人間の尊厳が侵されている場合はどんなときかと考えたときに、私は、障害者教育について思い浮かんだ。障害者を持っている人たちは特別支援学校に行くか、普通学校で健常児と一緒に学ぶか選択することができる。重度の障害を持った子は特別支援学校に行くことを迷わずに選択することができるが、軽度の場合には普通学校に行くこと選択する人も多いだろう。普通学校で学ぶ場合には、授業のペースについていけず、周りから置いていかれてしまうと感じる子もいると思う。そのとき、人間の尊厳が侵されているのではないと考える。人間には誰もが教育を受ける権利がある。このとき、障害児は教育を受けることができているが、適切な教育を受けられているのかいうと疑問を感じる。一人の障害を持っている子のために授業のペースを遅くするのは、それはそれで問題がある。指導の方法に工夫をしていく必要があるだろう。
今、クラスの中には必ず軽度の障害を持つ児童がいると言われている。発達障害の中でも、私は学習障害(LD)について調べていきたい。
私は将来小学校の教員を目指している。大学ではLDなどの障害をもった児童に対する指導、支援の方法は詳しく教わらないので、この機会に学んでおきたいと思ったのでこのテーマに決定することにした。
軽度の学習障害だと、障害だと気づかずに普通学級にいることが多いらしい。学習の著しい遅れがあることに親や教師が不安を抱くのはもちろん、なぜクラスのみんなの授業をできないのか、本人が一番苦しんでいるだろう。それが原因でいじめに発展するケースも少なくない。今回、「人間の尊厳」というテーマを踏まえて障害者が普通学級でも楽しく快適な学校生活を送るためにはどうすればいいのか考えていきたい。
調査方法として、障害についての知識を得るためにまずは文献で調べる。そこで学習障害の特徴を捉え、事例なども調べてみる。文献で調べたことをインタビューに活かしていきたい。次に、実際に学校現場に行き先生にインタビューをする。内容としては、障害をもった生徒にどのような支援をしているか、指導する際に気を付けること、これからの支援の仕方などについて聞いていきたい。これからボランティアで行く小学校にしている学校をインタビューの対象とする。
月別: 2014年5月
いじめの実態に迫る
こんにちは、まーぼーです。
これからゼミで取り組む研究の個人テーマについて、研究方法と目的と動機について書いていきます。
私が「人間の尊厳」というテーマのもと、ゼミでやりたいと考えている内容は、いじめについてです。
今回は、いじめはいじめでも学校現場での児童・生徒同士のものを主としたいと考えています。
加害者・被害者の心理状態や環境、いじめのきっかけや原因はどのようなものであるかを実際に経験したことのある人に、辛い思いをさせないように配慮しつつ、話を聞いたり関わっていったりしていきたいと思っています。
フリースクールの関係者に話を伺う約束をすることができました。
基本的な知識や理論については文献で調べておき、学内でも簡単な質問紙とそこで実際にお話しをしていただけないかの協力をお願いできたらと思っています。
また、フリースクール(地元のフリースクールに見学とお話を伺う約束をしました。)や、学校の相談室でのボランティア(埼玉県で募集しているスチューデントサポーターに参加できないか検討中)、児童相談所等で、経験した児童・生徒の声を聞いていきたいと考えています。
私がこのテーマで研究したいと考えたのは、いじめとは通常学校や学級だけではなく、特別支援学校でも起こるものであると聞いたことがあるのが一番の理由です。人間の尊厳を考えたときに、ステータスが同じくらいの人どうしでも起こる尊厳が保たれない状況はいじめなのではないかと思いました。いじめの程度の違いはあるけれど、自分以外の誰かを傷つけてしまう気持ちというのは誰しも持っている気持ちなのかもしれないと思います。しかし、それが他の気持ちを上回ってしまう状況や、その人の人格を形成した背景も関わってくるのではないか、そこを個人に対応して考えられるようになればいじめを減らしていけるのではないかと考えました。いじめが起きてからの対応法も大切かもしれませんが、予防するという積極的な方法を学んでいきたいと考えていたので、この機会に研究していきたいと考えました。現場に立ったときに、少しでもいじめを起こさないための方法などを学んでいかせていけたらと思います。
人間の尊厳と加害者家族の人生
「人間の尊厳とは」
まず、尊厳の意味は「尊くおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。」という意味です。そこから考える、私の思う人間の尊厳とは、「人間として侵されることのない日常や最低限の権利」ということではないかと考えています。
