カテゴリー: 教育
途上国からの脱出3
入学試験があるのは当然だという思い込みともうひとつ思い込みは、学校の単線型体系が民主主義的であり、複線型体系は非民主主義的であるというものだった。これは、いまでもそのように考えている民主主義者が多い。特に日本では1960年代に高校の多様化路線が打ち出されて、職業高校を多くつくり、早めに就職させる、大学などに進学するのは無駄だという特に財界の意志が、教育に反映したものだ。しかし、明かに、成績のよい者が普通科に進学し、成績の悪い者が職業科に進むという、大体においてそうした傾向があったことと、その後社会が高度化して、大学卒業生が就職の基礎資格のようになると、大学進学に有利な普通高校をほとんどの中学生が求めるようになって、現在では圧倒的に普通科の高校が多くなっている。こうした中で、普通高校と職業高校を格差をもって構成すること、そして、それ以外の高専など、学校体系を複線型にすることが、民主主義的でないと考える人が多いわけである。 “途上国からの脱出3” の続きを読む
途上国からの脱出2
前回、教育の分野では、とにかく入試を廃止と提起した。
いや入試こそ、能力主義が実施されていて、入試をやめたら、青年は勉強しなくなるし、競争もおこなわれず、能力が評価されなくなるのではないか、という疑問が生じるかも知れない。
しかし、入試こそ、若者を勉強嫌いにするものであり、かつ能力を正当に評価しているものでもないのである。入試競争を梃子にして、子どもたちを勉強に駆り立ててきたのが、日本の教育の特徴であるが、現在は大学ですら、とくに選ばなければ必ず入れる大学全入の時代になっている。だから、一部の超難関大学以外は、それほど勉強しなくても入学できる時代である。だから、私が大学に勤めていたときにも、高校時代とにかく勉強に明け暮れた、などという学生はほとんどいなかった。むしろ高校生活を謳歌していた者が多い。だから、大学にはいっても勉強しない学生はいるが、逆に、大学にはいって、好きな勉強分野を見つけると、一生懸命勉強し、その面白さに気付く者も少なくないのである。 “途上国からの脱出2” の続きを読む
教員の処遇改善50年ぶり?
ヤフーニュースに共同通信配信の記事「教員処遇改善、50年ふり増額へ 月給上乗せ10%以上案」という記事が掲載されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/56ef3cf91cea5e893d9af2878be9e9eb439b69f7
公立学校の教員に対しては、残業手当を支給しないかわりに、基本給4%の特別手当を支給し、その代わり、残業をさせる業務を限定するという形になっている。その4%を10%以上にあげるという案が検討されているということだ。
私自身は、残業手当という方式も、また、この教職特別手当の方式にも賛成ではなく、別の方式を構想しているが、とりあえず、現行制度を前提に考えれば、あげることは反対ではない。近年の教職に対するあまりに不人気な状況が、文科省すら危機感をいだかせているということだろう。 “教員の処遇改善50年ぶり?” の続きを読む
読書ノート『国体の本義』
五十嵐顕著作集準備のために、様々な本を読んでいるが、『国体の本義』もその一環であった。五十嵐は、戦争をどうして防ぐことができなかったのか、とずっと問い続けたわけだが、『国体の本義』は、国民の意識をどのように形成してきたのかを探る上で、非常にわかりやすい文献であるといえる。もちろん、この本によって、新たな国民形成が行われるようになったというよりは、それまで営々と築いてきた国民教化の内容を体系的整理して示したものだろう。
最初に「大日本国体」という章では、建国神話が書かれ、日本は国土ができてからずっと神代から天孫降臨し、天皇が一貫して統治してきた歴史として描かれ、様々な外来思想(仏教、儒教、西洋文化等々)が学ばれたが、日本的な「和」の精神で日本化してきた。つまり、国体とは、現人神たる天皇が統治していることであり、これは永遠のものだと強調している。 “読書ノート『国体の本義』” の続きを読む
小学校卒業文集廃止の動きについて
確かに、これまでは卒業文集なるものを作成するのが普通だった。少なくとも小学校においては。中学校や高校ではなかったと思うし、大学では当然ない。しかし、小学校でも卒業文集を廃止する動きがひろがっているのだそうだ。
「小学校で広がる 「卒業文集」廃止の動き 背景に先生の業務過多も保護者たちの反応は?」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d199210f44f58bc44436695de04f3a856d05ffc5
結論からいえば、廃止はごく自然なことだと思う。 “小学校卒業文集廃止の動きについて” の続きを読む
PTAからの卒業記念
PTAから卒業生に記念品を贈る慣習は、いまでも残っているようだ。大分前(10年以上前)に、大きな議論になったことがあった。それと同じ議論が繰り返されているのだが、その結論に関しては、多少の力点の変化が起きているようだ。 “PTAからの卒業記念” の続きを読む
中学生にも麻薬汚染が
