松本人志訴訟取り下げについての「解釈」

 松本人志氏が、文春を訴えた際には、私の見解をけっこう書いたが、取り下げについては、別に書くこともないだろうと思っていた。しかし、youtubeでのいくつかの「解説」をみて、少々疑問に思うことがあったので、整理しておきたいと思った。とくに疑問に思ったのは、郷原信郎氏と元週刊朝日編集長山口一臣氏の対談である。通常は、山口氏が聞き手になって、郷原氏が解説しているのだろうが、今回は、週刊文春絡みの訴訟ということで、雑誌側にたって名誉毀損訴訟に当事者としてタッチしたという山口氏が、主に見解を述べる形になっていた。
 当然、弁護士である郷原氏との対談だから、論理的におかしなことをいっているわけではないのだが、いくつか気になる点がある。

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途上国からの脱出1

 先進国を脱落して、途上国なみになってしまった日本は、どうやったら脱却できるのか。最も、世界帝国から脱落して、かつてのような影響力をもてなくなったイギリスのように、老熟した国家として生きていくという手もあるかも知れない。しかし、やはり、それなりの力がなければ、成熟した状態を保つことも難しくなっていくに違いない。
 私が考えることの基本は、「能力主義」を社会のなかに貫徹していくことだと思っている。尤も能力主義などというと、私のような教育学者の間では、驚かれるに違いない。というより、反発されるだろう。というのは、リベラルな教育学では、能力主義こそ、日本の教育を息苦しく、子どもたちを圧迫してきた元凶であると理解されてきたからである。
 私自身、団塊の世代だから、日本の歴史のなかで空前の受験戦争にあった世代である。なにしろ同世代人口が極めて多く、まだ大学進学率などは低かった時代だが、それだけ大学の数も少なく、苛烈な競争があったわけだ。そして、そうした競争を強いることで、人材育成しようとしたのが当時の政策だった。そのなかで、競争主義=能力主義と解釈され、能力主義は否定の対象となってきた。 “途上国からの脱出1” の続きを読む

小池百合子氏の学歴詐称を考える1

 小池氏の学歴詐称問題は、ずっと以前から言われており、さまざまな専門家が、小池氏が詐称していることを論じているが、小池氏は、これまで、巧みに、というよりは図太くかわしてきた。特に大きく問題になったのは4年前の都知事選前に、『女帝』(石井妙子著)が現われたことである。これは大ベストセラーになり、さすがに小池氏も追い詰められたとみられていたが、在日エジプト大使館のホームページ(フェイスブック)に、カイロ大学の見解がアップされて、一挙に追求が下火になった。当時、このカイロ大学の声明を読んで、どうも変だと思った人は少なくないに違いない。私もその一人だ。『女帝』は、後で述べるように、この問題について決定的な情報を示していた。だからこそ、小池氏もかなり動揺したのだろう。側近の小島氏に「こまっている」として、相談をもちかけたわけである。そして、そこからの経緯について、『文藝春秋』によって暴露されたのが、現在の「盛り上がり」の原因となっている。そして、あのカイロ大学声明は、小池氏が、側近に作成させたのだ(つまり捏造)、というのが、小島氏の暴露の中心点である。たしかに、カイロ大学があのような声明文を、大使館のフェンスブックにのせるというのは不自然であるし、それよりも、後半にあった、小池氏が学歴詐称しているというような意見を公表することは、名誉毀損であるので、法的措置をとる、という文章に、大きな違和感をもったものだ。また、この文章によって、メディアの追求が下火になったわけである。この法的措置の脅し的文章がなければ、あそこまで一気に追求がなくなることはなかっただろう。今から考えれば、鎮静化させるためもっとも効果的に狙った文章を挿入したのは、それを望んだ人が作成したことを裏付けると解釈できるわけである。 “小池百合子氏の学歴詐称を考える1” の続きを読む

漫画のドラマ化で原作者が自死

 この問題を知ったのは、事件(原作者の自死)の前に、さっきー氏のyoutubeを見たからだった。テレビの裏側を解説するというyoutubeで、なるほどと思うことが多いのだが、このなかで、「セクシー田中さん」というドラマで、原作者と脚本家の争いになっているということから、珍しい揉め方として紹介していた。原作をかなり改変してドラマ化することはよくあることだが、通常は、表立ったトラブルにはならないというのだ。というのは、ふたつのパターンがあって、改変されることを嫌う原作者が、ドラマ化を断るか、改変されるのは、いっても無駄とあきらめて、任せてしまう場合のどちらかがほとんどだという。もちろん、当事者にとっては、どちらかが不満足な展開になるのだが、トラブルにはならないという。今回の場合には、原作者が、原作を改変しないことを条件にしたが、それにもかかわらず改変が行われ、原作者が自分で脚本を書くという事態になったことが、極めて例外的だという解説をしていた。そして、この問題が難しいのは、だれもがよかれと思っていることだ。改変する脚本家やプロデューサーにしても、面白くなくするために改変するのだ、などということは絶対になく、このほうが面白いと考えて、改変する。原作者は原作の形をベストと考えているのは当たり前だ。善意と善意がぶつかり合って、トラブルになると、解決が非常に難しいというのが、さっきー氏の結論だった。 “漫画のドラマ化で原作者が自死” の続きを読む

