コロナは教育にも大きな影響を与えたし、また今後も影響は拡大していくだろうが、その焦点のひとつがICT活用にあることはあきらかだ。3カ月以上の授業の空白を、オンライン教育で埋めることができたところと、まったくできなかったところでは、大きな差が生じたといえる。もともと、GIGA構想なる、すべての子どもに一台という政策が公表されていたが、コロナでその動きが加速されそうだ。しかし、そこには、大きな疑問もある。実際に活用能力がないところに、機器だけもたせても、どれだけ効果があるのか。本当に教育現場での活用が十分に検討されたなかで、出てきた構想なのか、等々。人によっては、いろいろな疑問があるだろう。私が、構想の文章を読んだときに、最初に感じたのは、ああこれは、国内のコンピューター企業へのてこ入れ、助成が目的なのかということだった。
月別: 2020年8月
二大政党の幻想を捨てよう
安倍首相の辞任を受けて、いろいろな議論を出ているが、その一つに「二大政党」制の実現を望む声がある。何故、二大政党制が言われるのかというと、政権交代の可能性があるからだという。そして、二大政党制と密接不可分なのが、小選挙区制である。二大政党制は、結果として生じるものであって、制度的に決めることはできない。だから、決めることができるのは「小選挙区制」であって、実際に日本でも導入されて、一度、それらしき政権交代があった。しかし、その政権交代は混乱を生み、その後は、長期政権が続いてしまった。そして、その長期政権下に起こった事態は、政治の劣化そのものである。与党も野党も同様だ。その弊害は明らかである。尤も、政権交代といっても、それほど頻繁に起きるわけではなく、10年から15年程度に一度起きればよい、という考えでいえば、まだ、最終的な判断は早いのかも知れない。
核廃棄物処理問題 野党は政策を提示すべき
コロナの影でニュースの扱いは小さいが、原発関連の重要な展開があった。7月に、青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場の、福島原発事故以後の基準で審査に合格したということ。もうひとつは、北海道壽都町の町長が、核廃棄物処理場の候補地となる「調査」受け入れに、名乗りを上げたということである。前者は、審査に合格したが、実際の稼働は、2年後を予定しており、それも実際に可能になるかはわからない。実際に、再処理工場の建設が始まってから27年が経過しており、その間何度も不都合が起きて、延期が繰り返されてきた経過があるからだ。そして、再処理されたプルトニウムを、実際に原発でどのように使用するかの計画は、きちんとたっておらず、しかも、既に外国に再処理を依頼して、蓄積された燃料が50トンもあるのだそうだ。この再処理計画は、止めるという政策も、理論的には可能だが、一旦始めたことは引き返すことはできない、という対中戦争から太平洋戦争に至る経過とよく似ているという人もいるような様相を呈している。これだけの資源を投じて継続してきた国家的事業を止めるというのは、確かに、命をかけるくらいの首相の決断が必要なのだろう。原発だって、止めることは可能だ。実際に福島原発事故のあと、数年間は、原発なしに電力が供給されてきた。当初は節電が叫ばれたが、少なくとも原発再稼働前に、節電も叫ばれなくなった。電力供給の企業間の調整が機能しだしたからだそうだ。
安倍首相辞任の意向
昼食時、テレビを見ていたら、安倍首相辞任の意向というニュースが流れて、あとはずっとこの問題をやっていた。24日に、安倍首相は、何も積極的な業績を残さずにきただけではなく、負の遺産を残したと書いたあと、とにかく早く辞めてほしいと書くつもりだったが、書かなくてもわかるだろうと、省略した。意外と早く辞任の意向が表明されたので、よかった。ただ、テレビを見ていると、テレビ界の人たちは、辞任はしないだろうと見ていたようで、ある解説委員などは、「安倍さんは責任感の強い人だから、多少身体が悪くても、仕事をするのではないか」と思っていたなどといっていたのには、驚いた。安倍首相ほど、「責任感のない」人はあまりいないというのが、批判的な人の共通認識だからだ。「私に責任がある」といって、責任をとったことは、一度もないといえるだろう。森友問題で、妻が関与していたら、議員も辞めるといったあと、妻の関与が誰の目にも明らかになっても、記録を改竄させ、はては、自殺者まで出してしまったのに、いかなる責任もとっていないし、調査すら拒否している。
『教育』2020.9号を読む 石井崇史「子どもの世界に応答する教材づくり」
9月号特集1「子どもの学びを拓く教育課程と教材文化」には、現場の教師の実践が2本掲載されているが、いずれも非常によかった。やはり、現場で意欲的な実践に取り組んでいる教師の文章からは、学ぶことが多い。といっても、疑問もあるので、両方のことを書いておきたい。
小学校4年生の理科の授業で、豆電球と乾電池のつなげ方による違いを学ぶ単元である。目標は、電池や豆電球のつなげかたで、明るさに変化が出てくることを、実際に確認することのようだ。私がもっている教科書では、非常にすっきりとした構成になっているが、石井氏の使用している教科書は違うもので、単元の最初に、必ず身の回りのものを取り上げることになっていて、ここでは、「身の回りで電気を利用している物には何があるか」という問いに、電気自動車の写真をみて、「電気自動車はどのように走っているのか」という問いが続く。石井氏は、これが単元とほとんど関係ないし、余計な部分になっていると考えている。確かにその通りで、私は、そういうのは無視すればいいと思う。単元そのものではないのだし、まだ実用化があまり進んでいるとはいえない電気自動車など、「電気を利用しているまわりの物」にはふさわしいとはいえない。自由に子どもたちに、出させればいいだけのことだろう。そこで適切な教材が必要だという話になって、仮説実験授業の授業書を参考にしたようなことが書いてある。ただ、その当たりは、実際に揃っている実験器具などと、どういう関係になっているかは、よくわからなかった。とにかく、導入的にはうまくいって、いよいよ、今回の授業の本来のテーマである「豆電球の明るさをもっと明るくするにはどうしたらよいだろうか」と、子どもたちに問いかけたところ、A君が、「教室を暗くする」と答え、クラス一同賛成してしまったというのである。
