五十嵐顕の人間類型的考察3

 宗教的人格・人間という点について。
 人間は多様な性格や人格をもっているから、人間類型というパターンに当てはめてその人の評価を固定的にするとしたら、おそらく誤解することのほうが多いだろう。しかし、ある人の行動が、なにかいつも共通の性質をもっているとしたら、そこに「人間性」、類型化できる人格を想定することは、その行動を理解することに役立つのではないだろうか。
 封建時代から近代社会に移行してしばらくは、それほど人間類型が活発に議論されたとは思われないが、近代社会が発展し、そのなかで、義務教育が成立して実質化していくと、人間類型論が活発に議論されるようになった。それは、封建時代の身分社会から、身分ではない、その人の資質や能力によって、社会的分業に人びとを配置することが志向されるようになって、能力や資質がどのようなものなのかを考慮せざるをえなくなったからだろう。それは20世紀の変わり目あたりに盛んに人間類型論が議論された。その代表的なもののひとつがシュプランガーであろう。それを詳しくここで紹介することはできないが、彼の類型のなかに、宗教的人格が含まれている。私が、宗教的人格とは、宗教人の意味ではなく、シュプランガーに近い意味でいっていることだけを断っておきたい。といっても、そのままではなく、基本的には、シュプランガーを参考にしつつ、私の独自の設定である。

 科学者は、基本的に事実を積み重ね、そこに生じる事実の構造からある解釈を引きだしていく。つまり、事実こそが、最初の出発点であり、また絶対に必要な要素である。自然科学者にとっては、事実は自然現象であり、社会科学者にとっては、人間の行動による政治活動や経済活動によって生じる社会現象である。多くの場合、そうした科学者たちは、その科学的研究の成果に基づいて、自分自身の日々の行動を決めているわけではないだろう。行動はまた、別の論理や価値観で動いているに違いない。
 しかし、自分だけではなく、社会の人びとの行動のあり方自体を、倫理的な観点で考え、評価するという人たちが存在するといえる。そして、そういうひとたちにとっては、事実もまた、科学者とは異なった見方、取り入れ方をする。
 それは、ある倫理的な命題を信念としてもっていて、その最上位の倫理から、派生する形で倫理の系列ができる。そして、その倫理の系列が、行動の指針となり、事実の説明ともなる。そして、倫理の系列に反するような事実は、基本的に無視される。そういう思考様式である。そして、この思考様式を、私は宗教的人格と考えている。こうした思考タイプの人は、必ずしも信仰をもつわけではないが、信仰をもっている人は、ほとんどがこういう思考をするに違いない。常識的に考えれば、その最高の倫理的価値が、超越的な存在と結びついているときには、宗教となり、超越的な存在を前提としない場合には、ヒューマニズム的な志向になるだろう。

 五十嵐の母方の祖父は、福井の寺の住職であった。そしてその娘、つまり五十嵐の母は熱心な仏教徒で、毎夜念仏を長く唱えてから就寝したという。そして、姉も熱心な信徒だった。五十嵐の文章には、母や姉が何度もでてくる。五十嵐は、母と姉に特別な愛情を抱いていた。早く父を亡くした五十嵐を、母は女手ひとつで育てたのである。そういう境遇に育ったためだろうか、大学では仏教青年会に所属し、他方では、キリスト教関係の集会にも参加していた。
 こうした五十嵐が、宗教的人格であったといっても、それほど不自然ではないだろう。
 では、具体的にみていこう。五十嵐は、非常に倫理観の強いであった。そして、その倫理観から導き出される行動原則・規範が強く主張される。五十嵐の好きな言葉に「自覚」「努力」などがあるが、これも、倫理を自覚し、それに基づいて努力する必要があるということだ。
五十嵐の全論文をアウトライン形式で読めるようにファイル化してあるのだが、「自覚」を検索すると、実に8割程度の文章で「自覚」という言葉がでてくるのである。
教育学・教育は元来、教育価値を前提にしているから、教育学者は、実は宗教的人格である人が少なくない。五十嵐もその一人だと考えれば、奇異なことでもないのである。青年の教育を論じている文章では必ず、自覚的に学習をすることが強調されている。
 次に、事実認識でのネガティブな側面をみておこう。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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