武蔵野市の外国人を含む住民投票案の否決は残念だ

 既に決まっていることで、しかも日時が経過してしまったが、今年の終わりのテーマとして書いておきたい。
 日本人と同じ資格(居住3カ月)で、住民投票の権利を外国人に付与するという案が、議会に提案され、それが否決されたのが事実だ。ほとんど同じ内容での住民投票を認めている自治体が、実際にはある。大阪豊中市と神奈川県逗子市で武蔵野市提案内容と同じ内容で施行されているそうだ。その他に条件は違うが外国籍を認めた住民投票の規定があるのは43自治体だそうだ。大阪といえば、維新のお膝元だから、ここで実施されていることは、驚きでもある。
 さて、この条例案に対して、反対派たちが行った運動は、いかにも醜悪だったといわざるをえない。外国人の住民参政権の提案についても、同じような反対がなされたが、いっていることがあまりに荒唐無稽というべきだろう。

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教育学を考える28 教育的価値2

 他の領域の価値ではなく、教育独自の価値は何か、それはあるのか。
 ずっと考えているのだが、かなり難しい問題であると感じた。つまり、これが教育的価値であるという内実が、あまり出てこないのである。勝田も「全面発達」しかあげていない。「全面発達」自体がかなり論争的な問題であるから、そんなありもしない概念が、価値というのはおかしいという批判もでてきそうである。勝田の議論は、教育的価値を論ずる場合の歴史性とか、産業構造とか、周辺の検討に終始して、本丸になかなかいかないのである。
 
 もう少し、教育の基本から考え直してみよう。
 宮原誠一の有名な「教育の本質」規定について考えてみる。1949年に書かれた「教育の本質」という論文で主張されていることは、現在なお有効であるといえる。それは、ふたつのことをいっている。

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アバドのカルメン

 アバドが最初にオーケストラの常任指揮者になったロンドン交響楽団の録音を集めたボックスを購入して、最初にカルメンを聴いた。実はアバドのオペラボックスにも入っているので、それを聴いているのだが、よかった印象なので再度聴きなおしてみたのだ。
 私がはじめてレコードで聴いたオペラが、カラヤン指揮のカルメンだった。今の人たちには想像もつかないだろうが、そのレコードにはボーカルスコアがついていた。そのころは、楽譜がついたレコードはけっこうあったものだ。そのボーカルスコアを懸命にみながら、何度も聴いたものだ。いまでも、カルメンの代表的録音だと思う。しかし、その後はCD時代になっても、カラヤンのウィーン・フィルのカルメンはなかなかCD化されず、SACDで出たが非常に高かったので敬遠。数年前にやって、レオタイン・プライスのオペラボックスに入っていたので、本当に久しぶりに聴いた。今はこういうどっしりしたカルメンはやらないだろうが、やはり、このオペラの情熱の放出ぶりはすごい。

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教育学を考える27 教育的価値1

 教科研の教育学部会で、教育的価値についての議論があったそうだ。教科研ニュースに議論の紹介が比較的詳しく紹介されている。しかし、私には、極めて基本的な問題、そもそも「教育的価値」とは何かという点は議論されていないので、不満だった。教育的価値は、教科研の戦後初期の理論的リーダーだった勝田守一の主要な主張のひとつだったから、「教育的価値」とは何かについては、議論の余地がないと考えられているのだろうか。勝田守一著作集第6巻の目次をみると、「教育的価値」という言葉がでているのは、一カ所しかない。「教育の概念と教育学」という1958年に書かれた論文に「教育的価値」という節がある。しかし、この論文においても、では何が教育的価値なのかということは、「例えば全面発達」といういい方がされているだけで、それ以上の具体的価値内容は記されていないのである。
 
 では、教育的価値とは、どういう文脈で出てくるのか。

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鬼平犯科帳 盗賊の連絡法

 前回、密偵たちと与力・同心の連絡法について考えたが、その最後に、盗賊たちのつなぎについてと予告した。ただ、それを整理していると、どうしても気になることがある。
 「鬼平犯科帳」は、もちろん創作としての小説だから、事実とは異なっているが、しかし、実在の長谷川平蔵が主人公であり、かなりの部分歴史的事実を踏まえている。実際に長谷川平蔵が扱った事件が、題材になっているものもある。だが、ほとんどの物語は作者の創作であり、実在した長谷川家のひとたち以外の人物も、ほぼ創作である。しかし、長谷川平蔵が、実際にたくさんの盗賊を捕らえたことは事実なのだが、盗賊たちのあり方についてはどうだったのだろうという疑問が残るのだ。長谷川平蔵が活躍していた時期に、江戸の街に盗賊がはびこっていたことは、事実であるし、長谷川平蔵が火付盗賊盗賊改方に抜擢されたのが、江戸の大規模な打ち壊しを鎮めるために大きな力を発揮したからだといわれている。

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日本は本当に能力主義社会か12 コネ採用 日大田中体制から

