ここ数年間五十嵐顕の可能な限りたくさんの、つまり、全集に収録される文章のすべてを読んで、それまでの大学時代に受け、全集編集に参加するまで抱き続けてきた五十嵐顕像は、かなり根本的に変化することになった。それまでは、常識的に、戦闘的なマルクス主義教育学者だと思っていたが、そのこと自体は間違いないが、その前後にさまざまな変遷をしていること、そして、ずっと継続していた基本的人間型があることに気付いたのである。それは、端的に「環境適応型人間」と「宗教的人間・人格」である。その考えを共有する編集委員はなく、私の独自の規定であるが、私としては、かなりの確信をもってそう考えている。ただし、これは、非難とか批判ではなく、人間類型に属する人間であったとのリアルな認識である。
まず「環境適応型人間」について、そう考える理由をあげよう。
五十嵐は人生のなかで、かなり基本的な生き方の変遷をした。
・学生時代(哲学的探求)
・兵隊として(優秀な将校)
・研修所時代から東大助教授1950年代前半まで(機能主義的研究・調査)
・1977年ころまで(マルクス主義教育研究者)
・中京大学赴任まで(個人的模索の時代・反省期)
・中京大学から死去まで(わだつみの探求)
それぞれの時代での詳細はここでは省くが、まずいえることは、このようにかなりの変遷があったにもかかわらず、移り変わりの「葛藤」をほとんど感じさせないのである。もちろん、表にはださなかったが、内面的な葛藤は非常に強いものがあったという可能性もあるが、文章を読んでいる限り、そのようにはどうしても感じないのである。
例をいくつかあげてみよう。五十嵐は、東京帝大を繰り上げ卒業になって、すぐに招集され、幹部候補生として応募し、豊橋陸軍教導学校を首席で終えている。当時既に結婚していたが、妻に、「軍人勅諭」をしっかり学びなさいと手紙で書いている。五十嵐は優秀な将校だったのであり、戦闘に参加することはなかったが、戦争そのものに批判的であったことはなかったし、晩年にそのことを反省したが、将校としての自己の行為そのものを反省してはいないといえる。そうして、帰国して、文部省の国立研修所でアメリカ的民主主義の制度を研究することになる。かつてあれほど敵対したアメリカの教育を、民主主義的な制度として研究しているのである。そして、東大に赴任してから、日教組運動に参加して、マルクス主義者になる。こういうときに、実際はどうかわからないけれども、逡巡とか葛藤したという「想い」をほとんど語ったことがない。
戦争からかえって、アメリカ研究を始めれば、内面的な葛藤があったろうし、また、マルクス主義者として活動するようになるには、さらにさまざまな学説的、世界観的な変化をともなうわけだが、そうした葛藤は、文章から感じないのである。
矢内原忠雄は、徹底したキリスト教信徒だったが、キリスト教にふれてから、自覚的な信者になるまで、6、7年のかなり激しい葛藤や懸命な学びを経ている。それは矢内原に限らず、価値観や世界観の転換をする人は、多くのひとがたどる経路ではないかと思う。
そういう内面的葛藤をあまり経験せずに、立ち位置・立場を変えていくということは、自分が所属している環境にあわせていくことを、ごく自然に行う感覚をもっていたのではないかと思わざるえないのである。軍隊に入れば、優秀な将校となり、教育研究所に勤めると、それまで学問的な修行をしたわけではないのに、まわりを感激させるような調査報告書を短期間に仕あげ、そして、さらにアメリカの教育委員会制度に立ち入った研究も次々と発表している。
東大に赴任すると、そこには、日教組運動のリーダーたちがそろっており、そこに自然に入っていく。
こうした変遷をみると、やはり、「郷に入れば郷に従え」というモットーに自然に従う人だったと思うのがさけられない。
しかし、こうした見方には、当然批判があるだろう。五十嵐は、主体的な理論構築に献身したのは事実であり、研究組織においても、比較的理論的中心というよりは、そこに疑問を投げかけるような活動がめだっていた。だから、単純に環境適応型とはいえないのではないかという批判である。しかし、五十嵐は、決して環境そのものを批判するようなことはなかったし、また、環境自体が自由な批判を許すものだったということもあったろう。(つづく)