教育学について考える1

 9月入学問題での推移は、いろいろと考えさせるものがあるが、ひとつの驚きは、日本教育学会が、いわば迷っていた文科省や自民党に先駆けて、改革の反対を表明し、それに官庁と政府与党が追随したという成り行きである。これまで日本教育学会は、政府や文科省のやり方に批判的な声明を出すことが多かったが、今回は二重に逆になっている。与党や文科省に先立って見解をだしたこと、そして、双方が一致したことである。
 もうひとつ疑問であるのは、自粛要請がでていて、ほとんど外出できない状態で、学会の委員会は、どうやって意見集約をしたのだろうかということだ。政治家や官僚は「出勤」しているから、通常よりは不便かも知れないが、会議ができる。しかし、職場が違う研究者は、直接あって議論はできない。もちろん、オンライン会議がかなり普及してきたから、オンラインの会議をやったのだろう。それはよい。しかし、それだけインターネットを活用して会議をするのならば、学会所属メンバーに対して、意見を求めることだってできたはずである。もちろん、学会のメンバーである私に、そうした意見聴取はまったくなかった。学会事務局は、会員のメールアドレスを管理しているのだから、メールによるアンケートをするなり、あるいは、学会ホームページにアンケートページ、あるいは意見を書き込めるようにするなど(もちろんそのアナウンスは必要であるが)、いくらでも方法はあったはずである。簡単なアンケートでもよいのだ。厚労省は line を使って、健康状態の確認をしていた。最低限、学会のホームページに、意見があるものは申し出るようにとの措置はとれたはずである。

9月入学の実施はしない方向だが

 日本教育学会、文科省、自民党と立て続けに、9月入学の慎重論が出され、ほぼ実施されない方向が明確になったようだ。私は、橋下氏とはかなり考えが違うが、「断念だ」という思いは同じである。結局、ここに、日本社会で政治的、学問的リーダーシップを発揮している人たちの、思い切りの悪さ、現状改革への熱意のなさがよく表れている。私自身は、ずっと以前から、何度も9月入学にすべきであるという論を提起してきた。最初に書いたきっかけは、東大が9月入学計画を発表したことだった。すぐに同意した。しかし、そのときには、現実的に無理だろうと思っていた。というのは、9月入学に切り換えるのは、よほど大きな社会的契機がないと無理だからである。今回の新型コロナウィルスは、それこそ数十年に一度くるかどうかの、社会変革のきっかけとなるはずである。1990年代にヨーロッパに海外研修にいって、そこで生活してきた経験から、9月入学のほうがずっと合理的であると感じていたから、今回は絶好のチャンスであると考えたわけである。そして、充分に考えた末の結論でもあった。
 しかし、日本教育学会にしても、文科省にしても、自民党にしても、それぞれの立場で教育のあり方に、最も責任のある立場であるにもかかわらず、いかにもおざなりの検討しかせず、結局のところ、変えたら起きるだろうマイナスを強調して、4月入学や、3カ月休校だったマイナスの克服には、目をつぶってしまったのである。何度か書いたので、重複になる部分もあるが、これがおそらく当面最後なので、彼らの思考様式の問題を中心に考察しておきたい。 “9月入学の実施はしない方向だが” の続きを読む

東北大学で押印廃止 大学に無駄はたくさんある

 「東北大、学内手続の押印廃止へ 年8万時間の作業削減」という記事が掲載されている。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/東北大、学内手続きの押印廃止へ-年8万時間の作業削減/ar-BB14Jsjk?ocid=spartandhp)
 大学というところは、極めて非能率的な組織である。会議は月1で組まれているから、かなりの重大事件が発生しても、解決には2、3カ月かかる。通常はもっとかかり、改革をやろうと思えば、小さな改革でも2年くらいかかるのが普通である。教育機関は、あまり重大かつ緊急な問題は起きないから、それでとくに不便でもないという時代が続いた。しかし、少子化による全入時代に突入して以降、これまでのやり方を漫然とこなしているだけでは、大学としての存立そのものが危うくなりかねない状況になってきて、多くの大学は、大学独自の対応を進めていると思う。今回のコロナ問題で、こうした大学の非能率性は、かつてよりはずっと明確に浮き彫りになっている。会議にオンライン要素を取り入れていれば、以前だって問題対応能力はずっと高かった。私自身、なんどかそういう提案をしたことがあるのだが、必ず「会議は対面でやらなければだめだ」などという声が出て、実現しなかったのである。オンラインは、別にzoomのような会議システムを使う必要もなく、メーリングリストでも充分に機能する。いろいろなやり方があるのだ。オンライン会議も方法として採用されていれば、緊急事態が起きたときに、会議の日程が先でも、緊急会議を行うことができるわけだ。だから、解決が速やかになる。
 不幸中の幸いというか、コロナ問題で、ほとんどの大学がオンライン授業に踏み出し、会議のオンライン化を進めたようだ。これを単に、コロナ対策としてではなく、大学の作業の効率化として、日常的にシステム化すべきであろう。会議が対面でしか行えないと、緊急事態に関しては、解決を遅らせるか、あるいは、通常の手続を省略して、誰かに委任するかのどちらかしかない。対面以外のシステムを可能にしておけば、全員のコンセンサスを形成しつつ、速やかに対応することが可能になるのである。こうした認識が必要であろう。
 ついでに、私自身が経験した非能率的なことについて対応策を書いておこう。予め断っておくが、あくまでも能率の問題であって、正・不正の問題ではない “東北大学で押印廃止 大学に無駄はたくさんある” の続きを読む