では、この尊厳を侵されている人間は、どんな人間なのか、と考えたときに、私の浮かんできたことはいじめでした。いじめは、平穏な日常が守られておらず、他人から発言権を奪われたり、何か行動する権利、ひどい場合には生きる権利をも否定されたりしています。
いじめられるきっかけや原因はたくさんのものがあります。そこでわたしがさらに焦点を当てて考えたいと思ったのは犯罪者の家族(子ども)へのいじめや入学拒否についてでした。犯罪者の子どもはあくまでも子ども。本人というわけでもないのに、いじめを受けたり、周りから誹謗中傷の声が上がったり、入学拒否されたりしています。そのため、犯罪者の家族や子どもは人間の尊厳を守られていないと考え、調べたいと思いました。
当初、私が調べたいのは加害者の子どもは学校ではどうなのか、という部分でした。オウム真理教の信仰者の子どもは以前、入学拒否されたと学び、ほかにもそういう件があるのか調べたいと思い、この件に関することをネットで調べてみました。すると、被害者家族への配慮やカウンセリングはされているのにもかかわらず、加害者家族には配慮等はされていない現実があることを知りました。インタビューは拒否することができず、世間からも距離を置かれ、笑うこともなくことも許されないという思いになるという話もありました。
そのことを知り、当初の調べたいことよりも焦点を広く当てて、加害者の家族について調べていきたいと思います。また、メディアとの関係にも触れていきたいです。
最終的には、加害者の家族のプライバシーを守り、プライバシーや人権、教育に影響を与えないような制度方法(海外で行われているものなど)を調べていきたいと思います。
そこで、気を付けなければならないことは、加害者の家族にばかり目を向けてしまい、被害者の家族や加害者家族を受け入れる側の気持ちや権利も考えなければなりません。私自身、もし目の前に連続殺人事件の犯人の家族がいたら、純粋に仲良くなろうなど考えられないと思います。避けることはしなくても、なんとなく距離を置いてしまうかもしれません。様々な点からこの問題を見るとともに、どの立場の方でも受け入れできる方法を考えていけたらいいと思います。
では、調べる方法はどうしていくかというと、まず、犯罪者の家族が自殺した件を調査していきます。具体例として、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人の父親が自殺したという文献を探したいと考えております。また、最近では秋葉原無差別殺人事件の弟さんは週刊誌(週刊現代2014/04/26号)のインタビューの一週間後に自殺したという話があります。できれば、その週刊誌の記者に連絡を取り、記載されていること以上の話もお聞きしたいと考えています。また、犯罪者家族の会、ワールドオープンハートという法人団体の代表者、阿部さんにインタビューしたいと思っております。東京や埼玉など、訪問できる場所にいるときに直接会いに行く、もしくは電話やメールで質問にお答えしていただく形にします。ここで、加害者家族の子どもはどんな風に学校生活を送っているのかということについて、詳しくお聞きしたいと考えております。さらに鈴木伸元さんにインタビューもします。鈴木さんは「加害者家族」という本の著者で、このことを書くにあたって、たくさんのインタビューを繰り返し書き上げたというお話をされていました。そこで、その本を読み、さらに情報がほしい場合はインタビューしたいです。また、その本は加害者家族の現状を知ってもらうために、展示で紹介したいとも考えております。そのほかには、被害者の家族の意見を聞くための調査を行ったり、入学拒否をした学校へのインタビューをしたりすることも考慮していきます。日本の犯罪者の人権保護についてと外国の犯罪者の人権保護について調査していきます。上記の問題について、日本の法律や制度等を調べた上で、外国の法律や制度等を文献を使用し、調べていきます。日本と比較し、日本のこれからの犯罪者、犯罪者家族への配慮について考えていきます。
人間の尊厳とADHD
私は発達障害の中でも特にADHDについて調べたいと思っている。それは将来教師を目指すうえで最も不安に思うことが、ADHD(と思われる)の児童への指導だからだ。学習障害のみを抱える児童であれば、特別な課題を用意し、丁寧に指導することで対応できると思うが、ADHDの児童への対応は複雑だと私は考える。授業をしっかり聞くことができなかったり、一対一で話をしていても他の事が気になって話をしっかり聞けなかったりすると指導すらままならない可能性もある。また、授業を集中して受けられないことは、他の児童の集中力を削ぐことにもつながりかねない。今回のゼミの研究テーマである「人間の尊厳」を考えた時に、この点が当てはまると考えた。ADHDの児童本人は、授業や話をしっかり聞かないという点で教育を受けられないし、その他の児童は教育を受けようとするにもかかわらずそれを邪魔されてしまう。そういったことが起こらないようにするにはどうすればよいのか、多方面で話を聞いてみて自分なりに答えを出したいと思う。
