ノート『天災から日本史を読みなおす-先人に学ぶ防災』磯田道史(中公新書)

 イタリアの歴史哲学者クローチェの有名な言葉に「あらゆる歴史は現代史である」というのがある。本書は、歴史書でありながら、現代史、あるいは未来史ですらあると感じさせる書物である。著者である磯田氏自身が、将来起きるかも知れない自然災害に、どう対処したらよいのか、それを今から準備するために必要なことを、歴史から学ぶという視点を貫いている。しかも、歴史的文書を丁寧に調査し、吟味しながら、当時の災害の起こり方、人々の対処のよかったこと、まずかったことを整理している。そして、ある災害には、こうしたことが必要だという教訓を、説得的に引き出している。最近、これほど役に立った感じを受けた本はなかった。

 
 最も強い印象と教訓を感じるのは、最期に出てくる岩手県普代の和村幸得村長の業績である。和村村長は、明治三陸大津波で、302名の死者をだした被害を聞いて育ち、なんとかしなければならいと感じていたが、自身が、昭和8年の三陸大津波での地獄を経験した。民衆地帯の家は一軒も残っておらず、周囲には死体が累々と重なっていたという。村長になった和村は、二度あったことは三度あってはならないという強烈な信念から、東京の有力政治家や専門家と協議を続け、防潮堤と水門を建設した。そして、そんな巨大なものは不要だという反対を押し切って、15.5メートルという高さの防潮堤と水門を作ったというのだ。そして、単に作ったのではなく、自然の状況を考慮して、どこに作るか、どのように作るかを、しっかり研究して建設したという。例えば、浜辺に近く作るのではなく、300メートル奥まったところにした。それは、ある程度津波が陸地に上がって弱まったところで防ぐという設計だった。また、水門の内側にある防潮林を伐採して、グランドを拡張してほしいという、若者からの要求は受け入れなかった。防潮林は必要だからだ。
 そして、これらがすべて機能して、東日本大震災のときには、あえて船を調べるために海辺にでかけてしまった一人を除いて、死者がでなかったという。
 他方、宮古市の田老地区では、10メートルの防潮堤をもっていたが、大きな被害を出した。
 普代村では、村長の歴史と科学を踏まえた計画と、反対があっても、計画の正しさを信じて、断固として実行したこと、そして、震災当日の関係者の献身的な活動によって、被害をほとんどださなかったということだ。きちんと、15メートルという「想定」があり、それが被害を防いだのだから、東日本大震災の津波の高さは、決して「想定外」ではなかったことを忘れてはならない。
 
 こうした成功例だけではなく、というよりむしろ、災害による悲劇がたくさん紹介されている。そして、そのなかでも、単なる自然災害の大きさによる被害ではなく、人の意識が被害を拡大した事例が少なくない点である。
 東日本大震災でも、強調されたが、津波がきたら「てんでんこ」が大事だと言われる。つまり、とにかく各人が必死で高台に向かって逃げろ、だれかを心配したり、忘れ物をとってくるなどして、戻ることは絶対してはいけない、という意味だ。
 しかし、江戸時代には、「孝」の観念が邪魔して、助からなかった事例が少なくなかったという。紹介されている事例は、高知での宝永大地震のときの、ある武士家族だ。家族7人で、高台を目指したのだが、一番遅い老婆の歩みにあわせて、ゆっくりと歩む。そして、12歳の子どもは、先祖伝来の刀を背負い、2歳の子どもを背負う兄弟もいた。そういうなか、ついに津波に飲み込まれてしまうが、みな、懸命になにかに捕まって助かろうとする。そして、幼い女の子を背負っていた父親は、母親(祖母)が流されそうになっているのをみて、親を救うために、幼い子どもを放り出して、親を助けにいったというのだ。結局、祖母、父親そして、語っている貞明の3人のみが助かり、他は流されてしまった。「てんでんこ」を実行していれば、若いひとたちはみな助かっただろうが、封建社会の親孝行の概念が邪魔したというのである。
 
 家康を滅ぼすべく準備していたときに、天正大地震がおき、すっかり恐怖心に囚われてしまった秀吉が、家康討伐を思い止まったので、徳川幕府が開けたというような逸話が、他にもたくさん出ていて、歴史の裏側を見る思いがする。しかし、この本の真骨頂は、やはり、個々人の残した資料を丁寧に読み解いて、災害のときに、個々人がどのように行動し、それが生命を失ったり、また助かったことに繋がった経緯を、具体的に示していることだろう。関東大震災や南海トラフ地震が近いとされている現在、多くの人が、どう行動すればよいかを考えながら、できるだけたくさんの人に、読んでほしい著作である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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