民主主義を維持するコスト 京都アニメ放火犯の治療

 重度の火傷を負った京都アニメ放火犯を懸命に治療し、取り調べに耐えられる状況になったというニュースを知って、憂鬱な気分になった人も少なくないだろう。この容疑者、というより、現場で負傷していた現行犯なのだから、犯人であることが間違いないのだが、彼には確実な運命がまっていた。
 ひとつは、治療しなければ確実に死ぬということ。90%以上の激しい火傷は、まず助からないとされる。治療が成功したことも、かなり奇跡的であり、治療にあたった医療チームの高い技術と熱意があってのことである。
 もうひとつは、裁判にかけられれば、これまでの判例からみて、ほぼ確実に死刑になるだろうということだ。最高の医療を施さなければ確実に死ぬ犯罪者を、高額な税金と医療資源を使って治療し、裁判にかけて死刑にする。検察からすれば、動機を解明する必要があるということなのだろう。 “民主主義を維持するコスト 京都アニメ放火犯の治療” の続きを読む

演奏会の映像は芸術か

 ティーレマンがウィーンフィルと録画したベートーヴェンの交響曲全集の制作過程をまとめた映像をみた。そのなかで、制作責任者であるブライアン・ラージの語っていたことが、とても気になった。ラージは、こうした映像作りも芸術であって、映像監督やスタッフは作品づくりをしているのであって、とくに監督はオーケストラの指揮者のようなものだというのである。
 ラージは、ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートの映像監督などもしているので、クラシック音楽好きの人には、なじみのひとだ。顔を見たのは初めてだった。
 しかし、基本的に、私はこうした考えに基づく演奏会のライブ映像を好まない。間違っているというつもりはないが、私がほしいと思っている映像は異なる形のものだ。
 監督によって、カメラワークが異なるので、年によって違うのだが、ニューイヤー・コンサートの映像は、非常にこまめにカメラが動くのが特徴だ。会場にワイヤーがはってあって、小型カメラがワイヤーにそって動き、飛行機やヘリコプターが飛びながら映しているかのような映像がよく見られる。NHKのコンサート映像には見られない手法だ。
 単純な分類だが、ライブ映像の立場にはふたつあるように思われる。ひとつは、記録であるというもの。そして、もうひとつは、映像そのものが作品であるとするもの。 “演奏会の映像は芸術か” の続きを読む

10万円の申請用紙が送られてきたが

 日本社会の生産性が低いことは、いろいろなところで指摘されている。そんなことを実感することが、コロナ騒動、とくに政府や自治体の対応でみられる。10万円の給付について、マイナンバーカード申請の混乱は、かなりニュースにもなった。オンライン申請なのに、紙のデータと照らし合わせるという、昭和と令和が組み合わさったようなやり方をとったために、大混乱になったわけだ。
 紙による申請に関しては、ほとんどニュースになっていないが、実際に送られてきた用紙を見て、実に驚いた。国民のほとんどに出された文書だから、よくわかると思うのだが、(地域によって、もしかしたら違うかも知れない)これは、住民登録の台帳に登録されたデータで、世帯主に送られ、そこに家族の名前が予め印刷されている。住所と名前が明記されているわけだ。そして、送金する銀行等のデータを記入して送り返すことになるのだが、実に驚いたことに、世帯主の本人確認ができるものと、銀行口座の番号がわかる通帳のそれぞれコピーを同封しろと書いてあるのだ。自分たちが、自分たちの管理しているデータベースで作成した文書、しかもそこに名前が予め印刷されている文書に、記入して送り返すのに、なぜ、本人確認が必要なのか。白紙の申請用紙に、名前や住所を書いて申請するのならば、本人確認が必要であることは理解できる。そして、口座番号を書かせるだけではなく、通帳のコピーまで必要とするという神経が理解できなかった。このようにコピーするということは、ほとんどの国民は、コンビニなどにいってお金をはらってコピーする。その時間と費用の無駄、そして、当然受け取った役所の人は、それをチェックするのだろう。その時間の無駄。そこまでやっているから間違いなくできるというかも知れないが、間違えたとしたら、当人が口座番号を入力ミスするしかないのだから、そのミスによって送金できなかったとしても、本人の責任であろう。ミスなど滅多にないのだから、そのミスをカバーすればいい。確認ミスだってあるかも知れない。 “10万円の申請用紙が送られてきたが” の続きを読む

