オーケストラ録音の分離・位置感覚

 ブルーノ・ワルターのコンプリートを購入した友人と、録音の話になった。彼は、おそらく音に拘る人で、再生機器をいいものをもっていて、いろいろと調節しながら聴いていて、バランスなどを自分好みに調整するようだ。私は、そういう音感覚を全くもっていないし、そもそも調節できるような機器ももっていないので、音を調整したことは全然ない。ただ、自分のもっている機器にCDやDVDをかけて聴くだけだ。
 他方、私は、市民オーケストラで演奏しているので、実際のオーケストラがどのように響くのかを自分なりに体験している。コンサートホールは、聴く席の位置で相当違う音が聞こえるものだが、実は、舞台上でもその位置によって異なる。一般に中心、そして、前のほう位置するほど、全体の音が、個別的に分離して聞こえるが、後ろのほうにいくほど、前の音が聞こえにくくなる。金管楽器の人たちは、自分が吹いている間は、弦楽器の音は、あまり聞こえていないのではないだろうか。私はチェロだが、チェロは楽器群は、曲や指揮者によって、位置をずいぶん変える。だから、となりの音が変わるし、また、後ろに位置する楽器も変わる。だから、いつも異なった音を聴きながら演奏しているのだ。

 そういう、普段のオーケストラの音の聴き方が異なるので、面白い話ができた。その発展で、録音で聴くオーケストラの楽器の位置感に関して、また、音の分離について、考えてみた。だいたい、再生機器に拘る人は、各楽器の分離と位置の感覚に拘る。音が分離して聴こえ、はっきりと位置がわかるように響く録音がよいという感覚だ。音の分離については、曲によって異なり、対位法的な音楽は、分離して聴こえるのがいいことは確かだが、和声的な音楽は、むしろ音が融合して聴こえるほうが、指揮者や演奏家の意図にそっていると思う。そこは、理解しあえた。例えば、後期ロマン派の音楽は、チェロとホルンが同じ音程で、ゆったりとして雄大な音楽をユニゾンで奏でることが多い。そうすると、ホルンの音でもなく、またチェロの音でもない、ブレンドした音が聴こえる。管楽器同士も、融合した音として聴こえることがよくある。シューベルトのザ・グレイトの第二楽章、最初にオーボエがメロディーを吹いて、そこにクラリネットが重なって、主題が繰り返されるのだが、ベームとベルリン・フィルの演奏で聴くと、オーボエとクラリネットは完全に融合して、独特な響きとなっている。オーケストラで練習しているときに、指揮者は、この部分はクラリネットのような音色で、とか、ホルンのような感じで、と他の楽器に要求することがけっこうある。そこは、違う楽器が別々に聴こえるよりは、融合した味付けがなされることを求めているわけだ。違う色の絵の具を混ぜると、違うひとつの色になるようなものだ。
 ティーレマンは、若いころ、カラヤンの助手をしていたが、そのときの思い出として、他の人がベルリンフィルを指揮して、そのあとすぐに、カラヤンがふり始めると、とたんにカラヤンの音になってしまうのだが、その秘密は、どうしてもわからないと、何かのインタビューで語っていたことがある。オーケストラがカラヤンの音になるというのは、やはり楽器間の融合を、普段厳しくいっていて、カラヤンが振ると、そういう意識が前面にでてくるので、音色も変わってしまうのではないだろうか。
 
 次に、楽器の位置感について考えてみたい。
 ストコフスキーという指揮者が、あるとき、オーケストラのすべての音が、一点から聴こえるような編集をしたレコードを作成したのだそうだ。残念ながら、私はそのレコードを聴いたことがないのだが、音楽雑誌で非常に話題になった。ストコフスキーによれは、オーケストラの音が広がって聴こえるのは、単に人数が多いから、どうしても広い場所をとってそれぞれ座って演奏せざるをえないからだ。理想的には、音は、一点から聴こえるのがいいのだ、それがもっとも、ハーモニーとしても美しく聴こえるはずだ、というような考えからそうしたそうだ。昔のモノラル録音でも、完全に一点から聴こえるわけではなく、なんとなく楽器の位置感覚は感じられるのだ。幸か不幸か、ストコフスキーの試みは、まったく支持されることなく、追随する人もでなかった。ステレオ録音になって、音が実際のオーケストラのように広がりを感じさせるような録音と、聴かれ方が完全に受けいれられている。では、分離や位置感はどうなのだろうか。もちろん、それも曲によるというべきだろう。
 

