9月入学の実施はしない方向だが

 日本教育学会、文科省、自民党と立て続けに、9月入学の慎重論が出され、ほぼ実施されない方向が明確になったようだ。私は、橋下氏とはかなり考えが違うが、「断念だ」という思いは同じである。結局、ここに、日本社会で政治的、学問的リーダーシップを発揮している人たちの、思い切りの悪さ、現状改革への熱意のなさがよく表れている。私自身は、ずっと以前から、何度も9月入学にすべきであるという論を提起してきた。最初に書いたきっかけは、東大が9月入学計画を発表したことだった。すぐに同意した。しかし、そのときには、現実的に無理だろうと思っていた。というのは、9月入学に切り換えるのは、よほど大きな社会的契機がないと無理だからである。今回の新型コロナウィルスは、それこそ数十年に一度くるかどうかの、社会変革のきっかけとなるはずである。1990年代にヨーロッパに海外研修にいって、そこで生活してきた経験から、9月入学のほうがずっと合理的であると感じていたから、今回は絶好のチャンスであると考えたわけである。そして、充分に考えた末の結論でもあった。
 しかし、日本教育学会にしても、文科省にしても、自民党にしても、それぞれの立場で教育のあり方に、最も責任のある立場であるにもかかわらず、いかにもおざなりの検討しかせず、結局のところ、変えたら起きるだろうマイナスを強調して、4月入学や、3カ月休校だったマイナスの克服には、目をつぶってしまったのである。何度か書いたので、重複になる部分もあるが、これがおそらく当面最後なので、彼らの思考様式の問題を中心に考察しておきたい。
 9月入学にするかどうかで、最も基本的な論点はふたつあると、5月27日に、「羽鳥モーニングショーで9月入学について議論」と題するブログで書いた。そもそも始業時期としてどちらが合理的であるか、そして、3カ月休校の欠落を埋めるには、どちらが無理がないかという点である。どちらも9月入学にしたほうが合理的であることを示した。
 では、何故彼らは、そうした合理的な方向をとらず、無理のある方向を採用すべきだというのか。それは、彼らの「思考様式」に問題があるからだ。どういう思考様式か、ある問題が起きたときに、かなり基本的な改革が示されると、まず、そういう根本的な変革をすると、こういう欠点があるという、予想される欠点を列挙する。そして、そういう基本的な改革をするためには、社会全体のコンセンサスが必要であるから、そのためには、充分な議論をしなければならず、そこまで議論は煮詰まっていないという反対をする。そして、他方、今ある制度の欠陥には、目をつぶってしまい、今ある制度のメリットを強調して、改革するには及ばないとする。当然、改革論が出てくるから、欠陥の一部には、対症療法的な政策を対置する。(これは、かつて学校選択論の議論のときにも感じたものだ。)
 今回の9月入学についてはどうか。
 9月入学のメリットは認める。しかし、それは矮小化されている。留学が便利になると。それは、多くの人が主張する論点だが、9月入学の最も大事なメリットはそこではない。「国際化」に対応というのは、国際社会の多数が採用している9月入学には、合理的な理由があるからであって、その合理性を日本も採用するということに他ならない。
 矮小化したメリットしか認識しないのだから、変革の熱意ももともと低いわけである。そして、変革に対しては、いろいろと反対の理由を述べる。まずは、費用がかかるという点だ。教師も不足する。それは間違いない。しかし、変革しなくても費用がかかり、変革しなければ、大きな問題が生じる。そのことはわかっているが、逆に、今必要なことは、休校による学力低下にどう対応するかが問題だといって、問題を逸らし、そこに具体的な方策を散々並べ立てる。学級規模を減らす、オンライン授業の環境整備、教師の増員、不安の解消のための人的措置、等々、いろいろとあがっている。しかし、来年の3月に終了させねばならないという前提では、どんなことをやっても、学力保障などできないことは、分かりきっている。だから、卒業学年以外は、時期をずらすとか、教授内容を削減するとかが対置される。これは、無理がないのか、費用がかからないのか。
