教育学を考える23 書くこと -生活綴り方

 『教育』2月号に田中孝彦氏の「子ども理解入門Ⅰ」という文章が掲載されている。生活綴り方で子どもの理解を深めてきたという、自身の研究歴をふり返った文章である。そこでは、生活綴り方が、子ども理解の方法と捉えられていることに、多少違和感をもつ。Ⅱが5月号に出るということなので、詳しい田中論文の検討は、それまで待つとして、直接生活綴り方運動には参加したことはないが、ずっと関心をもち、また、大学の講義でも必ず扱ったことなので、ここで少し整理しておきたいと思った。
 生活綴り方は、さまざまな理解があって、生活綴り方運動を担ってきた日本作文の会でも、大きな論争がかつてあった。それは、生活綴り方が始まった理由、そして、戦後の発展と文部行政の展開のなかで、生活綴り方運動が変遷をたどってきたからである。では、どんな論点があるのか。強調点としてあげられることを整理してみよう。

“教育学を考える23 書くこと -生活綴り方” の続きを読む

新型コロナウィルスとインフルエンザ ファクターXは存在しないのではないか

 いまだに、新型コロナウィルスとインフルエンザは、同程度の病気なのか、それとも異なるのか、医療専門家のあいだですら見解が分かれている。死亡数については、インフルエンザは毎年約3000名、新型コロナウィルスはこの一年で、今日現在5452名である。単純に、死亡率を見ると、インフルエンザは0.3%、新型コロナウィルスは1.45%になり、はるかに、新型コロナウィルスのほうが恐ろしい病気だということになる。しかし、この数字は、かなり実数とはかけ離れていると思われるのである。というのは、ここが、われわれ一般市民にとっては、大きな相違なのだが、インフルエンザは、かかったと思ったら、気軽に開業医にいって、検査してもらい、そして、薬を受けることができる。よほど症状が悪化しないかぎり、その薬を飲んで、自宅で療養する。しかし、新型コロナウィルスは、症状がでて、おかしいと疑っても、開業医にいって検査してもらうことはできない。まず、開業医のほうでも、ゾーニングなどが行われていないところでは、診察そのものを断られるかも知れない。そして、保健所に電話して、煩雑なプロセスを経てやっと検査を行われる。しかし、陽性になると、今度は逆に、インフルエンザではありえない、濃厚接触者なる人が割り出され、検査を受けるように、保健所から求められる。インフルエンザが疑われても、医者にいかず、自宅でじっと休息するだけの人も多いだろうが、おそらく、薬があるから、多くの人は、医者にいくだろうし、陽性であれば薬がだされるので、感染者(=発症者)の数値が、現実に近いものが得られるはずである。しかし、新型コロナウィルスの場合は、気軽に検査できないし、やってもらえない状況がずっと続いているから、実際の感染者数(発症者数とは異なる)と、統計的に表れた数値とは、かなり異なることが考えられる。

“新型コロナウィルスとインフルエンザ ファクターXは存在しないのではないか” の続きを読む

読書ノート『戦争と平和』トルストイ3

 男性の主要人物として、2番目に重要なのがアンドレイ公爵である。アンドレイは、トルストイ自身の理性的で勇敢な部分を描いていると言われている。アンドレイは、二度の戦争に参加して、多くの貴族たちとは異なって、実際の戦闘場面に配属されることを望んでいる。トルストイ自身も、セバストポリの戦闘で勇敢に闘ったとされており、当時既にいくつかの小説を発表して、優れた才能を示していたのだが、その小説を読んだニコライ二世が、危険な戦場から離すように命令をしたという逸話が残っている。もちろん、大作家であり、平和のための理論家であったトルストイは、極めて知性の高い人物だった。そういう側面をアンドレイ公爵という人物に託したことになる。
 ところが、非常に理性的であるといっても、理解しがたい行動をいくつかとっている。特に妻(リーザ)と婚約者(ナターシャ)に対する態度は、多くの読者は共感できないのではないだろうか。

“読書ノート『戦争と平和』トルストイ3” の続きを読む

IOCバッハ会長の呆れた言葉 (訂正版)

 森委員長とバッハ会長の電話会談が行われ、開催することが一致したという。しかし、30分の予定が1時間かかったということで、やはり、中止の可能性について話がでたのではないかという憶測を呼んでいる。
 私が驚いたのは、バッハ会長の発言のなかに、「日本人に忍耐を求める」という言葉があったことだ。国民が忍耐をしなければらないうような大会であることを、会長、つまりトップが要請しているということだ。一連の最近の流れをみれば、IOCがどうしても開催したいのは、結局テレビ放映権料を得たいということではないかとしか、考えられない。そう思っているひとは、たくさんいるようだ。他方、日本政府や東京都がやりたいのは、インバウンドによる経済効果を求めているからだろう。しかし、現在の状況では、無観客でやるという雰囲気作りが行われている。無観客ということは、コロナが終息していないことを意味するわけだから、外国人を禁止するのが妥当だろう。そうすると、日本政府や関係者か期待する経済効果は、ほとんど望めないことにる。NHKの企業対象のアンケートによると、6割が開催すべきであるとして、理由は経済効果である。経済効果をあげるためには、外国人の来日を許容する、あるいは奨励するしかない。それは、コロナが終息していないという前提なのだから、感染が再爆発する可能性が高い。