ボランティアや補助員を何度か経験して、ADHDの児童と関わる機会があったが、これが正解である、というものは見つからないと思う。近年インテグレーションやインクルージョンといった考え方が広まっているが、それがどんな状況でも正しいとはいえないと私は考える。確かに、障害を抱える児童にとっても、健常な児童にとってもメリットのある教育だろう。通常学級に在籍することで自分が障害を抱えているということを意識しなくなるだろうし、障害を抱えている児童と接することで健常児も障害についての認識を改めることを期待できる。しかし必ずしもそういったことを期待できるわけではないし、良い教育ができるとも限らない。実際に、補助員としてついていった通常学級の林間学校で大変な事態が巻き起こったが、特別支援学級の宿泊体験では特に大きな問題が起こらなかった。通常学級の林間学校では、ADHDだと思われる児童が3クラスにそれぞれ2~3名ずつくらいの割合でいた。それらの児童たちが騒ぎ出すと、周りの児童がつられてしまう。そのせいで収拾がつかない事態になることが多々あった。またそれらの児童は掃除や部屋の整理を手伝ったりせず、やりたい放題であった。対して特別支援学級のADHDと診断されている児童たちは、騒がしくなることはあるものの、下級生の面倒を見たり、荷物の整理や部屋の清掃をきちんと行ったり、責任感のある態度を培っていた。学力の面で比べることは出来ないが、人間として大切なことを学べているのは明らかに後者である。多動は年齢を重ねるとともにおさまっていくと授業で習ったが、何も学んでこなかった状態でリスタートするのと、通常学級で学んできた人たちよりは劣るものの、最低限の知識と人間性を身につけた状態でリスタートするのとでは、明らかにその後の人生に差が出ると私は考える。
全ての障害児を特別支援学級に入れろとは言わないが、通常学級で指導をするのであれば、特別支援学級と同等かそれ以上の教育的成果をあげることが必要だと思う。そのためにはどのようにするべきなのか、文献をあたり、実際に通常学級の担任の先生に話を伺ったり、特別支援学級の先生に話を伺ったりすることで、それぞれどのような考えを持ているのか、またどのようにすべきだと思っているのか理想と現実のギャップについても聞いてみたいと思う。地元の小学校(府中市立府中第五小学校)の校長先生が知り合いなので、その学校の先生方にインタビューをお願いできるか伺ってみようと思う。ここは特別支援学級もあるため、様々な情報や意見を得られるのではないかと考えている。また以前今野先生と話した際に、越谷の小学校とのつながりがあるとおっしゃっていたので、今野先生を通してお話を聞きにいけないかと考えている。
人間の尊厳に関わる不登校
私は、学校に行きたくないと感じる気持ちにどんなことが関わるのかについて考えたい。そこで学校に行きたくないということは不登校に入ると考えてテーマを選んだ。文部科学省の不登校の定義としては、年間30日以上欠席した児童生徒のうち、病気や経済的な理由を除き、何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者とされている。私は、学校に行くという権利、尊厳が侵されるということが不登校に含まれていると考える。このため、学校に行くという権利や尊厳が侵されている、学校に行きたくないという気持ちについて考えたい。
不登校に関わる気持ちとして、人間関係について考えられる。例えば、いじめがあること、会いたくない人がいることがある。また、自分自身に関することについても考えられる。例えば、自分に自信がないこと、家から出て他の人に会いたくないことがある。他に、責任を押しつけられること、だれからも認められないと感じること、勉強をする意味がよくわからないことなどが考えられる。
調べた文献では、不登校を作りだす要因として、学校環境の中に不快な出来事があったと挙げられている。また、自尊感情と不登校の関係の指摘が論文でされている。
学校に行きたくないという気持ちについて、実際の支援の事例を文献などで探すことや、どのような時に学校に行きたくないと感じたかについてのアンケートやインタビューを、学生を対象としてすることを考えている。また、実際にフリースクールや通信制高校に訪問し、現場の人が感じる不登校が起こる気持ちについて聞きたいと考えている。
不登校の支援として、通っていた学校へ行くという選択肢や他の学校にいくなどの選択肢があることを考えるなど、行えることのできる支援について調べてまとめたいと考えている。
全てのこどもに愛情を!!
