人間の尊厳を保つことは、社会で生きていく上で必要不可欠なことだと思う。 私が思う人間の尊厳は、一人ひとりが社会の中で相互的に理解され、尊重し合うということであり、そう考えると人間の尊厳なくして社会で生きていくことはできないと思う。 ゼミで話し合った認知症は、その点でとても難しいケースだ思う。 認知症患者にとっての社会は家庭やグループホームだと思うが、その中でも家庭において認知症患者の人間の尊厳が保たれることは難しい。本人と家族がお互いを理解することが難しくなるからだ。 例えば、認知症が進むと色々な事を忘れてしまい、自分がご飯を食べたことも忘れてしまう。本人はまだご飯を食べていないと思っているから「ご飯まだ?」などともう一度ご飯を食べようとする。しかし、家族はもう既にご飯を食べているから食べさせることはできない。そうなると、本人はどうして食べさせてくれないんだ、と思うようになり「家族は自分をいじめている」と考えてしまう。家族は本人のためを思っているのにそれを本人は理解してくれないし、認知症患者自身も自分の気持ちを家族にわかってもらえない、と思ってしまうのだ。このように認知症患者とその家族がお互いを理解し合うことは難しい。その中で認知症患者は尊厳を持って生きていると思うことがなくなってしまうと思う。 のし状況を良くするためには、認知症への理解が必要だと思う。家族が認知症をよく知り「認知症とはこういうものだ」と思うことができるようになれば、理解できる部分も大きくなるのではないかと思う。そうすれば、認知症患者も人間の尊厳を保ちながら生きることが可能だと思う。 何事に対しても、まずは「相手を知る」ということが大切だと思う。人種差別や障害者差別など、世の中には「人間の尊厳が犯されているのでは?」と感じることがまだまだ多くある。しかし、それも相手を知ることで変わってくるところがあると思う。相手の考えや思い、生き方などを何一つ知らないのに、「この人種だから」「障害者だから」というだけで差別するのはおかしいし、人間の尊厳を犯す行為だと感じるし、それを行う人に自分の尊厳を主張する資格はないと思う。 認知症や人種、障害は簡単にわかり合うことは難しいことである。しかし、どんなことでもそれを知ることはできると思う。そして、知ることが最終的には理解に繋がると思う。 誰もが尊厳をもって生きるために、まずは相手を知り、理解しようという気持ちが私たちには必要だと思う。
月別: 2014年6月
~人間の尊厳とは~
“尊厳”とは「尊く厳かで、侵しがたいこと」と広辞苑に記されている。これを踏まえると、「人間の尊厳=人間とは尊い存在であること」と考えることができる。つまり、尊厳が守られている状態とは「自分は価値ある人間だ」と“思える状態”であると私は考える。逆に尊厳が守られていない状態とは何か。単純に、守られている状態の逆であると考えれば、「自分は価値ある人間だ」と“思えない状態”のことである。
では、どのような時に尊厳が侵されてしまうのか、私のテーマである「視覚障害」の観点から考えてみようと思う。
障害者への支援、点字や音声信号など、特に視覚障害者への支援はかなり昔から様々なことが行われてきた。しかし、視覚障害者の全員が点字を読めるわけではなく、音声信号の設置も義務付けられていないので、その普及率もさほど高くない。ある調査によれば、視覚障害者とそうでない人の外出頻度とその距離には大きな差があるという結果も出ている。その理由には、「外を歩くのが怖い」や「慣れていないところに行くのに抵抗がある」などがあった。彼らが遠出をする際、点字ブロックの無い道や電車やバスなどの乗り降りに大きな不安を抱えてしまうことは容易に想像できる。目が見えていたなら、もっといろいろな所へ出掛けて行ったのではないかと思う。同じ人間でありながら、障害の有無によって活動を制限されてしまう現状の中、自分自身の価値を見出し、感じ続けることは難しいのではないか。つまり、尊厳が侵されてしまっているのではないかと、私は思う。
障害者が本当に求めている支援を私たちは考えていかなければならない。
人間の尊厳
人間の尊厳私が人間の尊厳はなんであろうか、と考えた時、一番はじめに思い浮かんだことは、誰もが平等にもっている人間らしく生きること、であった。それはいつどんな時も存在するもので、周りから影響を受けないものである。人によって価値の大きさが異なったり、時や場所によって変化するものではない。
