途上国からの脱出1

 先進国を脱落して、途上国なみになってしまった日本は、どうやったら脱却できるのか。最も、世界帝国から脱落して、かつてのような影響力をもてなくなったイギリスのように、老熟した国家として生きていくという手もあるかも知れない。しかし、やはり、それなりの力がなければ、成熟した状態を保つことも難しくなっていくに違いない。
 私が考えることの基本は、「能力主義」を社会のなかに貫徹していくことだと思っている。尤も能力主義などというと、私のような教育学者の間では、驚かれるに違いない。というより、反発されるだろう。というのは、リベラルな教育学では、能力主義こそ、日本の教育を息苦しく、子どもたちを圧迫してきた元凶であると理解されてきたからである。
 私自身、団塊の世代だから、日本の歴史のなかで空前の受験戦争にあった世代である。なにしろ同世代人口が極めて多く、まだ大学進学率などは低かった時代だが、それだけ大学の数も少なく、苛烈な競争があったわけだ。そして、そうした競争を強いることで、人材育成しようとしたのが当時の政策だった。そのなかで、競争主義=能力主義と解釈され、能力主義は否定の対象となってきた。

 確かに、学校教育のなかでは、競争が、特定の能力の競い合いがあり、その能力の高低で、進学が決まっていくシステムになっていた。いまや大学全入時代だから、大分様変わりしているが、それでも中学受験などは、そうした面が残っている。
 
 しかし、この能力競争は、極めて狭い「能力」が対象であり、人間のもつ幅広い能力が、それぞれの個性に応じて尊重されていたわけではない。かつて高校の知名度をあげ、多くの受験生を獲得するためには、東大合格者を増やすか、甲子園に出場することだ、といわれていた時期がある。いまは、その要素がもう少し多くなっているが、基本構造は変わらない。人間のもつ多様な能力を多様に伸ばすという教育にはなっていないのである。
 そして、それでも、能力による競争があり、能力を伸ばすことで結果をだせる部分が、学校教育には歪んだ形ではあれ、存在するが、社会にでると、多くの領域で、能力はかならずしも尊重されていない。あるいは、本来求められるはずの能力よりは、もっと異なる、生産的とはいいがたい力が人生を左右するような面がめだつ。そして、能力などは、ほとんど考慮されていないのではないかと思われるのが、日本を動かしている政治家の世界である。世襲議員が国会の有力議員を占めるようになって、おそらく30年くらいはたつ。私が若かったころは、首相や有力大臣は、世襲議員はほとんどいなかったように思う。それは、戦争によって、有能な人材が失われたことも影響しただろう。評価はさておき、有力政治家であったといえる吉田茂、岸信介、佐藤栄作、池田隼人、田中角栄、中曽根康弘などは、世襲議員ではなく、彼らの子ども世代、孫世代が世襲議員になっていったのである。そして、第一世代の政治家たちは、孫世代とは、なんと政治家としての力量に違いがあることだろう。
 世襲が重要な要素となっていることは、即ち能力は二の次だということに他ならない。つまり、最も高い能力をもったひとたちでなければならない政治家たちが、能力を問題にされず、血筋で地位をえていくという、極めて歪んだ状況になっている。
 政治家の世襲制の弊害をなくす方法は、理屈上は明確であり、難しくない。小選挙区制を前提にすれば、親・親族の選挙区での立候補を禁ず場よい。英吉利ではそうなっていると聞いている。つまり、まったく新しく選挙民の支持をえていく必要があり、そこで政治家としての力量が試されるということだ。まったく別の方法としては、完全な比例代表制を導入することだ。これは個人の選択ではないので、政策を争うことになり、選挙区そのものが存在しないので、世襲制の意味はほとんどなくなる。
 ただし、制度の変更は現在の政治家が決めることであり、現在の政治家は世襲議員が権力の多くを握っているから、自らの利益をなくすような変更をすることは、かなり困難であることは間違いない。やはり、社会全体が、能力主義を軸とした人材活用になっていくことが必要なのだろう。

 では教育の世界で、歪んだ能力主義ではなく、個々人の能力を最大限に伸ばすような体制には、どのような変革が必要なのだろうか。
 考えていけば、いくらでもあるが、ここでは一つだけあげておきたい。
 それは「入学試験制度の廃止」である。後藤道夫他編『競争の教育から共同の教育へ』(青木書店)は、競争の教育の克服をめざした本であるが、私にとってとても納得のできないことは、入学試験について、まったく触れていないことである。日本の教育の大きな問題が、競争主義によって、発達が歪められていることにあることは、自明であり、同意できるが、そうした競争主義を現実のものとして機能させる、最も大きなシステムである入学試験を問題にせずに、単に理念的に共同の教育を押し出しても、ほとんど抽象論にすぎない。入学試験制度は、改善が何度も測られてきたが、その都度、かえって競争を激化させてきた歴史がある。現在、大学入試は、かつてほど激烈ではないが、それは制度の改善によってではなく、少子化によってもたらされたものである。逆に政策側は、競争システムの維持・強化にやっきになっているといえるのである。
 だから、現在のような入試制度は廃止しなければならないし、少子化が進行している現在は、その実現性があるといえるのである。では、どのようなシステムにしていけばよいのか。それを中心に次回述べたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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