近年、親の子どもに対する育て方が問題視されている。子どもの虐待について調査している『オレンジリボン運動』という団体によると、児童相談所における児童虐待相談対応件数は、平成初期には1000件ほどであったが、年々増え続けており、平成24年度には66807件と過去22年間で約60倍にもなっているという(平成2年~平成24年度まで)。何故このようなことが起こるのか?原因の一つとして、しつけと虐待を混同している親が多いということが考えられる。まずはしつけと虐待の違いについて触れてみたいと思う。
しつけとは、教育全般と言い換えてもよいが、教育一般よりも生活全般に根ざした、更に根源的な事柄にまつわる部分を教えていく行為を指す。特に言葉が理解出来ない幼児の教育に関しては、様々な態度で接することで「やって良いこと(=誉められる)」「やってはいけないこと(=罰せられる)」の区別をつけさせることでもある。つまり子どもが物事の善し悪しを理解するために必要な親の教育のことをしつけというのである。
虐待とは、自分の保護下にある者(ヒト、動物等)に対し、日常的にいやがらせや無視をするなどの行為を行うことを言う。「児童虐待の防止等に関する法律」により、子ども虐待の定義は、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待となった。専門家によると、「子どもが耐え難い苦痛を感じることであれば、それは虐待である」と考えるべきだという。
何故この両者が混同されてしまうのか。私は親の心に問題があると思う。
子供を育てる上で必要なのは愛着形成である。子供が幼い頃に十分なコミュニケーションを取ることで、自然と愛着が形成され、心の豊かな人間に成長することができる。しかし、このコミュニケーションができていない親が多いように思われる。近年、「ながら授乳」という言葉をよく耳にするが、これは母親が携帯電話やスマートフォンを使用しながら赤ちゃんに母乳を飲ませるということである。本来ならば、語り掛けをしたり、頭を撫でたりと、コミュニケーションをとりつつの授乳が望ましい。「ながら授乳」は、愛着形成を阻害する要因になっているのである。その結果、こどもが成長してからも母親の子どもに対する愛情が欠落し、子どもを叱る時に間違った方法を取ってしまうのではないか。親子間での愛着形成の形成失敗が、正しいしつけの欠落をもたらしてしまうと私は思う。
正しいしつけの方法を身に着け、虐待に走らないようにするには、親が自分の子どもが生まれる前から子どもの成長段階に合ったコミュニケーションの取り方を学び、身に着けることが必要である。これがいわゆる『親学』というものである。親学とは、伝統的価値観に基づいて学ばなければいけないとされているものである。この戦前から存在する伝統的な子育てを広めるべく活動している『親学推進協会』という団体によると、発達障碍やアスペルガー、自閉症は親の愛情不足が原因で、伝統的子育てでは発生しないという。例えそうでなかったとしても、親の育て方はその子どもの発達や人格形成に大きな影響を与えているのは間違いないだろう。その大事な成長過程の中で虐待を受けた子どもは歪んだ人格を形成してしまいかねない。虐待まではいかなくとも、言葉の暴力などによる精神的苦痛を負った子どもは自分に自信を持てなくなり、生活力の乏しい人間になってしまう。これがいわゆる自己肯定感の欠落である。
現在の子どもの自己肯定感の低さを物語るデータがある。東京都教育委員会は、2008年11月から12月にかけて、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生5855人を対象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを実施した。その結果、「自分のことが好きだ」という問いに対して、小学生では、1年生の84%が肯定的な回答をしたものの、学年が上がるにつれてその割合は低下していき、6年生では59%まで落ちていることがわかっているという。
中学生では「自分のことが好きだ」との問いに対して、「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と否定的に回答した割合が、中1で57%、中2で61%、中3で52%となった。高校生でも結果はそれほど変わらず、高1で56%、高2で57%、高3で47%となっている。自分のことを好きになれない子供たちがこれほど多いのはなんとも悲しいことである。
