて書いた文章と、その反応に対するコメント的な文章を集めたものである。ここで書かれたことは、現時点で考えると、明らかに誤解に基づくか、あるいは偏見に基づくものであったことがわかる。しかし、この発言を機に、一気に皇太子批判が起き、皇太子を退くべきであるという議論まで、公然と語られていた。この本は、そこまでの主張はしていないが、皇太子(当時)と雅子妃に対して、姿勢を改めることを強く要求していた。しかし、実際に代替わりのあと、事情はすっかり変わっている。天皇と皇后への批判はほとんどなく、称賛で埋まっているような気がする。私としては、それはそれとしてどうかとも思うが、西尾氏は、現状をどのように見ているのか気になるところだ。西尾氏のブログを見たが、コメントは何もないようだ。(ただし、youtube発言はチェックしていない。)
 雅子皇太子妃の病気に関して、西尾氏が触れている点をひとつだけ紹介しておこう。 “読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二” の続きを読む

読書ノート『芸人と影』ビートたけし

 ビートたけしの『芸人と影』を読んでみた。芸能人の不祥事とされる事件が相次ぎ、テレビでは頻繁に取り上げられているが、紹介文が、テレビの切り口とは相当異なるようなので、参考にしてみたいと思った。本気でそう思っているのかは、まったくわからないが、芸人は、立派な尊敬されるような存在ではない、昔からヤクザとのつながりは常識で、それは、自分自身もそう思うべきであるし、世間も芸人を思い違わないようにしてもらいたいという信条が出ている。だから、芸能人の不祥事について、要するに、世間の目も厳しすぎるし、当人たちも対応を誤っている。しかし、他方で、危ないひとたちとの付き合いに、無自覚であってはならず、一線を引く姿勢が大事だというわけだ。しかし、なかなか難しいという。反社会的人物がいる場に呼ばれて、食事をして、謝礼をもらった芸人が、お金をもらったことを当初隠して、傷口を広げたが、むしろ、本当にもらっていなかったら、その方が危ない。お金ももらわずに、出かけていくとしたら、それは友人であることの証拠なわけだという。 “読書ノート『芸人と影』ビートたけし” の続きを読む

読書ノート『見えない戦争』田中均

 田中均氏は、日米貿易戦争や北朝鮮による拉致被害者の帰国、そして、大韓航空機爆破事件などに関わった外交官である。国際問題、外交問題などについて、活発に意見提示をしているが、本書はその最新刊である。
 見えない戦争とは、戦火を交えるわけではないが、国家間、国家と企業、国家と個人、企業と個人等の間で起きている闘いのことだが、あまり効果的なネーミングとは思えなかった。こうした闘い、競争は充分に見えているので、わざわざ「見えない」などと形容する必要もないのではないか。とはいえ、本書で主張されていることは、特別なことではないが、極めて妥当で、繰り返し確認しなければならないことが多いと思った。
 まず、日本の外交が劣化しているという認識を前面にだし、外交が政治家としての宣伝の場になってしまい、実現しなければならないことが、一向に実現しない。官僚がしっかりとした強い政策をつくり、政治家がそれを責任をもって実行する、という外交の基本がおろそかになっていることを指摘する。それは、一種のポピュリズムであるが、日本でポピュリズムが台頭した要因は、冷戦の終結(依るべき価値の希薄化)、国力の相対的低下、北朝鮮の拉致問題(加害者意識から被害者意識に基づくナショナリズム)、アメリカという抑止力がなくなったこと、をあげている。 “読書ノート『見えない戦争』田中均” の続きを読む

