優秀な高校生が海外にいくのはいいことだ

 東大が新しい学部をつくるのだそうだが、その理由が、日本のもっとも優秀な高校生が、もはや東大を目指すのではなく、海外の大学を目指すようになっているから、それを打開するためだそうだ。本当のところはわからないが、そのように報道されている。現在の入試制度だと、暗記中心の詰め込み型で、もっと自由に能力を伸ばすことができないので、本当に優秀な高校生は、より自由な選抜が行われている海外の有名大学に行きたがるのだということらしい。 “優秀な高校生が海外にいくのはいいことだ” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察4

五十嵐は、レーニンの膨大な文章群から、教育に関係する文章を抜粋して、「レーニン教育論」を著作として刊行したが、その構成について、村山士郎氏が強く批判していることがある。それは五十嵐が、レーニンの否定的な側面は無視しているということである。レーニンは間違いなく、優れた政治指導者であり、理論家であったが、実際の政治活動のなかで、批判されるべきいくつかの選択をしている。革命後、選挙を実施したが、自党が敗北したために、議会を解散したり、教育においては、党が教育を指導し、また校長に権限を集中させるなどの政策をとったといわれる。そうしたレーニンの主張は、五十嵐「レーニン教育論」には含まれてこない。議会の解散は、教育の領域ではないにしても、おそらく、そうしたレーニンの行動は、五十嵐のレーニン像には入ってこなかったのだろうと思われる。五十嵐には、おそらく、レーニン、マルクス、社会主義についての、つよい世界観、倫理があって、それにそうレーニンの叙述を探し、構成したのだと思う。 “五十嵐顕の人間類型的考察4” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察3

 宗教的人格・人間という点について。
 人間は多様な性格や人格をもっているから、人間類型というパターンに当てはめてその人の評価を固定的にするとしたら、おそらく誤解することのほうが多いだろう。しかし、ある人の行動が、なにかいつも共通の性質をもっているとしたら、そこに「人間性」、類型化できる人格を想定することは、その行動を理解することに役立つのではないだろうか。 “五十嵐顕の人間類型的考察3” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察2

 たしかに五十嵐は、当時の有力な理論であった「国民の教育権論」について、基本的には支持しながらも、批判的な見地を遠慮なく提起していた。また政府批判などもきびしいものがあった。こうした姿勢は、「環境適応型」とは違うのではないかという疑問も当然ある。
 しかし、「国民の教育権」への批判的な見解についても、「国民の教育権論」の骨格そのものを批判、つまり、否定しているわけではなく、部分的な疑問を述べているに過ぎない。政府や権力への批判も、批判的陣営にいたわけだから、それは、むしろ陣営的に適応していたといったほうが、実態に近いだろう。
 逆に、もし、環境適応型ではなく、真に主体的自律的人間であったなら、違うように振る舞ったのではないかと考えられることがいくつかある。 “五十嵐顕の人間類型的考察2” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察1

 ここ数年間五十嵐顕の可能な限りたくさんの、つまり、全集に収録される文章のすべてを読んで、それまでの大学時代に受け、全集編集に参加するまで抱き続けてきた五十嵐顕像は、かなり根本的に変化することになった。それまでは、常識的に、戦闘的なマルクス主義教育学者だと思っていたが、そのこと自体は間違いないが、その前後にさまざまな変遷をしていること、そして、ずっと継続していた基本的人間型があることに気付いたのである。それは、端的に「環境適応型人間」と「宗教的人間・人格」である。その考えを共有する編集委員はなく、私の独自の規定であるが、私としては、かなりの確信をもってそう考えている。ただし、これは、非難とか批判ではなく、人間類型に属する人間であったとのリアルな認識である。
 まず「環境適応型人間」について、そう考える理由をあげよう。 “五十嵐顕の人間類型的考察1” の続きを読む