私が今回子どもに焦点を当てたのは、自分が将来親になった時に正しい育て方を身につけたいと思ったからだ。そのためにまず現在の親の子どもに対する育成上の問題点を調べる必要性があると思う。そしてこのゼミのテーマである『人間の尊厳』と絡めて、親の子どもへの虐待について調べようと思う。調査方法としては、地域の児童相談所の担当の方や、上記にもある『オレンジリボン運動』の代表の方へのインタビューや、虐待に関するニュース記事や文献などの講読を考えている。主に明らかにしたいことは以下の5項目である。
① 現在の虐待の現状と種類について
② 虐待を受けた子どもに対する対応の方法と、虐待をした親に対する対応の方法
③ 虐待を受けた子どものその後の生活
④ 虐待後の親子関係(修復した場合について例があればその経過を)
⑤ 虐待を防ぐためにどのような活動が行われているか
調査の第1歩として、5月25日に大手町で行われる『オレンジリボンフォーラム』に参加する予定である。今後も報告・感想等をまとめていこうと思う。
参考文献・URL
『子ども格差 -壊れる子どもと教育現場』尾木直樹
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A6%AA%E5%AD%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%90%E5%BE%85
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%91
インターネット内発言から見た人間の尊厳
私は、人が、ある一つの問題について考え、その考えを発する方法には何があるか、その時の権利とはどうなっているのかを考えた。方法については、ただ口ずさむ、直接相手に対して口から言葉を発して伝える、文字として表す、出版する、作品にする、など、多くの方法を思い浮かんだ。そして、その中でも、近年になって急速に普及した、インターネットによる掲示板投稿、いわゆるネット社会での発言について考えることにした。また、一概にネット上での発言といえども、個人によるものやグループ集団のような複数で行うものなど、さまざまなユーザーが存在するが、特に、ネット内での過激な発言が目立つ、「ネット右翼」に注目して調べていこうと考える。
インターネット内発言について取り組もうとした理由は、今までは自分が指定した人にしか自分の意見を伝えることはできなかったが、インターネットを使うことにより、不特定多数の、自分が会ったことの無い人たちに向けて意見を発することができるようになり、自分が直接会わなくても発言できるということから、良い意味でも悪い意味でも「自由」に発言できるようになり、誹謗中傷なども構わずでき、ネット内=便利という概念が崩されかけているように見え、気になったからである。また、ネット内で飛び交っている過激な発言が本音であるのか、もしくは、他から直接見えないから言えるのか(面と向かっては言えない?)という疑問を持ち、相手が見えない世界で誹謗中傷された人が侵害された権利についてどうなっているのか、興味を持ったからである。私はこういったインターネットの利便性の中にある、相手が見えない世界での発言について、いくら相手が見えないから普段よりも強気な発言ができるといえども、さすがに限度というものがあると思うので、そういった発言は慎むべきだと考える。特に、ふざけているのか真面目になのか表情がわからないネット内社会では、自分はふざけて発言したつもりでも、相手にとってはとても不快に感じさせる内容にあたる可能性があるので、ネット内でもマナーを守った発言をすべきだと考える。
調べる方法は、書いた本人が見えない「ネット右翼」自体に直接インタビューをすることはできないと思うので、ウェブサイト、実際にした過去の発言、文献、また、ネット右翼に詳しい人の話を参考にして進めていこうと考えている。特にネット右翼に関しては「2ちゃんねる」が主であるようなので、2ちゃんねる内を周回したいと考えている。そして、ネット右翼という言葉自体、近年になってでてきた新しい俗語であり、定義もあいまいで、諸説ある様なので、偏った考えにとらわれないよう、広い視野で調べていこうと考えている。
私の考える人間の尊厳とは、人が何か考えを発する権利や、その発言によって傷つけられない権利である。それは、誹謗中傷や、反社会的な発言が行われたときに、その対象となった人の人間の尊厳が犯されていると考える。その中でも、発言する本人が見えないために良い意味でも悪い意味でも自由な発言ができるインターネット内の発言を取り上げ、特に活動が活発なネット右翼についての研究をしていきたいと思っている。
認知症に携わる人々の尊厳とは?
