今、ネット上で、クラシック音楽界ではめずらしい「騒動」が起きている。最初に知ったのは、Windows Edge を開くと出てくる記事のなかでだった。そのときブログで書こうと思ったのだが、書かなかった。数日後、あちこちで議論が沸騰していることを知った。全部をフォローしているわけではないし、また、議論の全体像を知りたいとも思っていないので、これまで読んだなかで知ったいくつかの論点について考えてみたい。論点は
・来日する北欧の名門オーケストラであるヘルシンキ・フィルの独奏者となっている角野隼人氏が客寄せパンダのようになっている。
・角野氏に関しては、オッカケの集団が異様に多く、通常のルートではチケットが入手できないことがほとんどで、彼の「音楽」「演奏」を聴きたいのではないのではないか。
・ヘルシンキ・フィル来日の宣伝文に、指揮者の名前が入っていないのはおかしい。
・角野氏は、もっとオーソドックスなクラシックの演奏家としての活動をやるべきではないか。
私は、角野氏の生演奏は聴いたことはなく、youtubeで聴いているだけだから、演奏家としての評価をできる立場にはない。ただ、彼の経歴を知って、なおかつショパン・コンクールに挑戦するということを聞いて、ずいぶん思い切った決断をしたものだ、とまずはその点に感心した。通常プロのピアニストとして生涯を生きていこうとする者は、小さい頃から、ピアノ一筋に近い生活を続け、10代から20代にかけてコンクールを受け、演奏会を開き、少しずつ名声を高めて地位を確立していくものだ。しかし、角野氏は、開成中学・高校から東大の理学部・大学院に進んで博士課程で学んでいた。日本の受験を少しでも知っているものであれば、このコースを歩むためには、とてつもない受験勉強や学校での勉強に費やさなければならない。小学生の頃から、ピアノの天才少年として評判だったとしても、受験や学校での勉強と両立させることは、かなり難しかったろうし、さらに理系の大学院にまで進んだとということは、ピアニストとしてやっていく決意はしていなかったと想像できる。そのまま社会にでても、エリートとしての活動を続けていくことは充分に可能だったし、そのほうが、確実な道だったろう。だから、ショパン・コンクールに出場したことは、非常な驚きだった。
今度の騒動のなかで、角野氏がまだ演奏家としての地位を確立していないではないか、という批判がけっこうあったようだが、それは事実だろう。なにしろ、つい数年前までは、実験室で暮す研究者の卵であったのだから。むしろ、ショパン・コンクールが、文字通りの演奏家としてのスタートであったといえる。このコンクールに入賞する人は、すでに、演奏家として祖国では地位をほぼ固めているひとたちなのだが、角野氏は、地位を固めるためのスタートにたったという、非常に大きな相違があった。このことを理解せずに、角野氏の演奏会活動の、これまでの達成度の低さを批判するのは、公平ではない。本人が充分に理解しているからこそ、活動の拠点を海外に移したのだろうと思う。
次に、オーソドックスな演奏家としての活動をしっかりやるべきだという意見だが、これは、編曲とか、他のジャンルとのコラボをするとか、作曲活動に対する「自制」せよというような意見のようだ。しかし、これははっきりナンセンスだろう。どういう活動で自分を活かしたいかというのは、本人の自由意思に任せるべきだ。
歴史に残る偉大な演奏家で、作曲に時間を費やしたいといって、演奏活動を制限しようとした人はいくらでもいる。フルトヴェングラー、バーンスタイン、マゼール等々。このなかで、作曲家としても歴史に名を残すと思われるのは、バーンスタインだけだろうが、優れた演奏家の多くは、若いころは作曲家を目指すものなのだ。トスカニーニ、ポリーニなど、いくらでもいる。極端な言い方をすれば、彼らは作曲に挫折して、わりきって演奏家にしぼったひとたちともいえる。もし、角野氏が作曲でも、成果をあげたいというのは、りっぱなことではないか。それこそ、応援したいところだ。
「客寄せパンダ」についてはどうだろうか。最初に私が読んだ記事では、フィンランドの名門オーケストラが来日するのだから、フィンランドのピアニストに演奏してもらいたかったというニュアンスがあったが、少なくとも、オーケストラの経営層としては、客がはいるかどうかは、極めて切実な問題であるから、確実に集客が見通せる角野氏を選択するのは、極めて合理的な判断といえるだろう。少なくとも私がそういう立場にいたら、そうする。それに、角野氏は、現在は欧米に拠点を移しており、頻繁に日本で演奏会をやっているわけではないと思われる。チケットが入手できないという苛立ちもあったようだが、それは人気アーティストでは珍しくないことで、そのことに不満をもっても仕方ないことだろう。それにオッカケのひとたちは、角野氏の演奏をきちんと聴きたいわけではない、などという決めつけ的見解もあったが、それは偏見というべきだろう。
最後に、さらっと弾け、さらっと聞き流すような曲ではなく、もっと本格的な曲を、という意見もあったが、プロコフィエフの3番のコンチェルトがそういうさらっとした曲とはとうてい思えない。角野氏にとっても、かなりの挑戦の曲なのではないかと思う。一度小沢征爾の指揮、野原みどりのピアノで聴いたことがあるが、気軽に聴ける曲でないことは間違いないだろう。