他の領域の価値ではなく、教育独自の価値は何か、それはあるのか。
ずっと考えているのだが、かなり難しい問題であると感じた。つまり、これが教育的価値であるという内実が、あまり出てこないのである。勝田も「全面発達」しかあげていない。「全面発達」自体がかなり論争的な問題であるから、そんなありもしない概念が、価値というのはおかしいという批判もでてきそうである。勝田の議論は、教育的価値を論ずる場合の歴史性とか、産業構造とか、周辺の検討に終始して、本丸になかなかいかないのである。
もう少し、教育の基本から考え直してみよう。
宮原誠一の有名な「教育の本質」規定について考えてみる。1949年に書かれた「教育の本質」という論文で主張されていることは、現在なお有効であるといえる。それは、ふたつのことをいっている。
第一に、形成と教育を区別すること。人間の発達は四つの要因があるとし、社会的環境、自然的環境、個人の生得的性質、教育である。前の3つは自然成長的なものであって、意識的行為としての形成ではない。それに対して、教育は、他の3つを含めて、望ましい方向での発達を目的意識的に働きかける行為をいう。これらを分けることは、大きな意味をもっている。教育は独立した領域で成立するのではなく、環境や生得的な性質を前提にしていること、そして、教育だけではなく、社会的環境や自然的環境の改善も含めた教育計画が必要であることを示している。
第二に、「教育という社会の機能は、社会の他の基本的な機能と平行するひとつの基本的な機能ではなくて、社会の基本的の諸機能再分肢にほかならない」という宮原の規定、つまり、再分肢説といわれる考えである。宮原は、明確に教育は、社会の他の基本的な機能と平行するひとつの基本的な機能ではないと書いている。
勝田の教育的価値論は、宮原の再分肢説への批判と考えることができる。
「教育は、教育の外にあるもろもろの価値を実現する過程として、その目的にてらして有効性という点だけで価値づけられるだろうか。しかし、もしそれだけだとすると、教育は、他の諸価値の実現の手段にすぎないことになる。それによって教育の内的な本質規定は不可能になる」(著作集6巻p430)
厳密にいえば、教育は、教育の外にある価値を実現するわけではなく、価値を実現するのは人間であり、実現する能力をつけるのが教育である。教育はあくまでも人間の形成であって、その「人間」に要求される能力や資質を「目的意識的」に働きかけることによって、現実化することである。宮原の教育の本質規定は、そういう意味だから、教育の外にあるものの実現という点でも、教育の本質を規定することは可能である。
しかし、宮原のように教育の本質を規定すれば、それで十分かといえは、勝田は不十分だというのだろう。価値には対立があるということ、そして、教育的であると考えて教えていても、それは反教育的であったということも実際にある。体罰を愛の鞭と考える人がいる。法的には認められないが、教育現場では効果的な教育方法なのだと信じている人がいる。もちろん、多くの人は否定的だが、体罰を受けた側でも、「あの時先生が真剣に僕を殴ってくれたから、私は目が覚めて正しい方向にいくことができました」と真剣に語る学生は少なからずいたのである。純粋に教育効果からみれば、体罰は多くの場合マイナスの効果(反省しないし、適切な認識をもたせることもできない)を生むが、プラスの効果をあげることもある。スクールカーストを学級運営に活用して、秩序を実現しようとする教師もいる一方、スクールカーストを子どもたちの抑圧システムと考えて、平等な人間関係に変容させようとする教師もいる。ここでは、「教育的である」ことに対する対立する見解があることが示されている。
これに対して、矛盾のない教育的価値は、存在しうるのだろうか。(今日はここまで)