 本日(12月26日)に時事通信の記事「日大に「縁故採用」規定 職員応募、学長・監督の推薦必須 田中体制で強化」が掲載されている。 https://news.yahoo.co.jp/articles/ba0fe2910f8dfe7d2fffb640a175eaa6ea49c1dc
 ヤフコメが実に多様な意見が出ていて、珍しい現象だと思う。また見出しを読むと、日大が縁故採用をルール化しているような印象を与えるが、記事を読むと、必ずしもそうではない。
 記事によると、日大の2022年度大卒職員(一般職)採用選考試験実施要項によると、応募資格は
(1)大学の長等(他大学の長も含む)により推薦された者
(2)日大競技部に所属し、優秀な競技歴を有し、かつ将来競技部の監督・コーチの後継者となることについて期待し得る者
(3)日大任期制職員(一般職)にある者で、所属部科校長等により推薦された者
 要するに推薦状が必要であるとしているだけで、推薦状を大学が発行する場合には、実際に文章を書く人がだれかは別として、推薦する名義は学部長であったりする。ただし、この記事が批判的に扱っていることは、このことではなく、以下の部分だと思われる。

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遊びと学習3

 今回は具体的にどのようなことが、学校教育における子どもの指導で、遊びと学習という観点から大事なのかを考えてみる。
 以下は、ケン・ロビンソン『創造的な学校』の最初に出てくる話だ。
 ある公立の中学は、かなり荒れていて、赴任する校長が直ぐに交代してしまうような学校だった。そのなかで、ある校長が腰をいれて実践を始めた。当初は、とにかく喧嘩をさせないことにエネルギーを注ぎ込まざるをえなかったというが、やがて、喧嘩をしなくなると、学校の勉強などは嫌いな生徒たちに対して、各人にとって重要なことを、そのまま認め、教師たちに遠慮なく没頭できるようにした。

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遊びと学習2

 人間の脳が、遊びのような活動をしているときに、最も活性化するということから考えて、学びの効果は、遊び的要素によって向上することは、容易に想像できる。かつて、優れた業績をあげた人は、その分野に取り組んでいるとき、かならず遊びの精神をもっていたに違いないのである。もちろん、そこには大きな壁を乗りこえるという苦難があっただろうが、それも楽しいこと、好きなことをやっているからこそ克服できたのであろう。
 以上のことを踏まえて、学校教育について考えてみる。各種調査によって、日本の子どもたちは、学校に楽しくて通っていることがわかっている。もちろん、いじめや不登校という問題もあるが、大多数の子どもたちにとって学校は楽しいところなのである。しかし、その楽しさは、友達と一緒に過ごせるからであり、勉強が楽しいという子どもは、極めて少数しかいないこともわかっている。本来学校は学ぶところなのだから、勉強が楽しくなければ、効果的な学習をしている子どもはわずかしかいないことは、疑う余地がない。そして、その傾向は、近年ますます高まっている。
 学習指導要領による内容規制だけではなく、スタンダードなる言葉によって、教え方、行動様式までが、ある一定のものに揃えることが志向されている。

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遊びと学習1

 子どもが遊ばなくなったといわれるが、コロナは遊びについて考えさせる契機ともなっているようだ。コロナで行動が不自由になり、遊びも制約され、家庭内でのゲームなどが増えたというようないい方がある一方、全国の学校が休校になり、学校という制約がなくなったので、子どもたちは自由に遊べるようになったという人もいる。(神代洋一「新たな子ども時代の遊びを」『教育』2022.1)そういえば、全国学校休校中、我が家の前の公園では、けっこうたくさんの子どもたちが遊んでいたように思う。ただ、それが一般的な現象だったかどうかはわからない。
 コロナとは無関係に、昔風の子どもの遊びが少なくなってきたことは、時代的趨勢として確実にいえることだろう。地域によってずいぶん異なると思うが、理由はいくつか考えられる。

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悠仁親王が筑波大付属に進学?

 文春オンライン2021.12.22に、「悠仁さまの進学先は『偏差値67』筑波大学付属校」という記事が配信された。題名だけで判断すると、筑波大付属に決定したかのようだが、記事を読むと、その可能性を示唆したような文章だ。お茶の水女子大のほうで、提携校進学への出願にゴーサインがだされたようだという、秋篠宮家関係者の談話が載せられ、筑波大学の学長を直撃したところ「可能性がある」という回答だったという。今このブログを書いている時点で、配信から50分程度経過しいてるが、コメントはまだついていない。(他のことをしていて、4時間経過したが、いまはコメントが5000近くついている。) 
 決定したのかどうかは、わからないが、その可能性があるという点で考えてみよう。
 ひとことでいえば、「合格おめでとう」と、本心から言ってくれる人など、ほとんどいないだろう。少なくとも、ずっと注目されているこの問題について考えてきた人であれば、肯定的に考えられる要素が、ほとんど思いつかないくらいである。

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