ウクライナ戦争停戦へのキッシンジャー提案

 今月の25日、スイスのダボスで行われた会議で、キッシンジャーが、停戦を促し、ロシアが占領している地域を、ウクライナがロシアに割譲することを提起したことに対して、ゼレンスキーが猛反発したことが話題になっている。ロシアのウクライナ侵攻が始まって以来、日本においても、戦争で人が死ぬのは問題だから、早く停戦すべきだという意見は、いろいろな人からでている。とくにリベラルの人がそうした見解を示すことが多かったようだ。代表的には和田春樹氏などがそうだ。もちろん、リベラルに限らない。
 今度はキッシンジャーが提起したということで、国際的にも大きな話題になっているようだ。しかし、私にはいかにもキッシンジャーらしい発言だと思った。ベトナム和平をまとめた功績でノーベル賞を受賞しているが、あわせて受賞したベトナム側は、受賞を拒否している。ノーベル平和賞に対する疑問が沸き起こったものだ。キッシンジャーはあくまでもアメリカの利害に立って、ベトナムを従わせるべく奮闘したに過ぎないのであって、より大きな敗北に至らないための方策を、当時とったに過ぎない。アメリカ人であり、アメリカ政府の代表としての交渉だから、それは当然ともいえる。

 しかし、ロシアとウクライナの戦争に関していえば、どちらかといえは、ウクライナ側にたっている人物のはずだ。もちろん、ウクライナの主張するように、2月24日の侵攻以前の、あるいはクリミア割譲以前に戻すことが理想だが、と断っているが、実際の提起としては、ロシア側の利益にしかならない提案をしている。結局、大国意識に染まった人間なのだろう。
 この件に関しては、実に多様な意見かネットに現れている。
 もちろん、キッシンジャーを支持する見解もある。戦争を継続していれば、結局、ウクライナ人もたくさん死んでしまう。死んだら何にもならないではないか。とにかく、停戦して、生命をこれ以上落とさせないことが重要という、一見人道的な立場である。
 それに対して、ウクライナ人がそんなことを望んでいないのであって、それは国民としての誇りであり、祖国のために死ぬほうが、祖国を取られていきるよりましだ、という感覚を支持する見解がある。
 さらにそうした見解に対しては、ウクライナ人は本当に、たとえ死んでも祖国を守ることが重要だなどと思っているのかという疑問もだされる。
 結局ウクライナ人の多数の意識を尊重するしかないのであり、彼らがあくまで闘うといえば、応援し、停戦やむなし、領土割譲やむなしと考えれば、それを受け入れるということだろう。国民のなかには、もちろん多様な意見があるだろうが、選挙で選ばれた大統領が、徹底抗戦を主張し、国民の多くがそれに応えていることで、ウクライナ人の大方の見解を推測すべきであろう。しかし、キッシンジャーは、停戦条件として、ウクライナ側に譲歩を求めている。侵略したのは、ロシアなのだから、ロシアに対して、まず停戦条件を提示すべきであろう。まずは、侵略にまったく大義はないのだから、まず軍を退くべきだ、そして、ウクライナの中立化とか、NATO非加盟とかは、それから交渉すべきではないか、と。そうした前段階抜きに、ウクライナに領土の割譲という譲歩を、停戦条件として示すというのは、大国主義的感覚以外の何物でもない。
 
 さて、これだけでは、あまりに公式的になるので、ウクライナでも当然ロシア派はいるし、協力者もいることを考えてみたい。ウォールストリート・ジャーナルに掲載された「ロシア軍に協力、ウクライナの裏切り者に裁き ウクライナの住民の懐柔努めたロシア任命の町長 突然の軍撤退で置き去り」という記事は、非常にウクライナ国民の複雑さを示していて興味深い。
 ロシア軍がキーウ近郊に侵攻して、かなりの町を制圧した。すると、ロシア軍は、食料などの日常品をつかって、住民の懐柔に努める。そして、ウクライナの首長にかわって、ウクライナ人の首長を新たに任命して、行政を行おうとする。こういう動きはどこでもやるようだ。そして、そうしたロシア軍に協力するウクライナ人もでてくる。そういう一人がここで描かれている。自分から協力を申し出たようで、心からロシア人がウクライナによりよい生活を保障してくれると思い込んでいたようだ。そして、主観的には住民の懐柔のための協力をするが、近くでみていたウクライナ人は、彼が秘密の書類、つまり、ウクライナ兵の名簿などを、ロシア側に提供するようなことはしていないと、証言している。
 ロシアが撤退したあと、彼の友人(ロシアへの協力者)は、ロシア軍と一緒にベラルーシに逃れたが、彼は悪いことはしていないと、とどまった。そして、ウクライナ当局に逮捕され、裁判を待つ身だというのだ。
 そして、その町の町長だった人は、わずかな間に書類を整理して、逃げたが、結局秘密書類を全部処理しきれなかったので、いくつかを発見されたという。しかし、結局、ロシア軍が撤退したために、書類を発見されたことの弊害はなかったようだ。
 さて、ロシア軍に協力して「町長」になった男への感情は、かならずしも一様ではない。彼を庇う人も少なくないようだ。つまり、ロシア軍に対して、住民へのサービスを保障してもらうべく活動することが、住民にとってはいいことだと信じていたのだろうし、事実、食料の配給などには、ウクライナ人は長蛇の列をつくったという。そして、その傀儡町長が、住民の弾圧に協力したわけでもない。
 しかし、ウクライナ政府にとっては、ロシア軍に協力するなどは、国家への裏切り以外のなにものでもないとすることは当然である。彼のように、首長にしてもらって、喜んでいた者は確かにいるのだろう。また、仕方なく迎合している者もいるだろう。だが、これだけ酷い破壊活動をされて、その破壊者に協力する人を許すことができないのも、自然な感情だ。
 こうした対立構造は、戦争が終わったあとも、簡単に解決できることでもないに違いない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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