~人間の尊厳とは~

“尊厳”とは「尊く厳かで、侵しがたいこと」と広辞苑に記されている。これを踏まえると、「人間の尊厳=人間とは尊い存在であること」と考えることができる。つまり、尊厳が守られている状態とは「自分は価値ある人間だ」と“思える状態”であると私は考える。逆に尊厳が守られていない状態とは何か。単純に、守られている状態の逆であると考えれば、「自分は価値ある人間だ」と“思えない状態”のことである。

では、どのような時に尊厳が侵されてしまうのか、私のテーマである「視覚障害」の観点から考えてみようと思う。

障害者への支援、点字や音声信号など、特に視覚障害者への支援はかなり昔から様々なことが行われてきた。しかし、視覚障害者の全員が点字を読めるわけではなく、音声信号の設置も義務付けられていないので、その普及率もさほど高くない。ある調査によれば、視覚障害者とそうでない人の外出頻度とその距離には大きな差があるという結果も出ている。その理由には、「外を歩くのが怖い」や「慣れていないところに行くのに抵抗がある」などがあった。彼らが遠出をする際、点字ブロックの無い道や電車やバスなどの乗り降りに大きな不安を抱えてしまうことは容易に想像できる。目が見えていたなら、もっといろいろな所へ出掛けて行ったのではないかと思う。同じ人間でありながら、障害の有無によって活動を制限されてしまう現状の中、自分自身の価値を見出し、感じ続けることは難しいのではないか。つまり、尊厳が侵されてしまっているのではないかと、私は思う。

障害者が本当に求めている支援を私たちは考えていかなければならない。

特別支援 ー視覚障害ー

私は特別支援の中でも特に「視覚障害者への支援」について焦点をあてて調査していきたいと考えている。視覚障害を抱えている人の数は、程度の差もあるが全国におよそ30万人いると言われている。これだけ多くの視覚障害者がいる社会で、いったいどんな教育がなされているのか。そしてそれは障害者本人たちにとって十分な支援となっているのか。

ゼミのテーマである「人間の尊厳」とは、すべての人間は価値ある存在だということである。しかし、私は様々な場面で視聴覚障害者の「人間の尊厳」が侵されていると感じている。

視聴覚障害は、他の目に見える身体的障害と比べその程度は分かりにくい。そのため、彼らへの支援は十分なものとなっていないのではないか。足が不自由であったり、手が不自由であったりする人への支援は十分とまでは言えないが、近年充実してきている。(例)建物や駅でのスロープやエレベーターの設置など。

しかし、視聴覚障害者への支援は少ないように感じる。視覚障害者の支援の例としてメロディーの流れる横断歩道があるが、その設置率は極めて低い。

同じ人間として価値ある存在であるにも関わらず、現在のような支援の少なさでは、自分は価値ある存在だということを思うことは難しいのではないか。そこに、人間の尊厳が侵されている現状を感じる。

このような観点を踏まえ、健常者と様々な障害者における支援の質に差はないのだろうかという点を中心に調査を進めていきたいと考えている(現在の私個人の意見としては、大きな差があると感じている)。

 

調査方法としては、自分自身で目隠しをして日常生活を体験、文献の活用、実際に特別支援学校などに行き、現場を直接見たり、話を聞いたりしたいと考えている。しかし、どんなに多くの文献などを当たったとしても、実際に自分の目で見て、耳で聞くことにはかなわない。そして、そこでアンケートを取り、「(視覚障害者は)どんなことに不便さを感じているか、また、どんなことをしてほしいと思っているか」の調査をし、そのアンケートの結果が視覚障害のない人たちの思う必要な支援と、どれだけの差(ギャップ)があるのかを調べたい。ここでのギャップから、今後の障害者教育への課題を追求していきたい。

*現在特別支援学校に勤めている、テニス部のOBに調査が可能か聞いている段階である。