人間の尊厳とADHD

私は発達障害の中でも特にADHDについて調べたいと思っている。それは将来教師を目指すうえで最も不安に思うことが、ADHD(と思われる)の児童への指導だからだ。学習障害のみを抱える児童であれば、特別な課題を用意し、丁寧に指導することで対応できると思うが、ADHDの児童への対応は複雑だと私は考える。授業をしっかり聞くことができなかったり、一対一で話をしていても他の事が気になって話をしっかり聞けなかったりすると指導すらままならない可能性もある。また、授業を集中して受けられないことは、他の児童の集中力を削ぐことにもつながりかねない。今回のゼミの研究テーマである「人間の尊厳」を考えた時に、この点が当てはまると考えた。ADHDの児童本人は、授業や話をしっかり聞かないという点で教育を受けられないし、その他の児童は教育を受けようとするにもかかわらずそれを邪魔されてしまう。そういったことが起こらないようにするにはどうすればよいのか、多方面で話を聞いてみて自分なりに答えを出したいと思う。

 ボランティアや補助員を何度か経験して、ADHDの児童と関わる機会があったが、これが正解である、というものは見つからないと思う。近年インテグレーションやインクルージョンといった考え方が広まっているが、それがどんな状況でも正しいとはいえないと私は考える。確かに、障害を抱える児童にとっても、健常な児童にとってもメリットのある教育だろう。通常学級に在籍することで自分が障害を抱えているということを意識しなくなるだろうし、障害を抱えている児童と接することで健常児も障害についての認識を改めることを期待できる。しかし必ずしもそういったことを期待できるわけではないし、良い教育ができるとも限らない。実際に、補助員としてついていった通常学級の林間学校で大変な事態が巻き起こったが、特別支援学級の宿泊体験では特に大きな問題が起こらなかった。通常学級の林間学校では、ADHDだと思われる児童が3クラスにそれぞれ2~3名ずつくらいの割合でいた。それらの児童たちが騒ぎ出すと、周りの児童がつられてしまう。そのせいで収拾がつかない事態になることが多々あった。またそれらの児童は掃除や部屋の整理を手伝ったりせず、やりたい放題であった。対して特別支援学級のADHDと診断されている児童たちは、騒がしくなることはあるものの、下級生の面倒を見たり、荷物の整理や部屋の清掃をきちんと行ったり、責任感のある態度を培っていた。学力の面で比べることは出来ないが、人間として大切なことを学べているのは明らかに後者である。多動は年齢を重ねるとともにおさまっていくと授業で習ったが、何も学んでこなかった状態でリスタートするのと、通常学級で学んできた人たちよりは劣るものの、最低限の知識と人間性を身につけた状態でリスタートするのとでは、明らかにその後の人生に差が出ると私は考える。

 全ての障害児を特別支援学級に入れろとは言わないが、通常学級で指導をするのであれば、特別支援学級と同等かそれ以上の教育的成果をあげることが必要だと思う。そのためにはどのようにするべきなのか、文献をあたり、実際に通常学級の担任の先生に話を伺ったり、特別支援学級の先生に話を伺ったりすることで、それぞれどのような考えを持ているのか、またどのようにすべきだと思っているのか理想と現実のギャップについても聞いてみたいと思う。地元の小学校(府中市立府中第五小学校)の校長先生が知り合いなので、その学校の先生方にインタビューをお願いできるか伺ってみようと思う。ここは特別支援学級もあるため、様々な情報や意見を得られるのではないかと考えている。また以前今野先生と話した際に、越谷の小学校とのつながりがあるとおっしゃっていたので、今野先生を通してお話を聞きにいけないかと考えている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。