私は今まで人間の尊厳のことを考えながら生きてきたことはなかった。きっとそれは、私はそれなりに幸せに人間らしく生きてきたからである。
人間らしさとは、朝ふとんの上で目が覚める、ごはんを食べる、お風呂に入る、学校にいくと極めて当たり前のことが当たり前にできることであると考える。
しかし、それら生活する上で人間らしい生活ができなかったり、人間らしく扱われない人たちが世の中にはたくさんいるのだ。
そのように、人間の尊厳が尊重されず失われてしまうのは、一体どのようなことが原因なのか考えた時、一番に貧困によるものが頭に上がった。貧困はそこから多くの人間の尊厳を奪ってしまう。経済的余裕はもちろん、衣食住、睡眠、清潔さ、、、考えたらきりがない。
貧困の度合いのばらつきはあるが、貧困によって人間らしく生きることができない人は沢山いるのだ。
そして、その中には子どものことも含まれている。もちろん子どもたちにもその権利はあるが、子どもたちの方が仕方なく自分の責任でなく、奪われてしまうことがあるのではないだろうか。
私がこどもの貧困に関連する本を読んで最も痛切に気に感じたのとは、貧困は連鎖するということだ。例えば、親に経済力がなく貧困状態であれば、子どもは生まれた時点で貧困状態がスタートラインとなってしまい、次第に他の子どもとは差がつき、将来も苦しい生活を送るというものだ。
子どもは親を選べないのは当たり前であるし、貧困家庭に子どもを育てる権利がない、ということになってもおかしな話であるとは思う。しかし、親の貧困連鎖によって、寝るところもない、食べ物もたべれない、お風呂も入れないなどの、人間の尊厳がほぼないという状態で一生過ごすかもしれない子どもたちのことを考えると、私はかわいそうで仕方が無い。幸せなこともあるだろうが、きっと辛く悲しいことの方がたくさんあるだろう。
このような貧困児童を減らすためには、やはり貧困の連鎖を断ち切るしか方法はないと思う。その方法を探すため、今の子どもたちはどのような貧困状態におかれているのか知るため、今後自分なりに調べ活動していきたい。
人間の尊厳・中間報告
ゼミのテーマが人間の尊厳ということで、私は人間の尊厳が侵されている場面を想像し、テーマをスクールカーストとした。では侵されているのではなく、保たれている状態とはどういう状態を言うのだろうか。まず今一度、尊厳というものが何なのかを確認したい。私は侵害されてはいけない絶対のものであると思う。ニュアンス的には権利や自由と似た意味になるのではないだろうか。
尊厳というものは人間にしかない。それは、あらゆる生物の中で人間にだけ理性があるからである。そして全ての人は自分の欲求を満たそうとする時、それが他人に迷惑をかけないか、傷をつけないかを事前に考える。他人に迷惑をかけている自由は自由とは言わず、尊厳を侵している。その人は人の尊厳を侵していることになる。このことから尊厳が保たれている状態を想像すると、他人に迷惑をかけず、傷をつけることなく自分の欲求が満たされている状態のことを言うのではないだろうか。
次に前回の書き込みでスクールカーストの順位を決定づける要因としてコミュニケーション能力が重要であると書いたと思う。論文や本を読み、さらにわかったことがあるのでここに書き込んでいきたい。私は森口朗著の「いじめの構造」(新潮新書)という本を読んだ。少し話がずれてしまうが。この本の中ではいじめというものを類型化している。
・ タイプⅠ 集団のモラルが混乱・低下している状況(アノミー的状況)で起こる
・ タイプⅡ 何らかの社会的な偏見や差別に根ざすもので、基本的には異質性排除の論理で展開する
・ タイプⅢ 一定の持続性をもった閉じた集団の中で起きる。(いじめの被害者は集団の構成員)
・ タイプⅣ 特定の個人や集団が何らかの接点をもつ個人に繰り返し暴力を加えたり恐喝の対照とする。(理念型藤田モデル P35)
著者はさらにこの藤田モデルにスクールカーストの概念を取り入れ図のみであるが「修正藤田モデル」を紹介している。この図によってスクールカーストの高低によってタイプごとにいじめの被害者になりやすい人、加害者になる人を見分けることができる。