小学校校長が校内飲酒で処分

 福島県の小学校で、校長が飲酒で再三教育委員会から注意を受けていたが、是正されず懲戒処分をうけたという記事があった。「「アルコールのにおいがする」小学校の校長が校長室で“飲酒” 市教委が計9回指導・福島」https://news.yahoo.co.jp/articles/724853b992721c505db7330b6e8202f96cdd335e
 また別の記事では、「校長が児童を突然怒鳴る、学校内の飲酒で発覚 市教委の報告漏れも」https://news.yahoo.co.jp/articles/4554274c6bc3eeb291b1d9566dcbcd0f873d1b65
 正確にはわからないが、同一の校長だと思われる。
 最初は前者の記事を読んでいたのだが、後者の記事を読むと、校長が女性で、暴言をはいていたことが書かれている。このようなことが起きても、別にあまり驚かなくなっている自分が、少々怖い気もするが、現在の日本の校長の存在形態からみれば、別の形ではあれ、問題をもった校長や教頭が少なくないことは、充分に推測できる。 “小学校校長が校内飲酒で処分” の続きを読む

理系博士課程院生への支援の外国人廃除は疑問

 外国人への規制を強める雰囲気の一環として出てきたかどうかは不明だが、国が特定の自然科学系の大学院博士課程の院生に対して行っている補助金を、外国人の留学生にはださないという方針がだされ、外国人留学生が当然のように抗議をしている。この問題はとても難しく、簡単には解答がだせないのだが、いくつかの点で考えてみたい。
 まず、外国人留学生の大学教育の授業料について、三つのパターンがある。
 第一は、当該国民と外国人を平等に扱うタイプ、第二は、外国人留学生を優遇するタイプ、そして第三は、外国人に余分の負担を課すタイプである。 “理系博士課程院生への支援の外国人廃除は疑問” の続きを読む

五十嵐顕は知識人か2

 つぎにアマチュアということでみてみよう。
 五十嵐は、まさしく「アマチュア」であったということができる。それはもちろん悪い意味ではないが、専門家としては弱点であることも否定できない。
 五十嵐は、最初の職が教育研修所の所員であり、そこで、アメリカの教育委員会の調査という課題を与えられていた。アメリカの教育委員会の多くは、財政権をもっており、したがって、教育委員会の研究をすれば必然的に教育財政の分野に踏み込むことになる。そして、研修所の主任であり、五十嵐を採用した宗像誠也が東大に移り、そして、五十嵐を呼んだわけである。このとき、五十嵐は、宗像の申し出を断ったという。教育研修所にこのままいたいというわけだ。結局、説得に応じて東大の助教授となるわけだが、私は五十嵐は本心で断りたかったのだと思う。五十嵐は、地位を求めることにはあまり関心がないような生活感覚を示していたが、東大のポストがさして魅力的でもなかったのではないだろうか。 “五十嵐顕は知識人か2” の続きを読む

五十嵐顕は知識人か1

 エドワード・サイードの「知識人とは何か」を参考にして、矢内原忠雄と丸山真男を論じた文は、大変不充分なものなので、再度それぞれやがて論じておきたいが、今回は五十嵐を加える文となる。
 再度簡単にサイードの知識人の要件をあげておくと、・アウトサイダー・アマチュア・現状の攪乱者となっている。
 アウトサイダーとは、特定の人種、民族あるいは国家、共同体などにとらわれることなく、物事を普遍的な立場から捉えることができるという意味である。もちろん、そういうところに属していることは差し支えない、というより、属さないことが現代社会では不可能ともいえる。だから、その所属を超えることができるということだろう。 “五十嵐顕は知識人か1” の続きを読む

国立大学予算での文科省と財務省

 いまや年中行事になった観がある、予算をめぐる文科省と財務省の争いだ。これはずっと以前から続いていることであるが、現在の焦点は、国立大学予算に関してである。以下の記事があった。
「文科相、国立大の運営費交付金「増額が必要」 財務省に反論」(朝日新聞)
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab93b70e5110c7de898f31bc7cf0845455dfbbf2
 私は私立大学に勤めていたし、また現在は定年になって現場を離れているので、自身の切実観はないのだが、やはり、日本の科学技術、教育の発展は気になるし、絶対に軽んじてはいけない領域である。 “国立大学予算での文科省と財務省” の続きを読む