 そして、さらに大きな問題は、彼らが、現行制度の欠陥には目をつぶっているという点だ。
 4月入学のために、入学試験や就職試験の日程に無理があり、それが学校教育に大きなロスを生んでいること、入学試験が、最も悪い天候の時期に行われること、夏休みが不自然な形で、学年途中に入ること、などである。夏休み明けが、最もいじめの悲劇が起きやすい時期であることは、よく知られている。1学期にいじめがあると、夏休みで救われるのだが、9月に再開されると、それが一気に増幅して、被害者の精神に大きな負担が生じる。もし、9月入学なら、まったく新しいクラスとして出発するから、その精神的負担は起きないし、クラスが継続する場合でも、いじめ問題があるクラスであれば、夏の間にクラス編成の変更が可能なのだ。
 このようなことは、日本教育学会の提言には、部分的に触れられているが、しかし、改善の対象としては取り上げない。わかってはいるが、今必要なことは、学力保障なのだというわけだ。9月入学にすれば、そうした大きな問題がもっと合理的に解決されるのに、何故そのための努力に向かわないのか。
 「充分に検討されていないから拙速するな」という点についてはどうか。
 私は、少なくとも日本教育学会の提言を読む限りでは、ここで検討している委員たちが、いままでこの問題について、じっくり考えたことがないのだ、という印象をもっている。もし、充分に考えてきたのならば、充分な検討がなされていないなどという、拙速論はでてくるはずがないからである。それは、教育学者として怠慢以外の何物でもないではないか。
 最後に、私が最も疑問を感じるのは、提言反対の最も大きな理由が、私学の経営においているらしいことだ。もちろん、それは大いに問題だ。9月入学にすれば、形式的には、今年度在籍している人たちは、6月卒業になる。籍としては8月まであるわけだが、その半期分は授業料を支払わない。つまり、私立学校としては、半期分の収入が欠落するわけである。もちろん、国立大学だって、授業料部分は小さくはないから、同様であるが、私立学校の欠落部分は、ずっと大きい。それが極めて深刻であることは、もちろん、私も認識している。しかし、それこそ、国家にかなりの補助を要求するべき内容となるだろう。掛け声だけは、高等教育の無償化をかかげている政府だから、実質的な高等教育無償化に取り組む程度の財政を考えれば、ある程度の補填はできるのではないだろうか。それから、この3カ月、ほとんど収入がない状況だった経済領域は少なくないし、緊急事態宣言が解除されたからといって、ただちにそうした分野で収入が確保できるわけではない。そうした分野に比べれば、学校分野は相対的には恵まれている。学生の補助などに、大学がかなりの負担を強いられていることは、もちろん私も認識しているが、ある種の痛みを伴うことが避けられないのではないかと思うのである。
 本当にいま必要なことは、学力保障だというのならば、学習内容を減らしたり、夏休みを削ったり、土曜日授業をやるような、無理をすることではなく、しっかりと取り戻せる方法を何故とろうとしないのだろうか。
 学校が再開されたとはいえ、まだまだ分散登校という形であり、本当に正常に戻るのは、はやくても6月半ば以降ではないだろうか。とすれば、それは9月入学制度での学年末なのだ。だから、事実上、今の段階は、きちんと学校教育を運用しようとすれば、9月入学の時期設定になってしまうのであり、それを避けることは、無理を強いるだけのことなのだ。
 拙速な議論というが、このスタイルをどう定着させるかは、実施は2021年になるのだから、まだ1年以上ある。それでも充分な議論ができないというのだろうか。
 教育学会の提言には、4月入学は、日本の生活様式や文化に根付いていると書いてある。そういう認識では、今ある制度に、どんな欠点があっても、変革しようという意識は生まれない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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