スクールカーストに話は戻り、「まず子供達は学校に入学した時やクラス分けの時に、クラスの人のコミュニケーション能力や運動能力、容姿等を測りながら1〜2ヶ月は自分のポジションを探る。」(P44)子供達は無意識にこのことを行い、ポジション取りに成功したものは1年間、いじめに遭うリスクを最小限にすることができ、成功しなかったものはハイリスクな1年間を過ごすことになる。ここでコミュニケーション能力の話になるが、コミュニケーション能力とは具体的に何をそう呼ぶのだろうか。改めて考えてみるととても意味が曖昧な言葉である。そこで著者はコミュニケーション能力を3つに分類した。(P44)
・ 自己主張力 集団の中で自己主張する力
・ 共感力 他者と相互に共感する力
・ 同調力 クラスのノリに同調し、場合によっては空気を作っていく力
この3つの総合力(自己主張能力+共感力+同調力=コミュニケーション能力)を主因としてスクールカーストが決定される。さらに著者はこの3つの能力の高低によって占めがちなポジションを図で表している。例えば、全ての能力が高い人は皆から認められるリーダーとなり、カーストの地位は最高ランクとされ、おそらくいじめの被害者にも加害者にもならないであろう。自己主張力と同調力が高く、共感力が低い人がいたとすれば、この人もランクは高いが、周囲はこの人に対して自分勝手な印象を持ち、さらにいじめの加害者になる可能性が大となる。ここで注意したいのはスクールカーストが上位の人が必ずしもいじめの加害者にならないということである。
スクールカーストにおいてコミュニケーション能力が重要であるということは言われていたが、どうしてコミュニケーション能力が重要であるのか、またコミュニケーション能力という曖昧なものを分類化した森口氏の研究はとても大きな意味があったと思う。
これまでの経過と改めて人間の尊厳とは何か
私の考える人間の尊厳とは、人が何か考えを発する権利や、その発言によって傷つけられない権利である。それは、誹謗中傷や、反社会的な発言が行われたときに、その対象となった人の人間の尊厳が犯されていると考える。
私はネット右翼という言葉を知らないどころか、2チャンネル自体にも検索で引っかかった時にしか立ち寄らない程度であり、このテーマについてほとんどゼロの状態から始めたために、まずは、ネット右翼とはどのようなものなのか、というところから始めた。だが、ネット右翼と検索にかけてみても、ネット上で右翼的な発言をする人としか出ず、最初からつまずいた。しかし、ちょうど、STAP細胞問題や、従軍慰安婦問題、集団的自衛権の問題などといったネット右翼たちが食いつきそうな問題がでできたため、それに対しての投稿を集めてみた。すると、普通、面と向かっては言えないような過激な発言や、非人道的な発言が多々載っており、根拠なしにただ批判したものや、右翼の思想と絡めた発言ばかりで、正直驚いた。こうしてネトウヨの存在について知ることができたので、次は特徴を調べた。すると、民主党が嫌い、中国韓国が嫌い、在日が嫌いなどと載っており、また、社会的地位が低い、経済力は低収入、対人関係は不得意であるとあった。だが、後者の社会的地位や、経済力、対人関係についてはネトウヨたちの活動を見たところあまり共感できず、なぜなのかと疑問に思った。そこででてきたのが、古谷経衡さん(評論家、著述家)である。古谷経衡さんの書いた、「ネット右翼の逆襲」という本では、独自にネトウヨと思われる人1000人にネット上で独自にアンケートを取ったところ、学歴、収入ともに、平均並み、もしくは平均を上回るくらいで、恋愛経験も並みであるという見解を示した内容が書いてあった。なので、そのような考えはメディアの誤った表現や、「電車男」のような映画にも表れているように、私たちの勝手なイメージから生まれてきてしまったものではないかというように思えた。そして、その本に、今まで検索しても出てこなかった、ネトウヨ的発言の多い掲示板サイトが載っており、そこで改めてネット右翼たちの発言を見た。やはり予想通りで、在日に対する批判をはじめとした痛烈な批判ばかりで、あった。
こうして調べていくうちに、最初は、「なぜこんな発言ができるのだろうか」という疑問だったが、「こうやって発言できるのはネット上であり、相手が見えないからであろうか。実生活とは違うネット上の自分を演じているのだろうか。また、本当に本心で言っているのだろうか」という風に変わった。なので、先生に指摘されたように、演じているその人にとっての尊厳とは何かということもこれから考えていきたいと思う。
人間らしい、人間の尊厳って何?