“IOCバッハ会長の呆れた言葉 (訂正版)” の続きを読む

読書ノート『戦争と平和』トルストイ2

 『戦争と平和』には、たくさんの人が登場し、主人公ともいうべき人物も複数いる。その中で、最初の場面から登場し、最後まで重要な役割を果たしつつ、最終の場面でも活躍しているのは、ピエールのみである。そして、『戦争と平和』は、このピエールの成長を描いた小説という側面が非常に強い。というのは、トルストイが最初に構想したのは、「デカブリスト」だったのだが、そこでの主人公がピエールだったのである。デカブリストというのは、1825年におきた一種の反乱で、農奴制などの封建的な抑圧の酷かったロシアに、リベラルな政策を求めた反乱だった。そのなかに、トルストイ一族の人がいたということで、トルストイは興味をもったのだが、やがて、その人物たちの過去にさかのぼって、1812年のナポレオンのロシア侵入を中心のテーマにしたという経緯があった。とすると、1805年の物語の始まりから、1825年のデカブリストの反乱、そして、流刑、帰還という長い期間の物語に、ピエールは関わっているわけだ。訳者の高橋氏によると、『デカブリスト』の草稿では、ピエールとナターシャが流刑地から帰ってくるところから、物語が始まっていたという。ナターシャは、全く非政治的人間だから、当然デカブリストの反乱に参加していはおらず、夫の流刑にどうしてもついていくと主張して、流刑をともにした夫婦という想定だったと想像される。もしかしたら、ナターシャの政治意識の成長も描かれていたのかも知れない。『戦争と平和』の最後の場面は、ピエールがサンクトペテルブルクに出かけて、政治的グループと相談をして帰ってくる場面である。そこで、ピエールは政府の批判を繰り広げる。それは、明らかに、将来のデカブリストの乱への参加を匂わせているのである。
 このように、トルストイが最も深く描こうとしたは、やはりピエールである。そして、ピエールは、何度も人間的、思想的に変遷する。

“読書ノート『戦争と平和』トルストイ2” の続きを読む

読書ノート『戦争と平和』トルストイ1

 前に、ソ連版映画『戦争と平和』の感想を書いたが、あの時期をはさんで、小説そのものも読み返していた。そして、最近読み終えた。たぶん5度目くらいになる。若いころ、読み始めたときに、『戦争と平和』は、人生の節目に、何度か読み直すとよい、と言われたが、確かにそう思う。今回は、ゆっくり、じっくり読もうと思って、少しずつ進み、時間をかけたので、これまで読みとばしていた部分をずいぶん意識し、また、そういうところに面白さが隠れていることがわかった。また前回までは、辟易していた、そして、アマゾンのレビューでも多くの人が指摘している、トルストイ独自の戦争論の部分も、じっくり読んでみた。
 トルストイの戦争論の部分は、ほとんどの人が、訳わからないという感想をもつ部分だし、また、繰り返しが多く、正直、私も辟易するものを感じる。しかし、また、トルストイは、ここが本当に書きたかったのだろうなあとも思うのである。もしかしたら、トルストイは歴史学者になりたかったのだろうかなどと思ったりもする。それほど熱がはいっている。
 ただ、主張していることは、比較的単純である。それは、戦争が起きる原因は、英雄とか、国家の指導者とか、思想家とか、戦略家とか、そういう影響力のある人物が、命令したり、そうするのがよいと働きかけて、それに兵士たちが、動かされて戦争が起きるのではない。実際に、ナポレオンが命じたことなどは、実はほとんど実行されなかったのだというのである。では、何が、戦争を、または、戦争にむけて兵士たちが移動していくことを引き起こすのか。それは、民衆一人一人が、何かにかられて動いていく、そのなかには、確かに政治指導者の意志もあるだろうが、そういう個々の力の総体として、また偶然なども重なって、戦争が起きるのだというのである。しかし、トルストイの「論文」のような文章を読んでも、ああなるほど、と納得のいく人は、ほとんどいないに違いない。個々の民衆の意志の総体といっても、それは言葉の遊びのようにも見える。

