東京の高校からノーベル賞ができないわけ

 ノーベル賞を久しぶりに日本人が受賞したが、面白い記事があった。なぜ、東京の進学校から受賞者がほとんど出ていないのかという記事である。「「大学は圧倒的に東大・京大だが…」ノーベル賞受賞者28人のほとんどが“地方の公立高校”出身である理由 なぜ東京の高校から“圧倒的才能”が輩出されないのか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4058cd8381b239d2bf03f010f63df24ff0726549#:~:text=%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%AE%E9%AB%98%E6%A0%A1%E3%80%8D%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE,%E8%80%85%E3%81%AF%E3%81%9F%E3%81%A01%E4%BA%BA&text=%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%81%E5%AE%9F%E3%81%AF,1987%E5%B9%B4%EF%BC%89%E3%81%9F%E3%81%A01%E4%BA%BA%E3%80%82
 けっこう長い記事だが、簡単に要点をまとめると、東京の公立名門校や私立の難関校などは、効率的な学習をしているからで、ゆったりとした教育が行われている地方の学校が受賞者を輩出しているというのである。 “東京の高校からノーベル賞ができないわけ” の続きを読む

高校の授業料無償化を考える(4)

 しばらく間があいてしまったが、今回はこのテーマによる最終回である。
 私立学校と公立学校の関係が、これまでの、そして多くの国でそうであるように、公立学校は国家の設置する学校で、万人用の教育を行い、私立は公立学校とは異なる教育を行うための、特別の学校であって、公立は国家によって費用が賄われ、私立は利用者が負担するというシステムである。現在の日本に限らず私立学校に公費補助がなされる国も少なくないが、しかし、まったく平等というのはオランダに限られる。
 では、どういう関係が好ましいのか。 “高校の授業料無償化を考える(4)” の続きを読む

高校授業料無償化を考える(3)

 私立学校と公立学校は、本質的に違うものなのだろうか。法的には明確に区別されているけれども、教育の実態はどうなのだろうか、と考えると、私には、本質的な差はないとしか思えない。私立学校の教育は確かに多様である。しかし、公立学校も同質などとはとうていいえない。通学区によって通う学校が規定されている公立の小中学校でも、その差はかなり大きいのである。通学区を指定して、通学する学校を選択できないようにしている理屈は、教育の水準を一定に保つことによって、どの学校に通っても同じ教育が受けられる、というのがあるが、そのようなことを信じているひとはいないだろう。 “高校授業料無償化を考える(3)” の続きを読む

高校授業料無償化を考える(2)

 授業料問題は、義務教育と義務教育以外、そして公立学校と私立学校の問題というふたつの異なった側面がある。日本での高校無償化は、この二つがともに重なっている問題であるが、原則的なレベルで分けたの議論は少ないように思われる。
 さて、義務教育での無償は、論理的にも、また、国民の納得という意味でも当然の措置であろう。日本の場合には、義務教育での無償が、授業料の不徴収という内容にごまかされおり、本来、というか先進国ではほぼ常識となっている学用品等の無償まで含むものになっていない。教科書は無償であるが、これは無償とすることによる国家統制の手段となっている。したがって、無償=公費の支出、だから、公費を管理する行政の管理が必要という論理の是非が問われねばならないという論点が残っている。しかし、今回はこの問題には触れない。 “高校授業料無償化を考える(2)” の続きを読む

高校無償化を考える(1)

 高校授業料の実質無償化が進行している。2025年度は12万弱の補助が全世帯で受けられ、2026年度からは私立学校の場合には、増額され、全国の私学の平均額が支給されるようになり、公立高校も私立高校も実質無償化が実現するということになる。 これは、いわゆる民主的教育運動の悲願ともいえるものであり、そこでは、教育の無償化はほとんど無条件にもとめられることがらであったともいえる。
 しかし、問題はそう単純ではないのである。 “高校無償化を考える(1)” の続きを読む