 
 ひとつの例として、チャイコフスキーの悲愴交響曲の4楽章の主題を考えてみる。楽譜でみるように、この主題は、第一バイオリンと第二バイオリンが一音ずつ分かち合っている。これほど、明確に、主題のメロディーを一音ずつ別の楽器に振り分けているという曲を、他に私は知らない。ところが、再現部で再びこの主題が奏せられるときには、第一バイオリンのみが弾く。明らかに、チャイコフスキーは、異なって聴こえるように演奏することを望んでいるはずだ。しかし、はっきりと、一音ずつ違う楽器で、違う方向から聴こえてきたら、妙な感じがすると思われる。この出だしの主題をどのように演奏しているのか、あるいは、どのように聴こえるように編集しているのか、いくつか聴いてみた。
 ほとんど分離して聞こえないのが、カラヤンだ。カラヤンは、元来が、音の融合派ともいうべきで、楽器の音を融合させて、あらたな響きを作り出すのが、カラヤンのオーケストラ哲学ともいうべきものだ。それがカラヤン独自の音といわれる響きを生み出している。それにカラヤンのように、かなり大勢のバイオリン奏者をそろえていると、後ろのほうは第一と第二が混ざってしまう。
 それに対して、第一と第二がとなりで演奏しているが、多少とも分離して、ひとつひとつ音の重点が移っているように聴こえるのが、チェリビダッケ(ミュンヘン)とアバド(シカゴ)だ。二人とも音の明晰さを求める指揮者だ。しかし、かなり注意して聴かないと、混ざって聴こえてくる。
 では、バイオリンの対抗配置での演奏はどうか。はっきりとそう感じられたのは、クレンペラー(フィルハーモニア)の演奏だ。ここでは、ひとつのメロディーにはなっているが、左右から交互にメロディーラインが聴こえてくる。不安な感じが強く出てくるのは確かだ。チャイコフスキーが望んだのは、こうした演奏なのに違いない。そのころは、バイオリンの対抗配置が普通だったのだから。
 オーケストラの響きの調和という点では、バイオリンは隣同士に配置されるのが、より好ましいので、多くは、対抗配置をとらない。すると、チャイコフスキーの意図は、十分にはでないのだが、読者の人は、どうあるべきだと思うだろうか。
 もうひとつ例をあげよう。ワーグナーのトリスタントとイゾルデの前奏曲だ。

 
 22小節目から23小節目にかけて、メロディーが第二バイオリン→チェロ→第一バイオリンと引き継がれていくのだが、23小節目で、D#の音を第二から第一が引き継ぎ、その間チェロが上昇音を奏でて、そのまま上昇を第一バイオリンが引き継ぐというラインになっている。その前はチェロがながながとメロディーを弾いているが、第二バイオリンが割って入り、チェロがまた出てきて、第一バイオリンに引き継ぐわけだ。だが、D#の音が第二から第一につながる部分を、明確に分けて演奏するのと、完全につながっているように演奏するスタイルがある。切れ目がないように聴こえるのが、カラヤンとショルティで、第一バイオリンのD#が新たに始まるように演奏しているのが、ベーム、クライバー、フルトヴェングラーだ。
 私は、つなげて、切れ目なく聴こえるように演奏するのが、ワーグナーの意図であるように思う。この部分では、更にD#とC#がぶつかるようになっている。だから、メロディーが引き継がれて、半音で上昇していく思い入れたっぷりの部分と、そこに協和しない音のぶつかりで不安感が増すわけだ。それが一緒に起きる音楽だ。
 おそらく、カラヤンのベルリン・フィル、ショルティのウィーン・フィルの演奏力量のために、それが実現し、バイロイト(ベーム)、ドレスデン(クライバー)、フィルハーモニア(フルトヴェングラー)のオケの差なのかも知れないと思う。しかも、前者は、常連である組み合わせなのに対して、後者群は、臨時の組み合わせだ。やはり、音が分離して聴こえるのではなく、総体としての塊として迫ってくるように、作曲されているのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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