人間の尊厳とは「どんな人も持っている、人として尊敬されかつ守られるべきもの」であると考える。これは年齢や性別、病気の有無に関わらずすべての人が持っているものである。
まず、「人間らしくある」ということはどのようなことなのだろうか。
ここで日本国憲法第十一条をみてみると「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と規定されている。つまり、調べてみると「人間が人間らしい生活をするうえで、生まれながらにしてもっている権利」と書かれている。このことから、人間の尊厳と基本的人権を尊重することは似ているものであると言うことができるのではないだろうか。
私たちは働くことによって収入を得ている。その得た収入があるからこそ、住む場所があり、食事をすることができ、睡眠をとることができる。また洋服を着たり、生活用品を買うこともできている。つまり「人間らしくある」ということは「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」と言うことができるのではないだろうか。残念ながら「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活していく」には食材や生活用品の購入などによりお金が必要になってしまう。職を得て十分なお金を稼いでいる人にとってみれば、このようなことは大きなことに感じないかもしれない。しかし、現実には働くことができず、家がなかったり、十分な食事がとれなくて苦しんでいる人がいる。親から十分な食事をもらえずお腹を空かしている子どもがいる。果たしてこのような苦しい思いを抱えた人々は人間らしい生活を送っていると言えるのだろうか。「人間らしく」生きていくためにはお金が必要であり、そのお金を得る代わりに働かなければならないのである。この「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」人間らしさというものは最低限の条件であり、「年齢や人種、性格や見た目で傷つけられたり、差別されたりしないこと」と「誰もが1人の人として存在していることを否定されない(尊敬される)」という1人1人の人間を守る見えないルールが組み合わせられることで人間の尊厳が守られていると言えるのではないだろうか。
では、ここで私の調べているテーマである「学校現場で教師が子供に不快に思うようなことや傷ついてしまうようなことを行うことは、子供の尊厳が侵されている」ということを関連させながら考えていきたい。
学校は子供に社会で生きていくために必要な力(学力・団結力・リーダーシップなど)を身に付ける場である。だからこそ教師は子供を「教育」しなければいけない。このようなことから教師は、子どもが誤ったことを行った場合には叱り、正しいことを教えてあげなければならない。このような教師と生徒という関係には必ず教師が「上」で生徒が「下」という上下関係が存在する。この構造を利用して教師は子供の尊厳を侵してしまうことがある。
まず、「叱る」という行為に関して、生徒は子供という前に1人の人間である。だからこそ、人として尊厳されなければならない。教師は敬意をもって叱ることが必要であるだろう。次に「教師と生徒」という上下関係を利用することである。最近では教師によるセクハラや体罰が多く問題となっている。子供からしてみれば、様々なことを教えてくれる人生の先輩からのセクハラや体罰はショックなことであろう。
私は小学校から高校までの担任の先生や部活動の顧問の先生にあこがれて、教師になることを目指すようになった。また、先生に怒られたことは今でも忘れることはできなく、今でも気を付けるようにしている。
このように、子供にとってみれば教師は「一日の大半を一緒に過ごす大人」であり子供への影響力は良くも悪くもとても大きいものである。だからこそ、教師は子供との接し方を考えなければならない。子供の成長のカギを握るのは親だけでなく教師も同じである。実際に学校現場を見てみると、子供が1人の人間であるという前提を考慮せず、教師と子供の上下関係を利用して叱る姿を目にすることがある。
先にも述べたように、人間らしく生き、尊厳されるということは年齢や人種などに関わらずすべての人に平等に与えられているものである。私たちは目先の年齢や学歴などの上下関係にとらわれがちであるが、その前提に誰しもが守られるべきルールがあることを忘れてはならない。
*参考URL
