キリルロシア正教会総主教がウクライナ侵略を批判?

 5月30日の日刊ゲンダイに、極めて興味深い記事がでた。「ロシア正教会トップがウクライナ侵攻に“異議アリ”! プーチン大統領は盟友の苦言に真っ青」というものだ。
 ところが、この記事を私がヤフーニュースで最初にみたのが、午後3時くらいだが、5時になってパソコンでヤフーニュースをみても、この記事がない。グーグル検索にかけてもでないのだ。念のために、日刊ゲンダイのサイトにいくとちゃんとあった。私のチェックに間違いなければ、ヤフーニュースは、この記事を削除したと思われる。圧力でもかかったのだろうか。そして、この内容はあまりに意外なのものだったので、信憑性も考えねばならない。

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熊本丸刈り訴訟判決 繰りかえす歴史の茶番か

 5月30日に、熊本地裁で、丸刈り訴訟ともいうべき裁判の判決があった。
 
「部活で丸刈り強制され不登校に 元県立校男子生徒の1円損害賠償請求を棄却」と題する読売の記事は以下の通りである。
 
 「熊本県立 済々黌(せいせいこう) 高(熊本市)のソフトテニスの部活動で丸刈りを強制されるなどしてうつ状態になり、退学を余儀なくされたとして、元男子生徒が県に1円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、熊本地裁は30日、原告側の訴えを退けた。
 同校は明治時代からの伝統校で、原告側は「バンカラな校風で知られ、『シメ』と呼ばれる強制行為で不登校になった」と主張していた。」

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出生数80万人以下の予想 教育には大きな影響

 まだ予想ではあるが、2022年の日本の出生数の予測値がでた。80万を超えているけれども、予測値より実数はたいへい少ないので、80万人を下回る可能性が高いと報道されていた。80万というのは驚きだ。
 私は団塊の世代真っ只中の生まれで、所謂団塊の世代の出生数は平均で278万人ほどになる。80万というと、30%未満ということになる。それだけの少人数で高齢者を支えるのは大変ということは、多少割り引く必要がある。現在でも団塊の世代は人口比で大きな割合を占めているが、今年生まれたひとたちが20歳になるときには、団塊の世代は90歳代の半ばに達しており、かなり死亡して、少なくなっているはずだからだ。それにしても、この少子化は、様々な面で大きな影響を与えるに違いない。

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ウクライナ雑感 慢心は禁物

 つい先頃まで、ウクライナ当局も、またそれを受けて日本のメディアも、ウクライナ情勢は完全に楽観的で、6月攻勢、8月決着というような「楽観論」を振りまいていた。しかし、ロシア軍のウクライナ東部への攻撃を受けて、にわかに悲観論が出ている。
 しかし、こうした言説をみると、「慢心は危険」という言葉を肝に銘じる必要を改めて感じた。
 
 「鬼平犯科帳」に「妖盗葵小僧」という話があり、事実として長谷川平蔵が捕縛した有名な盗賊だ。押し込み先で女を犯すのが手口だった盗賊で、その一節に、葵小僧と引退して同居している元首領とのやりとりがある。あまりに度が過ぎていることをたしなめ、あまりにうまくいっているときには注意が必要だというようなやり取りをしたあと
「なあに鬼の平蔵は、この私を捕らえることが出来まいよ」
「それがお前、慢心というものだ」

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教育学を考える 29 授業の定型化1

 先日、臨床心理学の専門家と意見交換する機会があって、心理臨床分野でも、カウカンセリングの定型化を進めるような動きがあると知った。私は、精神の問題というのは、千差万別だから、カウンセリングの基礎として、定型的な方法を学ぶことは有効だとしても、現場では柔軟さが不可欠と思っていたのだが、どうも、とにかく、統合的、定型的な手法を絶対視するひとたちも出てきているらしい。臨床心理は、私の専門ではないので、触れないことにするが、教育の世界では定型的な教え方を求めることは、昔からある。そして、定型的な教え方を可能にする技術も進歩している。そこで、授業を忠臣に定型化に関して考えてみたい。
 
 何故、定型的な教え方を、教わる側から求めるのか。それは、教師の質に対する不信感があるといえる。優れた教師に教わればいいけれども、教え方が下手だったり、教える内容そのものをあまり理解していない教師がいる。そういう「はずれ」にあたってしまったときには、がまんするしかない。今はどうかわからないが、私が子どものときにも、新学期の担任発表のあとは、あたりとか、外れとか、いいあう人たちがいた。