川村学園女子大閉学の可能性

 川村学園女子大が、医療創生大学に譲渡する協議を始めたと報道されている。川村学園女子大は、千葉県の我孫子市と東京豊島区にキャンパスがあるが、すでに教育学部は募集を停止しており、文学部と生活創造学部、大学院人文科学研究科が残っている。そして、譲渡が実現すると、残っている教育学部の全学生が卒業した段階で閉学するということだ。残った学部や研究科がどうなるのかは、協議の対象となるのだろう。 “川村学園女子大閉学の可能性” の続きを読む

教育や学習時間を固定する無理

 ヤフー・ニュースに、「多くの教職員が不満を抱いている、標準授業時数でがんじがらめに学校を縛ろうとする変わらぬ文科省方針」という文章を、フリージャーナリストの前屋毅氏が書いている。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7545e90ecb7c2e16181faca07958c737f0aea037
 内容は題名でほぼわかるが、文部科学省が、学習指導要領で、各課目や全体の授業時数の上限と下限を決めており、それに従っていない学校を、教育委員会が公表したという事実を批判している文章である。こうした公表は罰であり、そもそも教育は、固定的な授業時数で効果があがるものではないし、また、学級の状態でどの程度の授業量が必要であるかは変ってくるのだから、固定的な時数を押しつけるのがそもそも間違いであるという主張を含んでいる。記事によると、日教組がそうした要求を文科省に対して行ったことが書かれている。 “教育や学習時間を固定する無理” の続きを読む

三上和夫氏が亡くなった

 三上和夫氏といっても、知る人ぞ知るということもいえるが、教育学の世界では、著名であるし、また実力ある研究者だった。現在、私は、大学時代の教授(ただしゼミ生ではない)であった五十嵐顕全集の編集の手伝いをしているのであるが、五十嵐先生がなくなったとき、強く著作集の刊行を三上氏が主張したが、反対もあり、それは実現しなかった。その経緯については、三上氏から直接何度も聞かされており、したがって、今五十嵐顕全集が準備されていることについて、三上氏は非常に喜び、可能な協力を惜しまなかった。その協力によって入手できた五十嵐論文も少なくない。しかし、この完成をまたずして亡くなられたことは、本当に残念だ。

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トランプの教育省閉鎖政策

 トランプ大統領が、教育省廃止にむけた大統領令に署名したということが、大きな話題になっている。あまり知られていないことだが、アメリカでは、1979年に連邦政府の教育省が設置されるまで、日本の文部科学省にあたる省庁は存在しなかった。しかし、州政府の中には、文部科学省にあたる部局が存在している。つまり、アメリカでは、憲法によって、教育は州の権限であることが、銘記されているのである。だから、連邦政府には、文部行政をおこなう必要がなかったといえる。これは、アメリカのような広大な面積をもつ国では、教育に対する要求も多様であるだろうし、学校教育は地域が主体となって運営することが適切である、という考えに基づいていたのであろう。

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「指導死」の記事

 ヤフー・ニュースに「指導死」に関する記事が掲載されていた。
 「【なぜ】息子の死は『指導死』か否か…大阪の有名進学校でカンニング後に自殺 「適切な指導だったのか」遺族らの悲痛の訴え 過去にも約100件の“指導死” 問われる教育の在り方」と題する記事があった。【なぜ】息子の死は『指導死』か否か…大阪の有名進学校でカンニング後に自殺 「適切な指導だったのか」遺族らの悲痛の訴え 過去にも約100件の“指導死” 問われる教育の在り方(読売テレビ) – Yahoo!ニュース
 カンニングと喫煙をして、厳しい指導があったあと、自死した例であった。共に高校生である。この記事は、「指導」について考えるものだが、私は、カンニングについて考えてみたい。私は大学の教師だったが、やはり、カンニング対策をしたし、実際にカンニングを見つけたことが数回あった。35年間の教師生活での数回だから、圧倒的に少ないといえるだろう。ほかの先生たちは、もっと多くの経験をして、かつ、厳しい対応をとっていたように思う。大学生が対象だから、多少受験を控えた高校生とは異なるだろうが、しかし、基本的考えかたは同じではないかと思うのである。

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