私たちのゼミのテーマが「人間の尊厳」に決まった。私の考える人間の尊厳とは、簡潔に述べると、人間が人間らしくいられることだと考える。私たちが不自由なく何気なく生活していることは尊厳が確立されていると思う。
今回のゼミのテーマでは人間の尊厳を侵されている人々に焦点を当てる。身体やメンタルなど様々な視点から侵されている人を予想することが可能である。
私が脳裏に「“認知症”の方々は尊厳を侵されているのではないか」と浮かんだ。実際に私の祖父が認知症の症状が少しあり、その援助をしている祖母も見ていたのでより一層調べてみたいと思った。認知症は加齢と共に発達していた機能が低下することである。例えば記憶能力の欠落から物忘れが激しくなること、寝た事を忘れ睡眠障害になってしまうことなどが挙げられる。完全に認知症の人々は何も考えないで生きているのでそもそも尊厳の確立すら意識することがないと予測出来る。 自分の思い通りに行動出来なくなってしまったりすることは、「人間の尊厳を侵されている」ということに合致すると予想した。
私は今回のゼミで調べていく方針として、もちろん認知症の症状や実際に認知症である人々もそうであるが、認知症に援助している側にも焦点を当てて追求していきたいと思う。
認知症の援助をしている人は自分の時間を奪われていることになる。そうなると、援助している側にも尊厳を侵されている可能性が出てくると考える。
具体的な調査内容としては認知症の人の尊厳を確立する為にはどのように援助すべきであるか。認知症の方の援助をしている周りの人はどのようなアプローチをしているのか。また、援助の疲労やストレスから援助の疎遠が伺われるのかどうかなど。
調査方法については母が介護保険の認定調査の仕事に携わっていることから認知症の方々の実態や家族援助について詳しく聞きこみたいと思う。認知症の方々や家族のプライバシーの保護の為、仕事を拝見したりすることが困難であるようなので、インタビューで出来る限りの事を答えてもらいたいと思う。また実際に認知症の居る老人ホームなどに訪ねる事が出来ればいいと思う。
また、認知症をテーマにした映画がいくつかあるようなので鑑賞し、文献で調査するなどして少しでも認知症の援助について感じることがあればいいと考える。
将来、認知症になる可能性は誰にでもある。そんな時人間が人間らしくいられる為にこのテーマを徹底的に追求していきたいと思う。
いじめによる人間の尊厳の侵害を防ぐ
毎日の生活で私の人間の尊厳はちゃんとある!と感じる人は多くないだろう。尊厳についてあまり考えていないということは幸せに生きているからだろう。この幸せとは、毎日がハッピーな気持ちでいることでなく、生きる希望を持ち続けているかということだ。辛かったことがあっても未来を信じて努力しようとする姿勢は生きる希望があるととらえる。一方、自分は人間らしい暮らしをしているのだろうか、と考える人もいる。例えば、経済的に裕福であっても孤独を感じて毎日死にたいと思っているような状態であれば、生きている意味があるのか、と考えやすくなるだろう。このように、人間の尊厳について考えることは、尊厳が侵されている状態であることが多い。自分たちが幸せであるから不幸な人たちのことが盲点になりやすい、ということは、共存ができていなくみんなが平等な社会ではなく、改善をしていかなくてはならばない。日本では、死因の中でも自殺が大きな割合で占めている。自殺はただ死にたい、と思っただけで実行するほど軽率な行為ではない。自殺は精一杯生きたくてももうその望みはなく、その辛さから逃れる最終手段であり、自殺を選択する状態は決して人間の尊厳があるとは言えない状態だろう。自殺の中でも、いじめによるものは大きく取り上げられる。様々な理由があると思うが、いじめはとても身近な存在であるから注目されるのだと私は思う。加害者でも被害者でもほぼすべての人が経験したことがあり、尊厳が侵される原因の中でも最も身近なものだと言っても過言ではないだろう。
いじめが深刻な問題になるのは学校である。子どもたちは他人の気持ちを理解できなかったり、大人数の仲間を作り少数の人を非難したりいじめが起きやすい条件があるし、多くの人がいじめを体験する初めての場所でもあり、学校のいじめは尊厳を侵しやすくなる。