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ウクライナ戦争停戦へのキッシンジャー提案

 今月の25日、スイスのダボスで行われた会議で、キッシンジャーが、停戦を促し、ロシアが占領している地域を、ウクライナがロシアに割譲することを提起したことに対して、ゼレンスキーが猛反発したことが話題になっている。ロシアのウクライナ侵攻が始まって以来、日本においても、戦争で人が死ぬのは問題だから、早く停戦すべきだという意見は、いろいろな人からでている。とくにリベラルの人がそうした見解を示すことが多かったようだ。代表的には和田春樹氏などがそうだ。もちろん、リベラルに限らない。
 今度はキッシンジャーが提起したということで、国際的にも大きな話題になっているようだ。しかし、私にはいかにもキッシンジャーらしい発言だと思った。ベトナム和平をまとめた功績でノーベル賞を受賞しているが、あわせて受賞したベトナム側は、受賞を拒否している。ノーベル平和賞に対する疑問が沸き起こったものだ。キッシンジャーはあくまでもアメリカの利害に立って、ベトナムを従わせるべく奮闘したに過ぎないのであって、より大きな敗北に至らないための方策を、当時とったに過ぎない。アメリカ人であり、アメリカ政府の代表としての交渉だから、それは当然ともいえる。

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CD個人全集・ボックスのジャケット問題

 たまたまHMVのサイトで、ウィルヘルム・ケンプ・エディションのレビューを読んでいたら、ある人は、「オリジナルジャケットではないことの利点を活かして」と書いており、別の人が、「いまどきオリジナルジャケットでなければ売れないことがわからないのか」と、ドイツ・グラモフォンを非難している、まったく逆の意見が掲載されていた。最近は、CDでは個人の全集のボックスが多く発売されており、とくに著作権が切れた大演奏家が多くなっており、ケンプの場合には、数点まだ著作権が切れていない録音があるが、80枚の大部分は著作権料が発生しないから、営業的には有利なのだろう。フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターなどの過去の大指揮者は、放送録音の発掘がいまだにさんかに行われて、新譜が出てくるが、クレメンス・クラウス、アンドレ・クリュイタンス、バックハウス等々、全集がでている人たちは、1972年前に亡くなったから、あるいは、以後録音をしていないひとが多い。もちろん、カラヤンやベーム、アバドなどの偉大な指揮者の場合には、著作権と関係なく全集が出ているが、そういう人は、やはり、わずかであり、ショルティやパバロッティのように、第一集がでたが、続きがでないという場合もある。

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ロシアは何故宣戦布告しないのか

 ウクライナ情勢は日々動いており、メディアの報道も、少しずつ変化してきたような気がする。ハルキウを奪還したころには、ウクライナがどんどん優勢になって、6月ころには大攻勢をかけ、8月には帰趨が明確になるかのような報道が目立った。しかし、最近はロシアも攻勢をかけており、かならずしも楽観できないという報道もみられる。私は、後者のほうが、現実に則した見方だと思っている。あまり楽観視すべきではない。そして、長引けばロシアが不利になるというのも、逆の側面もあることも、やっと指摘されるようになった。長期化すれば、ロシアの占領地域が既成事実化してしまう恐れがあるのだ。

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テレサ・ベルガンサが亡くなった

 スペインの名歌手テレサ・ベルガンサが亡くなった。既に引退して久しいと思うが、CDはいまだに売れ続けている。戦後の最も優れたメゾ・ソプラノ歌手の一人だと思う。
 私が自分のお金で最初に買ったオペラのレコードは、アバド指揮の「セビリアの理髪師」だった。これは、いまでもこの曲のベストだと思っているが、このとき初めてベルガンサを知った。そして、メゾがこのような華麗なコロラトゥーラの技巧をこなすことにびっくりした。
 戦前の最も優れたイタリアオペラの指揮者だったトスカニーニは、決してロッシーニを演奏しなかった。序曲はたくさん演奏したのだが、オペラは、上演不可能だと思っていたらしい。それは時代的に、ロッシーニの主役を歌える歌手がいなかったからだ。

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読書ノート『80歳の壁』和田秀樹

 羽鳥のモーニングショーに、和田秀樹医師が出演して、今ベストセラーになっている著書『80歳の壁』をもとにした話をしていた。そこで、大方の内容はわかったが、もうじき後期高齢者になることもあり、購入して読んでみた。内容が非常にわかりやすく、かつ談話のようなものなので、一気に読めた。内容は、共感する云々以前に、私自身がだいたい実践していることだったので、逆に驚いたほどだ。簡単にいえば、高齢者(この本では幸齢者と書いているが、普通に高齢者としておく)は、好きなことをして、食べたいものを食べ、楽観的に生きなさい、そして、あまり医療に頼るのではなく、病気になったとしても、闘病するのではなく、共病、つまり、病気と共に生きるというのがよい、というようなことだ。

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