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/seiji/01_3_3_kihonnteki.htm
アスペルガー症候群といじめ
訪問先のフリースクールに今後のご協力のお願いとご意見・実態をうかがいました。
その際に、私の研究テーマでもある「いじめ」は「アスペルガー症候群」の子が受けやすいというお話を聞き、
いじめとアスペルガー症候群の関連を調べてみました。
アスペルガー症候群とは、自閉症のタイプの1つです。
アスペルガー症候群であるかどうかの診断は
①他の人との社会的関係をもつこと
(他の人と一緒にいるときに、どのように振る舞うべきか)
②コミュニケーションをすること
(自分の思っていることを相手にどのようにして伝えるか。相手の言いたいことをどのように理解するか)
③想像力と創造性
(ふり遊び、見立て遊び、こだわり)
の3つの分野に障害をもっているかどうかでみられます。
アスペルガー症候群の人がいじめにあいやすい理由はその特徴にあると考えられます。
アスペルガー症候群の人は人の中で浮いてしまうことが多いのです。
たとえば、思ったことをそのまま相手に伝えてしまうこと。その言葉で相手が傷つくとはなかなか考えに至らないのです。悪意はありません。
また、同年齢のこどもと波長も合いにくいのです。年長のこどもにリードされたり、年少のこどものリーダーとなったりして遊ぶことを好み、自分の思い通りにならなければかんしゃくをおこしてしまいがちです。
相手に理解してもらおうとする話し方ではなく、自分の関心があることを一方的に話してしまう傾向もあります。
また、言葉のキャッチボール(コミュニケーション)をすることも苦手です。
言葉をなげたり、受け取ったりすることができないのではなく、楽しむことが苦手なのです。
そういったときに、周囲に「ふざけている」「やる気がない」「協調性がない」と思われがちなのです。
自分たちとは違いがみられるアスペルガー症候群のこどもに対して、その違いを「いじる」ことから「いじめる」ことに変わっていってしまうことが少なくないそうです。
また、少しからかっただけのつもりがアスペルガー症候群のこどもはいじめだと思い、激怒し過剰反応することで、そのつもりがなかったこどもたちも疑いをかけられたことを心外に思い、離れて行ってしまう。
無視してしまう。
このように状況が悪化してしまうこともあるそうです。
アスペルガー症候群のこどもが浮きにくい、いじめられにくい環境づくりも教師の仕事の一つになるということを感じました。
対策としては、
・予測しやすい環境をつくること。
(アスペルガー症候群のこどもは予測できないことや変化が苦手)
・安全で穏やかな環境をつくること。
穏やかな話し方をするように気を付けること。
(騒々しい環境が苦手)
・ルールや指示は明確にすること。
・できるだけポジティブに接すること。
・こどものこだわり、関心ごとは矯正するより何かに生かす方向で考えること。
・試すような行動をされても冷静に対応すること。
が考えられます。
引用・参考
人間の尊厳とは
人間の尊厳とは何か、そのことを考える上で代表されるのはハンナ・アレントの“人間の条件”だ。
仕事・労働・活動の中で、マルクスが最も“労働”をメインとした“マルクス主義”をハンナは批判し、三つの基本的な人間の活動力(仕事・労働・活動)の中で、唯一人間的なものは“活動”であると述べた。
なぜなら、仕事・労働は生命維持と密接に関係しているので、人間だけでなく他の生物も共通して行っているのに対し、活動は多様性に富んでいて直接的には生命維持とかかわらないので、より人間的な行動だからだ。
このようにハンナが述べた人間の条件を、太田先生は「多様性かつ平等で個人を表現できること」と要約した。
このことから、人間の尊厳は、憲法二十五条の生存権
“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”
よりも、憲法十一条
“国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。”
憲法十三条
“すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。”
といった基本的人権の尊重と重なると考える。
よって、店員の“人間の尊厳”が保たれている状態とは、店員である前に一人の人間であるので客と店員の立場関係が平等であり、「郷に入っては郷に従え」ではないが客が店側の行動やきまりを尊重できることだと考える。