“読書ノート『戦争と平和』トルストイ1” の続きを読む

オーケストラ録音の分離・位置感覚

 ブルーノ・ワルターのコンプリートを購入した友人と、録音の話になった。彼は、おそらく音に拘る人で、再生機器をいいものをもっていて、いろいろと調節しながら聴いていて、バランスなどを自分好みに調整するようだ。私は、そういう音感覚を全くもっていないし、そもそも調節できるような機器ももっていないので、音を調整したことは全然ない。ただ、自分のもっている機器にCDやDVDをかけて聴くだけだ。
 他方、私は、市民オーケストラで演奏しているので、実際のオーケストラがどのように響くのかを自分なりに体験している。コンサートホールは、聴く席の位置で相当違う音が聞こえるものだが、実は、舞台上でもその位置によって異なる。一般に中心、そして、前のほう位置するほど、全体の音が、個別的に分離して聞こえるが、後ろのほうにいくほど、前の音が聞こえにくくなる。金管楽器の人たちは、自分が吹いている間は、弦楽器の音は、あまり聞こえていないのではないだろうか。私はチェロだが、チェロは楽器群は、曲や指揮者によって、位置をずいぶん変える。だから、となりの音が変わるし、また、後ろに位置する楽器も変わる。だから、いつも異なった音を聴きながら演奏しているのだ。

“オーケストラ録音の分離・位置感覚” の続きを読む

石原氏の「上級国民」問題と、東京の感染減少を疑う

 石原伸晃氏が、濃厚接触の疑いからすぐにPCR検査を受け、陽性だったために即入院した。そのことが、少なくない非難をあびている。この点については、私は、あまり非難する気持ちはない。確かに、不公平感が強く出てきても当然だろう。一般国民は症状があっても、PCR検査を受けることがかなり困難になっており、しかたなく、自宅待機を余儀なくされる人が多数存在する。それなのに症状がない段階でPCR検査を受けられ、しかも、陽性とはいえ症状がない段階での入院が可能になっている。おかしいではないか。
 その気持ちはわかる。しかし、それが、石原氏が検査を受けること字体を批判したり、また、病院が入院させたことを批判するのは、方向性が違うと思うのである。むしろ、もっと容易にPCR検査を誰でも受けられるようにすべきであり、また、隔離施設をきちんと用意すべきなのである。隔離施設になる可能性がある施設は、たくさんあると言われている。ホテルばかりではない。公的な各種研修施設はたくさんあるし、(しかも、今はほとんど研修はされていないはずである。研修が必要でもオンラインで可能なのだ。)選手村だって利用可能だろう。そういう施設は、ちゃんと食事をつくる施設もあるのだ。PCR検査は、明らかに今でも公的な何かの力が制限している。そこに問題があるのだ。

“石原氏の「上級国民」問題と、東京の感染減少を疑う” の続きを読む

劣化した自民党に最低限求めたいこと

 週刊ポストが、「自民党の人材不足、野党も共倒れで菅政権延命の最悪シナリオも」という記事を掲載している。菅降ろしが画策されているが、結局自民党にも、また野党にも人材がいないので、菅続投という最悪の事態になるという、なんとも皮肉たっぷりの記事だ。しかし、自民党や野党の人材不足の指摘は、いまに始まったことではない。その原因に関する言及もたくさんある。そのわりには、自民党内での人材養成システムが改善されたり、機能している風には思えない。ますます、非生産的な権力闘争によって、ものごとが決まっているように見える。
 そして、菅首相の発する言葉を、国民の多くが、そして、与党内部の人ですから、率直には受け取っていない。だから、菅降ろしが語られているのだろう。
 自民党有力議員の政治力の劣化を示す事実は、数えきれないほどある。

“劣化した自民党に最低限求めたいこと” の続きを読む

オリンピック中止を、オリンピックそのものの見直しのきっかけに

 海外メディアが、東京オリンピックの開催への疑問を報道するようになって、日本の政府や与党政治家は、それを否定するのにやっきになっている。しかし、以前は、まったく疑問すら表面では語られることがなかったのだから、これは大きな状況の変化である。正式に中止が決定される方向へのステップが始まったということだろう。
 体操の内村選手が、再び「どうやるかという方向で考えてほしい」という談話を出したところ、ヤフコメを数十読んだ限りでは、それに共感、賛同する意見は皆無である。ひとつもないのだ。内村選手の立場に同情する声はあっても、しかし、国民の多くが、より深刻な事態に陥っているのだということで、否定している。
 IOCの有力委員から、やるなら無観客だ、それなら納得できる、というような意見もだされている。しかし、それを納得する日本人は、今では圧倒的少数だろう。そもそも無観客で実施するというのは、非常に大きく矛盾する考えであり、且つ、無責任な意見である。無観客で実施するというのは、まだコロナの感染が納まっていないという状況認識があるからだ。しかし、オリンピックを無観客だろうが、実施すれば、海外から多くの人たちがやってくる。選手と役員くらいは、検査やワクチンを来日条件にして、かつ厳しい行動制限をするとしても、メディアの人たちは、それが可能だとは思えないし、また、無観客としても、多くの外国人がやってくるに違いない。オリンピックに直接携わる人の入国だけ許可して、それ以外の入国は一切シャットアウトするようなことを、政府が行うはずがないのである。また、行ったとしても、それだけのワクチン接種が、保障されるとはいいきれない。

“オリンピック中止を、オリンピックそのものの見直しのきっかけに” の続きを読む