エアコンをつけられない人もいるが
小学校の体育の授業でリレーの練習をしていて数名が、熱中症で病院に運ばれたという報道があった。2年前の校外学習の教訓は、もう忘れたのだろうか。あのときは、まだ酷暑の夏が来る前だったし、通常の一学期だったが、今日は、本来夏休み中のはずだった酷暑の日だ。そこで、外でリレーの練習をするという感覚がわからない。学校管理者は、50歳を越えている人が多いだろう。50歳以上というのは、ふたつの点で、この点での判断ミスを起こしやすい。彼等が子どもだったときには、今のような酷暑は滅多になく、夏だろうと、校庭で陸上の練習をすることは、避けるべきこととは意識されていなかった。また高齢者は、特に暑さを感じるセンサーが衰えてくるのだそうで、50代でもそういう人は少なくないそうだ。このセンサーが衰えてくると、酷暑なのに、暑さを感じないので、対応をとる必要性を感じないわけだ。あるいは、今の学校は、多くがエアコン付きなので、外の気温の感覚に鈍くなっているのかもしれない。エアコンの効いた教室の次に、酷暑の校庭に出る場合、気温のチェック等は厳重に、事前に行って、大丈夫かどうかを確認すべきだ。
道徳教育ノート「闇の中の炎」
久しぶりに文科省の中学生用道徳教育資料を見てみた。「闇の中の炎」という文章が、何か手応えがあったので、考察してみようと思う。
美術部の理沙が、コンクール用の下絵を書こうとして苦労している。そして、絵画展で父に買ってもらった画集の作品を参考にして、描いた。翌日教師に褒められた。
しかし、やがて筆がとまり、ある日部を休んで帰宅してしまった。夕飯のとき、父親に相談する。「有名な画家の作品を真似して描くのって悪いことじゃないよね。」真似して勉強するのはいいことだと父は答えるが、理沙は、友達が悩んでいるという話にして、「私は、ただヒントをもらっただけなんだからいいんじゃないって答えたんだけど」。父「他の人の作品を見てアイディアが浮かぶことは誰でもあるだろうね。」
理沙が顔を逸らすので、父は「その友達は、なんだか自分への言い訳を探しているように見えるな。そんな気持ちでいい作品ができるんだろうか。・・ほんとうは、その子はもう分かっているんじゃないかな。自分がダメだと思ったらダメだって。」
そして、理沙は、参考にした版画は、暗闇に浮かび上がる赤い炎と、照らしだされる人々があるが、自分にはそれが浮かばないと、描くことを断念する。新しい作品を描き始めても間に合わないと思いつつ、夢中でスケッチブックに鉛筆を走らせていった。
安倍首相のレガシー?
安倍首相の連続在任期間が佐藤栄作を越えて歴代一位になったということで、メディアが大々的に取り上げていると思ったが、実は、かなり低調に扱われている。通算一位になったときは、もっと大きな取り上げだったと思うが、今回、大手新聞の中では、毎日と日経だけが社説で取り上げ、朝日、読売、産経は社説で取り上げていない。そして、とりあげた二社もかなり辛辣である。そのなかで、毎日は、かなり安倍政治の性質を端的に表現していると思った。 抜粋だが以下のように書かれている “安倍首相のレガシー?” の続きを読む
『教育』2020.9号を読む 神代健彦「『能力と発達と学習』をゆっくり読む」の検討
勝田守一著『能力と発達と学習』は、私にとって、戦後最高の「教育学概論」「教育学入門」の書であり、いつかこれを越える『教育学』を書きたいと、ずっと思い続けて、なお果たせないできた高い峰である。しかし、若い世代にとって、勝田守一は、ほとんど過去の人であり、検討に値しない教育学者と考えられていると聞いたことがある。神代氏が「勝田の教育学は、「発達」や「子ども」を無謬の前提として、あらゆる社会的要請を無視するものであるかのように言われる」と書いていることからもわかる。そういう世代であるにもかかわらず、『教育』編集部の依頼に応えて、この決して読みやすいとはいえない本の「現代的意義」を論じるという、あまり気乗りのしない仕事を、果敢に引き受けられたことには、敬意を表すべきだろう。
しかし、やはり、勝田に共感していないせいか、私には、とうてい納得できない読み方をしているように感じる。
(1) 最初に、総括的結論が示される。「あまり面白い本じゃない。」「いま流行りの教育論を素朴にしたような感じで、はっきり言って新味がない。」
海外メディアの拠点が、東京でなくソウルへ
7月から8月にかけて、ニューヨークタイムズやCNNのアジアにおける報道拠点が、香港からソウルに移転すると発表されている。香港における規制が強化され、自由な報道が不可能になりつつある状況で、他の地域に移転することが検討され、東京も当然その候補であったが、ソウルになったという。私の記憶する限り、CNNのアジアの拠点は、当初東京だったと思う。私は、ごく初期からスカパーの視聴者であった。ディレクテレビとふたつにわかれていたときからだ。そして、その当時、CNNは、確かに東京スタジオから放送していた。おそらく、当時香港は、イギリスの統治下にあったためではないだろうか。やがて、自由がかなり保障された形で、中国に返還され、おそらく、人件費などの影響と、今回東京にしなかったのと同じ理由によって、香港に移動したのだろう。