だからこそ、横柄な態度は“平等さ”を欠き、自分の価値観を押し付けるような理不尽な要求は“多様性”を認めていないという点で“人間の尊厳”を侵しているのだ。
これまでのことを踏まえて、これからは「クレームと苦情の違い」や「どのようなクレームがあったか」、「客と店員の立場関係の認識」などをアンケートから読み取っていきたい。
人間の尊厳とは
人間の尊厳について考える際に、人間的であることの条件について考え、その条件が揃っていることが、人間の尊厳が保たれていることであるとした。人間的であることの条件とは、ある人が、考えたり、行動したりしても否定されることなく受け入れられる状況にあることが考えられた。
実際の場面で考えてみると、その人の存在が無視されているような状態や、その状況により、自分の存在に自信が持てないことが起きていれば人間の尊厳が保たれているとは考えられない。
人間の尊厳が保たれていない状況として、私が今まで通ってきた学校で見てみると不登校となる気持ちになることがあると考えた。例えば、いじめなどにより学校に行きたくても学校に行くことができない状況にあることや不登校になって地域など世間的に非難されることにより持つ自己を否定する気持ちが人間的に生きられていないと考える。
不登校のきっかけとなる状況には様々なものが考えられる。文部科学省の不登校の調査の項目には、いじめ、いじめを除く友人関係をめぐる問題、教職員との関係をめぐる問題、学業の不振、進路にかかる不安、クラブ活動・部活動等への不適応、学校のきまり等をめぐる問題、入学・転編入学・進級時の不適応など学校に関わることとして挙げられている。また、家庭にかかわることとして、家庭の生活環境の急激な変化、親子関係をめぐる問題、家庭内の不和があり、本人にかかわることとして、病気による欠席、あそび・非行、無気力、不安などの情緒混乱、意図的な拒否が挙げられている。
不登校のきっかけの中でも、いじめや学業の不振、不安や不適応によるものは、自己に自信が持てないことやある人が受け入れられていない状況にあることが考えられる。その他に、意図的な拒否というものは、自ら選択して学校に行かないことをしている場合は人間の尊厳が侵されている状況ではないと考える。
学校に通っていることで人間的な側面が否定され、学校へ行って学ぶことや、それ以外の活動のためのエネルギーが奪われてしまうことは起きてはならないことだと考える。人間の尊厳が保たれるために、学校での支援のあり方や、どのような制度があるか、家族間の関わり方をまとめていきたい。
人間の尊厳とは
「人間の尊厳」を考えた時、まずは「侵してはならない領域」だと考えました。人にはひとりひとり個性や人格がある。それは自分で形成していくものであり、手に入れていくものであり、他人に侵されていい領域ではない。当たり前のことではあるが人の人生は一度きりしかなく、その人生は紛れもなくその人のものだ。誰によって侵されてしまうのか?それはやはり他人であると考えました。
例えば学校でのいじめ、暴力、暴言などで自分の人格や個性を否定されることは、その人の尊厳を侵しているということではないだろうか。
生きていく上で、ひとりで生きていくことは不可能だ。誰しもが不特定多数の集団の中で生きていく。それが小さくても大きくても、周りに人がいるという状況は皆同じだろう。
その中でひとりひとりが自分らしく生きていくためには、互いに尊重し合い生きていくことが大切だと考えた。人の言葉ひとつで立ち直れないほどの傷を負うこともあれば、傷を負ったまま自分の命を終わらせてしまう人もいる。他人の影響力と言うのはそれほど大きいものなのだろう。
その不特定多数の中で自分の人格や個性をもち、自分らしく生きていくことが自分自身の尊厳をを保っている状態なのではないだろうか。
自分らしく生きる=自由奔放に生きる、好き勝手生きる、とは違う。それは逆に他人の尊厳を侵している状況になるかもしれないからだ。誰の尊厳も侵さずして、自分の尊厳を保つ。それが理想の形なのだと思う。
学校という場は誰もが通る道であり、人が人を「教育」する場として非常に貴重な時間であると思う。そこで享受したことを抱えながら子供は大人になる。大人に比べて子供はより吸収し身につけてしまう。その中で教師の発言によって子供の尊厳が侵されるということは多いのではないかと思う。実際にそういった場面はあるのか、どんな発言が影響を及ぼすかということを自分が教師を目指すにあたって、この研究を通して学びたいと思っています。