それでは、いじめを未然に防ぐには教師はどうしたらよいか。今よりも子どもの生活と密着になれるようにすればよいのか。今の教師の仕事の状況からして、これ以上仕事を増やすことは不可能であるし、仮にスクールカウンセラーを増員したとしても子どもの生活を深く関わろうとすると、子どもを自由にしてほしいと保護者からクレームを言われる場合があるし、いじめをなくそうと押しつけることで、表面的にはいじめがないように過ごすのだが、ネットいじめを行うなど、いじめが陰湿化してしまうケースがある。いじめが起きないことが一番良いことであるし、本来ならばそうしなくてはいけないが、私は、いじめを受けているときやその後のサポートが尊厳に関わってくると思う。いじめを受け始めたころは解決したい、という生きる希望があり尊厳が侵されている状態にはなりにくいが、深刻になり生きている意味を見いだせなくなってしまったら、他人のサポートがしにくくなるだろう。いじめの早期発見によるいじめ対処のサポートが重要だと思う。私は以前いじめを受け、自分の欠点を見直すことができたりその後いじめられている人の気持ちを少し理解できるようになったりと、いじめられた経験がマイナスなことばかりではないと思う。しかしこのように考えられるのは早期発見や当時の先生が助けてくれたり家族が悩みを聞いてくれたりしたので、そこまで深刻な問題に至らなかったのだと思う。いじめを“なくす”より“軽減する”ことが尊厳を守ると考えたときに重要になってくるだろう。いじめがあっても教師がそれを気づけるように、子どもと教師の信頼関係を強くしたり、いじめられている子を助けたいと思う子が1人でもいてその子が行動に移すことができるようになったりすればいじめが止められると推測する。
いじめのサポートの仕方をするためにまず、学校現場ではどのような方法でいじめを解決しているのかを知りたい。教師によっていじめの対処する方法が違い、どの方法が効果的であるのかをいじめの対処が得意な教師に聞き出したい。これをきくのはボランティア先の学校にインタビューして調査する予定だ。次に、いじめられて学校に行けないような子のサポートはどのように行って再び学校に通えるようになるのかを、電話の相談所に伺ってサポートの仕方を学びたい。この二か所でのいじめのサポートの仕方の相違点を見つけ、学校現場でも実践できるようなサポートの仕方を見つけたいと思う。
今年のゼミテーマは「人間の尊厳」
いよいよ、新しいブログを再開することになりました。前のブログは、どうやら経営母体が不調だったようで、とりあえず、文章は別のところに移管する形になりましたが、やはり、本来のブログソフトを使用した形でやりたかったので、かなり間があいてしまいましたが、サクラネットの場で再開することにしました。こちらは有料のレンタルサーバーなので、まず大丈夫でしょう。
さて、今年の3年生のゼミの共通テーマは、「人間の尊厳」です。このテーマは、私が研究者として、教育学を選択したときの大きなきっかけでした。高校生だったときに、宗像誠也という人の書いた『私の教育宣言』という岩波新書に、「教育とは人間の尊厳を打ち立てることである」という言葉があり、それに惹かれたというわけです。
しかし、それ以後、「人間の尊厳」をテーマに研究したこともないので、単なるきっかけにすぎないのが、これまでの経緯でしたが、3年前から、セミで共通テーマによる共同研究をし、それを学園祭で発表する形にして、共通テーマを設定してきました。
これまでのテーマは「震災と教育」「躓きと立ち上がり」「幸福」でした。それぞれ、私の感覚では、しっかりした共同研究ができたと思いますが、今年度は更に飛躍をしようということで、私の原点である「人間の尊厳」というテーマにしたわけです。
「人間の尊厳とは何か」ということを、正面から問題にするのも重要でしょうが、こういう状態は、人間の尊厳が保持されているのか、と多くの人が疑問に思うような事実を通して、逆の方向から、人間の尊厳を捉えなおしたいということが、私の意図です。現在、グループ分けが済み、個々人の分担を明確にしている段階ですが、徐々に作業が具体化してくると思います。それを順次ここで公表していくことになっています。それはまた、学生たちの文章力を鍛える道場としての期待でもあります。
また、4年生は、卒業研究を進行させており、その中間発表的なものをここに掲載していく予定でもあります。