羽鳥モーニングショーで9月入学について議論

 番組では、9月入学賛成派と反対派がゲストとして登場し、レギュラーを交えて是非を議論していた。結局、考えねばならない論点は、2点だといえる。
 第一は、3カ月授業がなかった遅れを、9月入学にすることによって乗り切るのか、現行制度で乗り切るのか、どちらが効果的であるのかという点。
 第二は、そもそも学年は4月に始まるのがいいのか、9月に始まるのがいいのかという点。
 多くの議論で、第二についての議論そのものに大きな欠点がある。9月入学賛成論として、必ず出てくるのが「国際化」対応であり、留学が便利だということがいわれる。賛成論の人も、メディアに出てくるとそのようにいってお終いにするのが不可解である。9月入学のメリットは、留学のしやすさだけではない。むしろ、それは、重要ではあるが、誰にも関係するというものでもない。どんなに留学が盛んになっても、せいぜい高校生以上であって、主要には大学に関わることだろう。
 きちんと考えるべきなのは、一年サイクルとして相応しい開始と終点の設定なのである。日本教育学会は、現行の入学時期は、文化生活に大きく根ざしており、それを変えることは問題であるというようなことを書いているが、4月入学だから、そういう文化になっているのであって、9月入学になれば、文化が変化するのである。結局、教育的にみて、あるいはそれを社会システムにひろげてみて、どちらに合理性かあるかという話なのだ。 “羽鳥モーニングショーで9月入学について議論” の続きを読む

Law & Order の考察を始めるにあたって

 以前、アメリカのテレビドラマの Law & order をスピンアウト作品も含めて、大部分見たのだが、最近、見直している。鬼平犯科帳は、一通り、テーマとして扱えるものは終わった感じなので、今度は、Law & Order について、順次考えていこうと思う。アメリカの人気ドラマで、同一題名での最長記録と言われているようだし、(20年継続)、さらに、スピンアウト作品が、私の知る限り5つもあり、そのなかの性犯罪を扱ったシリーズも、20年に達している。とにかく、こんなに多い回数作られた連続ドラマは、他に例がないだろう。有名な作品だから、多くの人が知っていると思うが、これだけ続いたということは、やはり、社会のなかで存在意義がずっとあったということだ。内容の紹介と考察は、次回以降にするとして、日本のドラマとアメリカのドラマを、この作品で代表していいかは疑問だが、ひとつの特質としていえることがある。日本の刑事ドラマでの長く続いている代表は「相棒」だろう。そして、「相棒」は、いくつかの過去の作品からヒントをえているといえる。シャーロック・ホームズ、刑事コロンボ、そしてこのLaw & Order である。一番似ているのが、Law & Order だと思う。「相棒」は、刑事二人が相棒として活躍し、事件を解決していくが、Law & Order もドラマの前半はそういう構成になっている。しかし、ドラマの作成として、「相棒」は水谷豊が不動の主人公で、相棒は現在4人目であるが、変わっていく。しかし、Law & Order では、二人の刑事も、後半の主な担い手の検察二人も、3,4年で交代している。もっと長い人もいるが、とにかく、ずっと出ている人は、一人もない。つまり、「相棒」は、水谷豊という俳優が中心となる構成になっているが、Law & Order はあくまでも刑事二人と検察二人という構造が中心になっている。 “Law & Order の考察を始めるにあたって” の続きを読む

笑ってしまうが、深刻な話だ 中学でアベノマスクの強要

 記事を読んだときには、思わず「えっ」と声をあげ、あと笑ってしまった。埼玉県の公立中学で、休校開けで学校が再開されるにあたって、さまざまな指示を書いたプリントのなかに、アベノマスクを着用するか、携帯することを明記してあったということだ。ネットにそのプリントが掲載されているので、間違いないだろう。忘れた者は生徒指導の対象になるようなことまで書かれている。
 ここまでは、滑稽な話だ。そもそも、アベノマスクという言葉は、あまりにくだらない政策だと揶揄する表現である。ああ、いいマスクを配布してくれた、などという人たちは、使わない言葉だ。それを、必要と知らせる立場で使っているのだから、よほど言語感覚が鈍い人たちなのだろう。こんな言語感覚の人たちに教わる子どもたちは、かわいそうだ。
 しかし、本当に深刻なのは次だ。 “笑ってしまうが、深刻な話だ 中学でアベノマスクの強要” の続きを読む

ネットの誹謗中傷問題

 女子プロレスラーの突然の死によって、SNS上での誹謗中傷問題が再度噴出している。ネット上の誹謗中傷は、インターネット開始以来の大問題のひとつである。誹謗中傷自体は、表現伝達メディアが存在すれば、つきまとうことであるが、表現伝達の方法がたやすく、かつ広範囲に及ぶようになるにしたがって、その被害も大きくなってきた。また誹謗中傷と批判との区別も、簡単に区分できるものでもない。この問題は、表現の自由と人格権の保護というふたつの対立し合う概念の調整問題でもある。また、個人に対するものと、公的機関や公人に対するものとでも、扱いは異なる。独裁国家では、公的機関や公人に対する非難は、厳しく取り締まられるが、民主的社会においては、公人に対する批判は、私人に対するものよりも、表現の自由がより広範に認められる。
 民主主義社会における公人への批判は、かなり厳しいものであっても許されるべきであるという立場で考えていくことにする。 “ネットの誹謗中傷問題” の続きを読む