「大麻に手を染める生徒は「沢山いる」隣の子に「見て見て」 中学生が激白、薬物がまん延する沖縄の現状」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e17fe066f14515515152079ca764db8fea2c6d14
逮捕された生徒と同じ学校の生徒が証言したものだが、だいたいは先輩から入手し、入手すると、まわりにみ見せびらかすことが多いと語られている。つまり、違法薬物で、逮捕される可能性のある「物」だという認識が、極めて薄いようだ。
日大のアメフト部での大麻汚染問題は、まだ泥沼状態が続いているが、社会に拡大していることが事実であるとすれば、本当に由々しき状況である。
気になることのひとつに、大麻はたいした害がなく、煙草より安全だから、煙草が合法なら、大麻も合法にしてもいいのではないか、という見解や、大麻は医療的な効果があるので、合法にすべきという、ふたつの合法論があることだ。もちろん、意見は自由だが、合法化論には、まったく賛成できない。
まず医療的な効果があるというのは、麻薬というものは、多くの種類のものが、治療用に、厳密に管理された中で使用されているのだから、医療的な効果があるということは事実だろう。しかし、だから、一般的な使用を合法化することとは、まったく別の問題であって、専門医によって厳格に管理された上で使うのと、一般人が、「注意書き」があったとしても、自由意志によって使用することとは、まったく意味が異なる。麻薬は麻薬であって、基本的には身体的には害があるものである。
煙草より害が少ないという点についても、煙草自体の害が認識され、事実上多くの場で喫煙が禁止されていることを見れば、煙草もやがて、より厳しく禁止されるようになるべきであるとも考えられ、煙草より害が少ないことは、合法化の理由にはならない。
大分前のことだが、ある心理学者が、政府の煙草審議会に参加して、そこで議論されていたことを紹介している本があった。それは、煙草を容認しておけば、政治に対する不満が弱まる、しかし、禁止すると政府に対する不満が、煙草禁止と合わせて強化されるので、合法にしておくことがよい、という理由で、煙草の禁止措置をとらないことが確認されたという。
煙草の合法措置は、こうした市民の不満解消のためであるとすれば、大麻の合法化が行われたとしても、実はそうした意味合いかも知れないのである。
ここでもう少し考えたいのは、世界で大麻などソフトドラッグが合法化されている国があることだ。いわゆる先進国でソフトドラッグ合法化したのは、オランダが最初だった。オランダは、バードドラッグは現在でも厳格に禁止して取り締まっており、ソフトドラッグは使用場所や量を制限して、その限りで合法化している。そして、現在でも実施されているかは、確認していないが、かつて麻薬バスを走らせていた。大麻などを希望する者が、所定の場所、所定の時間にいくと、医師が麻薬を射ってくれるのである。
問題は、何故そうした措置をとったかである。決して、大麻が煙草より安全だから、合法化してもいいだろう、などということではないのである。当時、麻薬に関連して、深刻に恐れられていたことはエイズだった。アメリカではエイズが同性愛の行為から伝染していたといわれたが、ヨーロッパでは、主にドラッグの注射針から伝染したと考えられていた。注射器をまわしながら、ドラッグを注射していたから、そこにひとりエイズ感染者がいれば、多くの人に伝染してしまうわけである。だから、なんとか、そうした行為を止めさせるために、医師が安全に注射してあげるかわりに、それに違犯した者には、厳罰を課すという方法をとったのである。大麻は吸引する方法をとることが多いので、場所を指定して(コーヒーショップといわれる場)合法にしたのである。もちろん、麻薬バスでは、投与の量を少しずつ減らすことによって、中毒状態を治療する効果も狙っていた。
つまり、エイズが蔓延することを防ぐために、より害の小さい方法をとったのが、オランダのドラッグ合法の目的だったのである。
現在日本では、大麻などの合法化によって、より大きな害を効果的に減らすことができる、などという対象が存在するわけではない。かつては、犯罪組織がドラッグを扱っているのが普通だったから、合法化することによって犯罪組織の資金源を絶つという目的もありえたが、今は暴力団への取り締まりが徹底していて、暴力団が主体となって、ドラッグが拡散しているわけではなく、むしろ、「普通」のひとたちのビジネスと興味によって拡散していることがめだつ。したがって、身体的害の小さなドラッグを合法化することの社会的メリットは存在しないのである。害は小さいといっても、害であることに間違いはない。むしろ、若者がドラッグに近づかないように、可能な限りの方法を実行すべきである。
日大アメフト部廃部について
. 日大アメフト部廃部問題について
日大のアメフト部が再び大きな問題を起こしたのは、二度目だから、さすがに世間の見方は厳しい。廃部が競技スポーツ運営委員会で決定したとき、ヤフコメでは当然だろうという意見が多数だったという印象だった。日大アメフト部は、日大のなかでも、また全国のアメフト部のなかでも、際立って強い部だったそうだから、おそらく大学内での扱いもかなり特別なものがあったのだろう。 “日大アメフト部廃部について” の続きを読む