フジテレビは免許取り消しすべきではないか

 テレビはほとんど見なくなっており、ニュースなどもネットでチェックするようになっているが、ネット、とくにyoutubeをみていると、テレビのオワコン化の話題が頻繁に出てくる。そんなときに中居正広の事件が起きた。これもyoutubeでは沸騰しているが、テレビではまったく扱われていないという。そして、更にテレビのオワコン化の主張が強くなっている。今回はとくに、単にテレビの人気が衰退していくということではなく、フジテレビが存亡の危機に陥っているという点が語られている。
 私自身は、中居氏にはまったく興味がないし、引退するしかないだろうと思っているが、フジテレビのほうこそが、今回の大きな問題であると思っている。結論的には、フジテレビの放送免許を剥奪すべきであると思っているが、放送関連の法律を若干調べてみたところ、こうした不祥事で免許取り消しという項目はあまり見当たらなかった。人事、資金、放送内容などで免許取り消しはあるようだが、局員の不祥事では取り消しの対象にならないとしても、この事件に強い危機感をもった人の多くは、やはりフジテレビの存在そのものを否定したい気持をもっているだろうと思う。

 さて、今回考えてみたいのは、今回問題になったようなことが、おそらく日常的に行われているのは、何故か、そして、どうしたらよいのか、という点について、ささやかながら考えてみたいと思うのである。
 なぜ、女子アナ、女子局員の接待、ときには上納的な接待がおきてしまうのか。このことについて、youtube上でもっともなるほどと思う説明をしていたのは、「さっきー」という元ADである。彼の説明によるとこうだ。
 テレビ番組を作成するときに、まず最初に決めるのは、つまり、もっとも重視するのは、誰が出演するか、ということだ。だから、できるだけ人気のある、視聴率のとれそうな出演者を確保する。そして、次に、その出演者にマッチするように、内容が決められる。ドラマであれば、配役や筋書き。ショー的なものであれば、話題・内容が決められる。したがって、とにかく、そうした出演者を確保できるかどうかが、最重要事項となる。そのために、「接待」的な場が設定されるというわけだ。
 しかし、こういう決め方をしていれば、当然内容は二の次になるから、ドラマにせよ、ワイドショーにせよ、質的にはあまり高いものは望めないし、次第に低下していくだろう。そして、原作者がいるドラマなどが採用されているときには、その重要出演者にあわせて、原作ドラマそのものが変質していくことになる。そういうことでおきた悲劇が、「セクシー田中さん」ということになるだろう。
 あまりテレビをみない人間として、こうした質問題をもっとも考えやすいのは、テレビ朝日の「相棒」である。「相棒」は、15シリーズくらいまでは、かなり熱心にみていたのだが、最近ではほとんど見なくなった。内容的につまらなくなったと感じたからだ。「相棒」は、欧米ドラマのいくつかからアイデアをとっている。シャーロック・ホームズ、刑事コロンボ、そしてロー・アンド・オーダーだ。とくに、ロー・アンド・オーダーと「相棒」を対比させると、「相棒」がだんだんつまらなくなってきた原因がわかる。このふたつのドラマは、主人公が二人の刑事であることが共通している。そして、ふたりと協力したり、対立したりする他の部局がある点でも共通している。「相棒」では、それが警視庁捜査一課や刑事部長だが、ロー・アンド・オーダーでは、検察部局である。そして、ふたつとも20年間も続いているテレビドラマだ。もっともロー・アンド・オーダーは、すでに終っているが、いくつものスピンオフのドラマがあり、そちらも人気があり、長く続いていた。「相棒」は現在でも現役であり、土曜ワイド時代を含めると四半世紀以上も続いているのである。
 だが、決定的に違っている点がある。それは「相棒」が水谷豊(杉下右京)という一人の主人公役が絶対的な中心にいるということだ。彼の相棒は何度か変っているのだが、水谷のほか、刑事課のほうにもまったく変わらない人物がわずかだがいる。しかし、ロー・アンド・オーダーのほうは、出発時点の配役が最期まで続けたという人物は、一人もいない。刑事も検察もみな何人かが交代している。これは、「さっきー」のいった、日本のテレビが人気出演者中心に作成されるのに対して、アメリカでは、ドラマの内容が大事にされている、という違いであることを意味している。ロー・アンド・オーダーでは、まずはドラマの内容が設定され、それに応じて、出演者が割りあてられる、もちろん、連続ドラマだから、継続出演者のことがドラマ内容作成に考慮されるだろうが、ドラマ内容と出演者の間の不自然な齟齬を感じることは、ほとんどない。ところが、「相棒」のほうは、20数年間ずっとでている水谷にあわせてドラマがつくられるから、不自然な設定になっていると感じることが少なくない。
 杉下右京は、最初は変わり者の刑事だったが、次第に敏腕刑事になり、とてつもなく有能な刑事になっていく。ある程度のところで、キャリア組だが、警部補という、実に不自然な設定になってしまい、そのうち、東大を首席で卒業した大秀才ということになって、πを何十桁も暗記している天才になる。そして、20年以上も警部補であって、その間ずっと同じ刑事部長が右京の邪魔をしているわけだ。こんなことは、絶対に現実にはありえないから、物語が、刑事ものであるにもかかわらず、実に不自然な側面がでてきてしまうのである。
 こうした不自然さをださないためには、水谷豊こそ交代させて、あたらしい刑事役を導入すればよいのである。
 つまり、「相棒」は、人気俳優ありきでつくられているドラマの典型といえるだろう。水谷は優れた俳優だし、局としても力をいれて制作しているドラマだから、いまでも人気はあると思われるが、しかし、ドラマとしての質は、やはり低下しているように思われる。
 結局、優れた質の高いものが、強い支持を受けるのではないだろうか。そうした内容中心につくられていくものは、netflix などに移っているとされるが、テレビが生き残るとしたら、やはり、こうした原則に立ち返ることしかないのではなかろうか。それができなければ、やはりオワコンになるしかないに違いない。
 
 もうひとつ、今回の中居事件で明らかになったことがある。それは、この事件をテレビがまったく放送しないことである。これは、はっきりしたネットとテレビの相異として現われている。テレビのひとたちは、ネットがフェイクにあふれ、テレビはしっかりと内容検証をして放送しているなどというが、そんなことはまったくの間違いであることは、この件でもはっきりとしている。そして、この事件を放送できない理由もまたはっきりしている。それはテレビ自身の不祥事だからだ。
 とくにニュースに関しては、テレビの力はあると思うし、また、あってほしいと思うのだが、こうしたニュースそのものが、扱えないものになってしまうということは、テレビのニュースのあり方そのものをかえていかなければならないと思うのである。たとえば、ニュースだけを扱う局を創設し、ニュースの対象に不当な配慮をしなくてもすむような財政的保障を与えて、ニュースは、その局にまかせる。ただし、ひとつだけでは、問題が置きやすいから、複数そのような局をつくる。あるいは、ニュース部局は、その局のなかで、独立した部局にするということもあるかも知れない。そのようなことが可能かどうかは、確信をもっていえないが、とにかく、ニュース放送のあり方は、かなり根本的な見直しが必要であろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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