松本清張の最高傑作ともされる「砂の器」を読み返した。何十年も前に読んで、細かいところはすっかり忘れていたから、初めて読んだも同然である。確かに、物語の壮大さ、筋構成の巧みさなど、さすがだと思うし、また、とにかく読んでいて飽きない、どんどん先に進んでいく感覚はすばらしい。
有名な映画をDVDなどを借りて見たいと思っていたところ、NHKで放映されたらしいのだが、テレビをほとんどみないために、逃してしまった。ぜひ近日中に見たいと思っている。当然、公開された当時みたのだが、映画と小説とでは、かなり違う部分がある。映画では強調されている、ハンセン病の父親と子どもが全国を遍歴すること、そして、差別問題は、小説ではほとんど扱われていない。親子が島根県にたどり着いたときに、親切な警官(三木)が父を施設にいれ、子どもを引き取ったが、やがて行方不明になったと簡略に書いているだけである。だから、小説を読み返したときに、ずいぶん意外に思った。だから、原作は、比較的オーソドックスな犯罪・推理小説といえる。
さて、傑作という評価だが、私は少々がっかりした点があることも否定できない。
まず一番感じるのは、3つの殺人事件と1つの自殺という、推理小説としての不可欠の要素があるのだが、どれもが、殺人や自殺の意図が納得できないのである。松本清張が新しいミステリー作家としての地位を確立したのは、それまでの「トリック」重視から、社会的背景や犯罪心理重視をしたことによって、構成の不自然さを払拭したことにあるとされる。しかし、「砂の器」では、「トリック」重視路線のように感じてしまうのである。
書き出しで示される軸となる殺害である、三木健一を何故殺す必要があったのか、という疑問がまずおきる。三木が過去の自分を知っているために、それを世間に知られるきっかけになったら困るということのようだが、戸籍すら正式に偽造させて、まったくの別人になっているのだし、小学生低学年時代の秀夫を知っているだけの三木にたいして、「勘違いである」といえばすむし、そもそも会う必要もなかったはずではないだろうか。そして、その後の工作も不自然である。警察が秋田の亀田に注目しているという記事をみて、劇団の宮田に現地に行かせて、わざわざ注目させるなどということは、余計なことにしか思えない。犯行後の血のついた服装を隠すためのコートを、密かな愛人リエ子に、宮田のコートをもってこさせる(宮田にリエ子が頼んだのか、リエ子自身が宮田用の衣装を密かにもちだしたのかは書いていない)のも無意味で、リエ子がどこかで購入したほうが、第三者を介入させないという意味で、安全ではないか。そして、そのコートを細かく切って、わざわざ列車の車窓から撒くというのも、実際にはありえない隠蔽方法だ。
つぎに殺害される宮田だが、刑事の今西に知っていることを話す約束になっているのに、何故わざわざ和賀のところにでかけているのかも理解しがたいところだ。既に宮田は、和賀の犯行を知っているわけだから、和賀のところにいけば危険であることは分かりきっていることだ。宮田が今西と会うことは、だれも知らないのだから、呼び出されたわけではなく、自分から和賀に会いにいったはずである。取引きをしようと思ったのだろうか。
宮田と話し合っていた今西が、明日という約束で宮田を解放したことも不自然だろう。躊躇する宮田にたいしては、想像を含むとしてもわかっていることを示して、「いま」ここで話してほしいと促すことは可能だったはずであり、少なくとも試みる必要はあったろう。
第三の殺人は、関川の愛人である恵美子が、妊娠したため、関川が和賀に、電子装置で流産させることを依頼したのだが、うまくいかずに、措置後転倒して死亡したということだが、いくぶんの不自然さはあるとしても、これだけは、どうしても納得しがたいというものではない。しかし、本当に音楽を作るための電子機器で、人を殺害することなどできるのだろうか。そもそもの機械が、という意味ではなく、それほど高度な知識をもっているはずのない和賀が、という意味で。
こうみてくると、清張の特質ではない「トリック」だからだろうか、どうもトリックにリアリティを感じられないし、また、動機も不自然なのだ。たしかに、読んでいて引き込まれるのは事実だが、清張の最高傑作というのは、あまり納得できない。