読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む

 第二次世界大戦はどのような戦争だったのか。いまだに続いている論争である。歴史学的に事実を積み重ねれば、あまり疑いようのない歴史認識が形成されると思うのだが、運動や実践に関わっていると、ともすると、自分と同じ傾向の書物しか読まない、あるいは、自分に都合のいい事実のみ取り上げ、そうでないものは無視する。そうした傾向は、残念なから、まだまだみられる、あるいはますます強くなっている。私はできるだけ、自分と異なる立場の書物を読むことにしているのだが、この本もそうした種類のものである。
 著者の基本的な目的は、ポツダム史観、あるいは東京裁判史観と呼ばれるものを否定したいということにある。深田氏のような立場の人は多数いるわけだが、彼らの理解によれば、東京裁判史観とは、第二次世界大戦は、ファシズムと民主主義の闘いであり、ファシズム側が侵略戦争をしかけ、民主主義側がそれを防ぐ正義の戦争を闘って勝利したと解している。東京裁判は、勝者が敗者を裁くものであり、勝者が自分たちを民主主義、正義の立場にたち、相手が悪、つまりファシズムであったと規定するのは、ある意味当然であろう。日本がサンフランシスコ条約を受け入れたことは、この東京裁判の判決を受け入れたことを意味しており、国際社会における「建前」としては、それを「国家が否定」することは、サンフランシスコ条約を破棄することに等しい。ヒトラーがベルサイユ条約を破棄することを意味する再軍備やラインラント進駐などを実行したことは、歴史的事実であるが、日本政府がこれまで、サンフランシスコ条約を破棄する行為に出たことはない。しかし、政治家そして、保守的思想家からは、東京裁判史観を批判する見解は絶えずだされている。 “読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む” の続きを読む

読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社

 京都にある佰食屋は、食べ物好きの人にとっては、有名な店らしい。テレビや雑誌でも何度も紹介されているのだそうだ。私は、食べ物にほとんど興味がないので、まったく知らなかったが、週刊誌の本紹介欄に出ていて、面白そうだから読んでみた。もちろん、料理などではなく、経営理念に興味が沸いた。
 簡単に紹介すると、ステーキの店、といっても、ステーキ丼、ステーキ定食、ハンバーグ定食の店と、牛肉寿司定食、牛肉茶漬け&肉寿司定食、牛和風まぜ麺の店、すき焼き定食、味噌鍋定食、サイコロステーキ定食という、いずれも3メニューしかない3店のみである。いろいろ試行錯誤があったようだが、結局、一日100食のみ、しかもランチタイムのみという営業形態の店になっている。
 この本は、こうした店を開くきっかけ、開店から3年ほどの困難な時期、結局行き着いた営業形態、そしてそのメリットについて、分かりやすく書かれている。この店が、好評なのは、何よりも料理がおいしいからだろうが、(もちろん、私は食べたことがない。)本が面白いのは、型破りの経営を何故しているのかよく理解でき、それが実に新鮮だからだ。 “読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社” の続きを読む

読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一

 個性を伸ばすといっても、実際には極めて難しい。特に日本の学校では、言葉では言われても、実際には一定の方向にもっていこうとする、つまり、同質性を求める。おそらく、よい教育をしようと思っている人ならば、そうではなく、人間はみんな違うのだから、それぞれの個性、よさを伸ばしたいと思っているに違いない。しかし、それは本当に難しいのだ。まず、じっくりと育てる時間がなければ無理だろう。それに、それぞれ違うものをもっている子どもたちの特性や資質を見抜く力がなければならないし、それを伸ばす方法も、異なる特性や資質に応じて違ってくるはずである。それは教育する者に相当の力量を求める。
 だから、往々にみんなを同じ枠のなかに押し込むような教育が、横行してしまうことになる。現在のほとんどの学校では、教師と子どもは2年程度しか師弟関係にはない。そして、卒業していってしまう。その後のことはわからないし、また責任もとりようがない。本書は、宮大工の仕事を通してであるが、みんなを同じに促成栽培するような教育が、いかに間違っているかを教えてくれる書物である。教師の人には、ぜひ読んでほしい。 “読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一” の続きを読む

読書ノート『西洋の自死』ダグラス・マレー

 ダグラス・マレーは、イギリスのジャーナリストで、現在40歳。この著書は、2017年に公刊され、日本の訳は、2018年暮れである。2015年の稀に見る大量の難民がヨーロッパに押し寄せた事態を受け、その後それなりに落ち着いた時期に書かれたものである。著者は、難民たちとの対話のために、ヨーロッパのあちこちにでかけ、直接インタビューをしてきたという。しかし、本書にそれはあまり反映されているわけではなく、むしろ、ヨーロッパとは何か、イスラムがどのようにそれを失わせているかを、むしろ思考の産物として書いている。
 さまざまな情報が書かれているが、いわんとしていることは、以下のようなことである。 “読書ノート『西洋の自死』ダグラス・マレー” の続きを読む