「指導死」の記事

 ヤフー・ニュースに「指導死」に関する記事が掲載されていた。
 「【なぜ】息子の死は『指導死』か否か…大阪の有名進学校でカンニング後に自殺 「適切な指導だったのか」遺族らの悲痛の訴え 過去にも約100件の“指導死” 問われる教育の在り方」と題する記事があった。【なぜ】息子の死は『指導死』か否か…大阪の有名進学校でカンニング後に自殺 「適切な指導だったのか」遺族らの悲痛の訴え 過去にも約100件の“指導死” 問われる教育の在り方(読売テレビ) – Yahoo!ニュース
 カンニングと喫煙をして、厳しい指導があったあと、自死した例であった。共に高校生である。この記事は、「指導」について考えるものだが、私は、カンニングについて考えてみたい。私は大学の教師だったが、やはり、カンニング対策をしたし、実際にカンニングを見つけたことが数回あった。35年間の教師生活での数回だから、圧倒的に少ないといえるだろう。ほかの先生たちは、もっと多くの経験をして、かつ、厳しい対応をとっていたように思う。大学生が対象だから、多少受験を控えた高校生とは異なるだろうが、しかし、基本的考えかたは同じではないかと思うのである。

 私の講義科目のほとんどでは、毎回小レポートのような形の文章を提出させていたが、ほかの人のを参考にすることが、学習効果があると考えているので、オープンな掲示板に書かせていた。オープンな場所で、ほかの学生が書いた文章(過去にもさかのぼれる)を読むことができるし、文章を書くのだから、書籍からの剽窃も可能である。一種のカンニングである。だから、そうしたことはしないように、学期の始めには必ず注意をしていた。そのときの観点は以下の2点であった。
1剽窃は読んでいればだいたいはわかる。他人の文章を活用したいのならば、「引用」して出典を示すようにする必要があり、そうすれば問題はない。
2剽窃は不正な行為だが、不正な行為をして切り抜けるということをやっていると、ほんとうに自分の努力で切り抜けなければならないような壁にぶつかったときに、不正をしなければ切り抜けられないような人間になってしまうことが多い。そういう人間は信用されないし、実力もつかないから、社会にでたときに、自分のためにならない。
 以上の理由で剽窃はしないように、もし発見したら、単位は認定しない。そのようにしていた。数回発見したというカンニングは、この掲示板での剽窃であった。だいたい、剽窃は自分の書く文章よりずっといい文章をひっぱってくるのだから、そこだけ調子が異なるのである。だから、だいたい読んでいて、ここは当人ではなく、専門家あるいはかなり実力ある人が書いた文章だ、と感じるものなのである。(もちろん、正確にいえば、私が見逃したものもあったには違いない。)
 ただし、これは日常的な小レポートの話だが、大学当局としては、試験でのカンニング対策に力をいれていた。私は、たくさんやっていた講義のなかで、試験をする科目はひとつだけで、あとはレポートにしていた。試験をしていた科目は、教職科目であったので、重視していたのである。
 そして、その試験でのカンニング対策は、実は「自由にカンニングしてよい」というものだった。え?と思うだろうが、これは実に効果的な対策であって、ただの一人も不正をしたと思われる事例にぶつからなかったのである。どういうことか。
 まず、試験に際しては、
・何を見てもよい。(参考書、他人のノート、スマホでのネット検索)
・途中抜け出して図書館で調べてきてもよい。
・友達と相談しても、先輩に電話してきいてもよい。ただし、その場合は迷惑にならないように、外にでて行うこと。
 ただし、絶対的に守るべき条件として、答案は「自筆で書くこと」ということにした。つまり、3題あるのだが、3人で1題ずつ分担して、答案を交換して、自分の担当の問題を3人分ずつ書くということは認めないということだ。これは筆跡によって、一人で書いたかどうかは明確にわかる。
 では、なぜ、不正が、私のみた限りで一度もなかったのか。つまり、やってもいいということ事態を行う学生は、まったくいなかったのである。ただし、一度だけ図書館にいった3人グループがいたが、その答案は、不正を感じさせるものではなかった。名前を確認したから、そのつもりで答案を読んだ。
 では、なぜ不正がおきなかったのか。それは、どんなに頑張っても60分以上はかかる論述問題を、かならず3題だしていたからである。だから、きちんと書くためには、180分かかる程度の問題を90分しかないなかで書かせていたから、図書館にいったり、友達と相談などしている暇はまったくなかったのである。そして、こういうかなり負荷の大きな課題をやらせれば、学生たちの実力が反映しやすいのである。将来教師になろうという学生たちの、基本的な授業だから、やはり、力があり、情熱もある学生に高得点を与えるのがよいと考えていた。この授業で高得点をとった学生は、多くが教員採用試験に合格していったことも事実である。
 監視を強化してカンニングを防ぐというよりは、カンニングをしても意味がないような問題を作成することのほうが、ずっと教育的効果もあるに違いないと思う。
 
 さて、最初の記事に戻ろう。カンニングした生徒に、教師たちは、4時間も「指導」の時間を設定し、そのなかで、ずるい、卑怯な行為だ、と自身にいわせ、結局、次のような処分を言い渡したという。
 ●全教科0点
 ●家庭謹慎8日(友人等との連絡禁止)
 ●写経80巻
 ●反省文と反省日誌の作成
 ●学校推薦は行わない
 夜遅くまで写経をして、翌日遺書を遺して自死したのだから、この「指導」と「処分」が主要な要因であることは明らかだと思うが、学校側はいまでも自死と指導の因果を認めていないという。もちろん、自死の詳細な因果関係はわからないが、この処分は、私には、極めて異常にみえる。規模はちいさいが、恐怖の刑罰を課すことによって、人びとの服従を実現する独裁恐怖政治と似たものを感じる。そして、ここの教師たちは、人生のなかで、一度もカンニングやそれに類する「ずるい」ことをしたことがないのだろうか、と聞いてみたいものだ。
 そもそも指導とは、本人に考えさせて、納得させることだろう。なぜ、カンニングがいけないのか、それがどのような影響を本人、またまわりにもたらすのか、それを正確に認識させ、まわりとの間に起った感情的もつれを直すことだろう。そのためには、むしろ冷静に、さまざまなことを相互に考え、意見交換しながら、進めていくことが必要である。しかし、ここで課されたことは、むしろ逆であり、どれも、私には合理性があるとは思えない。謹慎や反省文で納得するとは思えないし、また、写経をさせて、現代の生徒にどのような効果を期待しているのだろうか。本人だって、カンニングがいいことだとは思っていないはずだから、必要なことはこんなことではないのだ。そして、不正やミスなどは、だれもでもあることで、それをどのように正していくのか、そういうことを自覚させることこそ教育ではないか。
 この学校のおかれた状況などはわからないので、このような処置が、保護者などから求められているのかも知れないが、それでも、教育者としては、違ったやり方でカンニング問題に取り組むべきであろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です