先日、臨床心理学の専門家と意見交換する機会があって、心理臨床分野でも、カウカンセリングの定型化を進めるような動きがあると知った。私は、精神の問題というのは、千差万別だから、カウンセリングの基礎として、定型的な方法を学ぶことは有効だとしても、現場では柔軟さが不可欠と思っていたのだが、どうも、とにかく、統合的、定型的な手法を絶対視するひとたちも出てきているらしい。臨床心理は、私の専門ではないので、触れないことにするが、教育の世界では定型的な教え方を求めることは、昔からある。そして、定型的な教え方を可能にする技術も進歩している。そこで、授業を忠臣に定型化に関して考えてみたい。
何故、定型的な教え方を、教わる側から求めるのか。それは、教師の質に対する不信感があるといえる。優れた教師に教わればいいけれども、教え方が下手だったり、教える内容そのものをあまり理解していない教師がいる。そういう「はずれ」にあたってしまったときには、がまんするしかない。今はどうかわからないが、私が子どものときにも、新学期の担任発表のあとは、あたりとか、外れとか、いいあう人たちがいた。
それに対して、安心感を与えるひとつの方法が、教え方の定型化である。どんな教師も同じ型にしたがって教えれば、優劣はないというわけだ。しかし、人間が教える以上、いかに定型化されても、定型の活用の仕方に差はでるに違いない。だから、より強力に定型化を求めると、その極限がティーチングマシンである。教師の実力に幅が大きく、また、技術の進歩していたアメリカで、ティーチングマシンの研究が活発だったことはごく自然なことだ。機械が教えれば、教師の優劣の差はまったくない。
機械が教えるといっても、コンピューターもロボットも発達していなかった時代だから、機械が説明文を提示し、問題をだすときには、選択肢から選ぶようになっていて、間違えれば予定の解説をだす。そういった原始的なものであり、現在でも、パソコンの学習ソフトは、より能率的にやっているようなものが多い。そして、こうしたティーチングマシンに適合する教育理論が生まれ、実際に応用されていった。プログラム学習などが、その代表といえる。
しかし、教育に求めるものは、決して知識の習得だけではない。知識の習得についても、疑問をもったり、理由を考えたりすることは重要だが、ティーチングマシンでは、そこまでカバーできない。だから、初期のマシンが普及することはあまりなかった。
しかし、その欠点を補うような技術的進歩が実現した。まずはパソコンである。プログラム次第であるが、パソコンなら、問題を提示して、それを採点したり、疑問に答えることが、より柔軟かつ適切な水準で可能である。そして、インターネットの拡張はさらに大きな変化をもたらした。ひとつは授業について、他は学習について。
インターネットに限らないが、放送技術は、授業そのものを送信することで、ひとつの典型的な授業を時間と場所の制約なしに受けることができるようになる。もちろん、アーカイブを充実させれば、同じ単元の異なる授業を視聴することもできるようになる。現時点では、そうしたアーカイブはできていないと思われるが、将来はかならず実現するだろう。そして、リアルタイムの授業を、どこでも受けることも可能になり、それは、通常の授業のように、質疑応答も可能である。皮肉なことに、そうしたことが可能であるにもかかわらず、日本では、ほとんど実行されていなかったが、コロナで登校が難しい状況になって、飛躍的に拡大することになった。日本の多くの教師は、オンライン授業に否定的であるが、日常的にも、不登校や病欠の子どもへの補習としての役割を果たせることも理解されてきた。
他方、学習スタイルの変化ももたらした。もっとも、教師の側がどれだけ許容、活用するかにもかかっているのだが。学習者が自分で調べたり、意見交換することかより容易になり、授業中でも教師が自分で調べるように指示することもできる。
さて、こうしたことは事実として進行していることだし、とどめることなどできない事態と考えられるから、今後どのように展開していくのか、あるいはどのように展開していくことが望ましいのかを考えてみる。
1 優れた授業をオンラインで視聴することが、基本となって、通常の授業は補充的なものになっていくのか。
2 たくさんのオンライン授業のアーカイブがつくられ、それを教師が見ることによって、授業改善のために活用できるようになるのか。
3 そうしたアーカイブを子どもも見ることができて、同一教材の様々な授業を見ることができるようになるのか。
4 ティーチング・マシンの発展形として、パソコンに組み込まれた学習ソフトが、公教育にも浸透していくのか。
結論的にいえば、こうしたことは、すべて今後大きく進行していくと思われる。
数年前、久しぶりに日本教育学会に出席して、コンピューターと教育についての分科会があったので、出席したところ、そこでの報告は、経産省のSociety5.1の批判にもっぱらあてられていて、教育学が、コンピューターと教育の積極的関係にかかわる提起を、まったくする意図がないように感じたことで、非常にがっかりした記憶がある。教育学そのものが、もっとコンピューター活用を創造的に開発しなければならないと感じたものだ。(長くなるので、4項目と経産省の教育プランについての検討を引き続き次稿で行うことにする。)