再開します

昨年、突然、ブログ機能がおかしくなり、アサヒネットのブログに引っ越していました。こちらがどうやら使える感じになったので、こちらに復活します。当面アサヒネットにも同文を掲載します。この間アサヒネットに投稿したものをまず、準備こちらにも掲載します。

五十嵐顕考察34 教育財政論2

 前回は、戦後教育財政の研究を始めた時点での、五十嵐の立脚した観点について整理した。そして、勤評への批判が、政治的な観点からなされ、教育財政的な視点がなかったことを指摘した。それは、前に指摘した教科書無償化措置に、なんら批判をしなかったことと同じ問題があったことを簡単にのべておいた。教科書無償化については、以前に書いた通りである。

 さて、今回は、10年後、新たな地平を開こうとしたことについて考察する。勤評闘争は1950年代終りころから、そして、教科書無償化は1960年代の初頭から、小学校一年から順次実施されていった。9年かかって全学年の無償化が実現されたことになる。当然私自身は、無償化の時代ではなく、毎年学年はじめに、お金をもって学校の始業式のときに、教科書を購入した世代である。 “五十嵐顕考察34 教育財政論2” の続きを読む

五十嵐顕考察33 教育財政研究について1

 いままで何度か、五十嵐の財政論について書いてきたが、概略的にまとめる必要がでてきたので、これまで書いていない部分について主に書くことにする。
 五十嵐は、東大の教育財政学担当の教官として、26年間勤めたが、教育財政学の研究者になったのは、自分自身の意志ではなく、偶然の要請だった。1946年に戦地から帰って、就職先がなかったときに、国立教育研修所で助手を募集していることを知らされ、そこで宗像誠也に、アメリカの教育委員会制度を調査してほしいと依頼されたのがきっかけだった。依頼の対象は教育委員会制度だったが、アメリカの教育委員会は、自主財源をもっているところが多く、教育政策の決定と執行を行う組織だったが、それでも財政的には貧弱で、州や連邦政府の補助金が必要であるために、同時に教育財政の調査を行うことになった。そして、その調査が認められて東大に迎えら、教育財政学の担当者になった。したがって、それまで教育財政学の研究上のトレーニングはおろか、研究のトレーニングもうけたことがなかったのである。それもあってと思うが、五十嵐教育財政学は、通常の財政学とはかなり色合いの異なるものになった。

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フリースクールは国家の骨格を崩すか

 東近江市長が、不登校について、いろいろと発言して、大きな話題になっている。通常大騒ぎになると発言を撤回して、逃げ回るひとが多いが、この市長は記者会見にも応じて、自説を主張しているので、わかりやすい論点の対立が起きている。
 いろいろと記事を読んで、この市長の主張を整理すると以下のようになるようだ。
 
・大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさようとしている
・フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っている
・不登校になる大半の責任は親にある

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ウクライナ情勢あれこれ

 ウクライナ情勢がかなり動いている。
 最も大きいことは、5月頃からはじまったウクライナの反転攻勢が、次第に実を結びつつあることだろう。当初はなかなか進展せず、反転攻勢は失敗するのではないか、という観測もかなり流れていたが、そもそも、十分に備えに時間をかけることができたロシアだから、そう簡単にそれを破れるはずもなかったし、当初遅々として進まなかったのは当然だった。そして、もうひとつ流れている説は、当初米英が作戦を指導していたが、それが通常行う戦闘機が主導して、陸上の軍隊がそれに従って進んでいくという方式だったという。しかし、援助側は戦闘機を提供していないのだから、そんな作戦がうまくいくはずがなく、ウクライナはそれに見切りをつけて、ウクライナ側の方式によって闘い始めた。そして、それが困難をともないながらも、次第に成功しつつあるというのである。

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「鬼平犯科帳」がっかりする話3 敵

 「敵」は、主要な密偵の大滝の五郎蔵のお目見え話である。がっかりする話として紹介しているが、ミステリー的な話としてはよく出来ていて、とても面白い。あくまでも、長い「鬼平犯科帳」シリーズのなかに置かれたものとして、疑問点が多いという意味である。
 話は、岸井左馬之助が、友人の招待でいった越後・塩沢からの帰りの山道で、二人が激しく争っている場面に出くわす。大男の大滝の五郎蔵に若者が挑んでいる。若者(与吉)は、五郎蔵が父の敵だと信じ込まされて、敵討ちにやってきたのである。しかも、ふたりはどうやら盗賊だと左馬之助は察するのだが、若者が、「自分は盗賊改めの狗だ」と名乗る(これははったりで事実ではない)ので、見捨てることができず、若者が殺害され、五郎蔵が急いで江戸に出発する前の盗人宿にもどっていくのをつけ、番人と話し込む内容まで盗み聞きしてしまう。そして、翌日は、五郎蔵を見張り、江戸までもどって、逗留先をつきとめて、すぐに平蔵に報告する。

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